第2話 穴があいていない靴
生ぬるいシャワーを浴びながら、グエンは脱ぎ捨てた靴を一瞥して自分のやることリストに一つ付け加えた。
金が入ったら新しい靴が必要だ。つまり、穴があいていない靴が。
勿論、今まで穴があいた靴を履いて駆け回った事はある。屋根がない場所で寝泊りしたことも。砂漠のど真ん中で数ヶ月篭ったことも。雨に濡れて台無しになったクソ重い特殊装備を機密保持という理由で捨てられず、着続けて移動したことも。
だが何事にも限度がある。
第一に、ここは戦場ではなく立派な近代都市だ。
第二に、自分はとっくに退役した一般人である。
つまり、穴の開いた靴を履くのは犯罪だということ。
グエンは今日千回目のため息をついて、鏡の中の男をじっくりと観察した。
赤毛混じりのチョコレート色の髪をした男が立っていた。
「よう色男」
グエンは肩までのびた髪をかき上げて、最後に髪を切ったのはいつだったか思い出そうとした。
くそっ、半年も前だ。
「ちくしょう。グエンドリン、髪を切る金もないのか?」
薄暗いバスルームの中、灰色の瞳だけはきらきらと輝いていた。この瞳の色だけは、父と祖父にそっくりだ。
軍人時代にしっかりとついた筋肉は、入院生活でだいぶ――いや、すべて落ちてしまった。
残ったのは目つきの悪い赤毛の男だけだ。
「元気出せって」
これはいけない。
鏡に向ってブツブツと思い悩んでいるのは、精神衛生上いいとはいえない。
グエンは心理学の講習を思い出した。
――――なるべくポジティブな問いかけをせよ。そうそう。
「まだまだやれるはずだぜ。グエンドリン」
鏡の中の男が引きつった笑みを浮かべた。
――――最高の自己イメージを保つべし。
「お前の最大の武器は――…………えーと」
人を殺すのは得意だ。うん。特に自慢にはならないけれど。だが、今でもそれで食っていける。
「特殊部隊の優秀な隊員だった。いくつかの作戦に参加した。それに……四ヶ国語しゃべれる。これも武器だ。エンジンがついていれば、だいたい運転できる。宇宙船だって! そんな機会があればの話だけど――ともかくシミュレーションでは、ダントツの成績だった。すごいぞグエンドリン! 宇宙飛行士にでもなっちまうか?」
鏡の中の男が眉を顰めた。
「わかってるよ、グエンドリン。宇宙開発が無期延期になったってのは知っている。得意科目『人殺し』の俺にだって、最低限の知能はある」
――――自らを信じよ。
「くそ重い装備一式を担いで砂漠中を駆け回った。自制心、体力、直感、なかなか良いものを持っているはずだ。それに――――」
科学者どもがいじくりまわしたおかげで基礎筋肉量も記憶力も、精神力も他の人間より高い。グエンは心の中で付け加えた。
「やっていけるさ」
グエンはまだ濡れている頬をなで上げた。
自分が急に歳をとった気がする。今いくつだっけ? 二十三歳? 違う、それは何年か前の話だ。まだ戦時中だった。あの時は大規模な作戦中で、快適とはいいがたいボートに閉じ込められて散々だったが、仲間たちが祝ってくれた。今では彼らの半数が墓石の下だ。
グエンはため息を付いてタオルを引っ張り出した。
十代の頃の自分は人生に絶望し、学校を卒業したと同時に穴の開いた靴を脱ぎ捨てて軍隊に逃げ込んだ。
そのときの俺は思いもしなかっただろう。作戦中に片足を吹き飛ばされて一年も入院し、その間に人類は平和主義に転向し、戦争はきれいさっぱりなくなり、無一文寸前になり、また靴の穴の心配をしているなんて。
「忠告が必要なようですね」
ぼんやりと鏡を見上げると、ゾラックが真後ろに突っ立っていた。
「分解されたくなかったら、黙っていてくれ」
「そうはいきませんよ、グエンドリン。私がついていながら、破産したとなったら、お祖父様が墓石の下でのた打ち回ります」
グエンは人造人間一体にかかる天文学的数字のメンテナンス費用を指摘しようと思ったが、あと一息でとどまった。フェアではないかも知れない、と微かに頭をよぎったのだ。
ゾラックの知性は好き好んで金属とプラスチックと人造神経細胞でできた脳みそに宿ったわけではない。
「それは君流の物言いで全部自分に任せておけってこと?」
「私が金策に関しては超突猛進型なのをお忘れなく」
たしかに。
「まず、経費ですが、装備の消費を控えるべきですね。ここは特殊部隊だかなんだかではなく装備は全て自腹です。国があなたの弾代を払ってくれるわけではないのです」
「それは最近気付いた事の一つだな」
「砂漠の真ん中で放置された車両の部品から無線を作り出したって話は眉唾ですか? いまこそサバイバル精神を発揮する時ですよ」
「ここは砂漠の真ん中じゃない。メール一つにでも金がかかるんだよ」
「ここは都市部ですから、砂漠で生活するより金がかからないかもしれません」
「木を削って棍棒でも作るか。棍棒で人を殺しまくる殺し屋ってのも新しいかもな」
「数万年前には、人類は棍棒一つでマンモスと戦っていたのですよ」
「君の助言はそれだけか? この現代社会で棍棒を自作すること? 十歳の子供だって、もっとましな事を言えるぞ」
ゾラックは眉をしかめて一歩引いた。
「『人間を愉快な気分にする機能』を試してみたのですが」
「は、ははは。わかった。君は面白い。これで満足か?」
「その嘲笑めいた笑みは『偉大なる』アイザック&ユーリ社の『素晴らしい』人造人間製品に対する侮辱ですか?」
「違うよ。君の、ゾラック、君個人の知性に対する侮辱だ」
ゾラックは鼻を鳴らした。
「言っておきますけど、人造人間を処分するのだってお金がかかるんですか――」
ゾラックが息を詰めて、ハッと目を見開いた。
「通信あり」
一瞬の間。
「うーん、興味深い内容ですよ。なんだと思います?」
「私的な手紙を読むのは連合法違反だぞ。さっさと転送しろ」
バスルームの中央にモニタがぼんやりと浮かび上がり、丁重に暗号化されたコードを解くとたった七文字の文章が表示された。
七文字でもグエンの精神を上向きにさせるには十分だった。
『仕事あり バーへ』
グエン意味を理解するが早いか、逃げるように部屋を飛び出した。