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第24話 仲直りのチョコレート

 グエンは息をはいてから、リュガン・イズリントンの部屋のドアをノックした。

 彼女の住所は一時間前にソルに頼んで調べてもらったのだ。

 戦前に立てられた古風なレリーフが美しいどっしりとした建物は、影をつくり、グエンのこれから対決の行く末を暗示しているかのようだった。

 オーケー、落ち着け。女の部屋を訪ねるのに、死ぬほど怯える必要はないはずだ。大抵の女はどこからもなく住所を突き止めた男を死ぬほど警戒するが、それはこの際しょうがない。

 インクに少々、泥をまぜても黒は黒。

 グエンは子供の頃聞かされた、小話を思い出してチャイムを押した。

 リュガンがむっつりとした顔で、ドアを開けた。グエンは一瞬足でこじ開けて部屋に押し入ろうと考えたが、すぐに思い直した。

 少なくとも許可を取るべきだ。野蛮人ではなく、紳士的で模範的な態度を取れる人間として。


「やあ」


 ステップ一、まずは挨拶。

 グエンは最高に愛想のいい笑みを浮かべたが、リュガンが返したのはうなり声だった。


「元気?」


 ステップ二、相手に合わせる。


「何の用?」


 どうやら、彼女は基本的な挨拶すら返す気はないようだ。

 グエンはため息を押し殺して、無理やり微笑んでみせた。


「頼みたいことがある」


 リュガンはうんざりした顔で、重心を左足に移した。目から『死ね』と念じているのがわかる。グエンは動物並に鋭く正しい自分の洞察力を呪った。


「頼むよ、君にしか頼めないんだ」


「つまり、あなたには、あたしくらいしか非公式の遺伝子解析をしてくれる知り合いがいないし、今は緊急事態ってわけね。ざまぁみろ」


 グエンは最高の笑みを貼り付けたままチョコレートを差し出した。本邸のチョコレート貯蓄室から引っ張り出した、少々古いが最高級のチョコレートだ。

 ステップ三、甘いものは人間関係の基本。


「アーモンドチョコレート?」


 リュガンは差し出されたチョコレートを一瞥すると、眉を顰めた。


「アーモンドチョコレート」


 グエンは笑顔で繰り返した。

 興味を持った、いい兆候だ。そして俺の表情筋がつりそうだ。


「あなたがあたしにアーモンドチョコレートをくれるのはこれで三度目」


 そんなに俺はこの女の機嫌を損ねたっけ? グエンは曖昧に頷いた。


「そして、あたしがアーモンドチョコレートが苦手だって伝えたのが今で四度目」


 くそっ! 


「帰ってちょうだい」


 グエンは閉じかかったドアに無理やり体をねじ込んだ。

 ステップ四、みっともなくすがりつく。


「待ってくれ、リュガン。頼むよ。俺が悪かった」


「悪かった? 自覚があるようでけっこうよ。あんたのせいで逮捕されて留置所にぶち込まれたんだからね」


「次の日には釈放されたじゃないか」


「へぇ? 知ってたの? 一言もないから、見捨てたんだと思ってた。じゃあこれは? あの日大学の試験の前日だったのよ」


 グエンはリュガンの罰当たりな悪態を無視して、部屋に滑り込んだ。

 コツは重心を低くしてドア全体に体重をかけること。

 これは俺が女の部屋にもぐりこむのに慣れているわけではない。軍隊で叩き込まれた正真正銘突入訓練の成果だ。つまり、俺が女の部屋の前でみっともない醜態を演じるのが得意だってわけではない。

 リュガンの部屋は二、三年前にグエンが出入りした部屋とはずいぶん違っていた。みっしりと本が詰まっている本棚は変わりなかったが、三年前には部屋中にあった写真立てがきれいになくなり、サボテンの鉢植えがそこら中に置かれている。

 グエンはできるだけ、サボテンから距離をとった。


「報酬はちゃんと払う。DNA検査を頼む」


 リュガンは悪態を呟いて一歩下がった。


「今何やってるの? レイプ犯?」


 グエンは誠実そうな表情を顔に貼り付けた。


「ボディガード」


 嘘はついてないはずだ。少なくとも。


「コーヒーでも飲む?」


 グエンはホッとして頷いた。

 コーヒーを勧められたということは、しばらくここにいてもいいってことだ。彼女が熱々の液体を自分に投げつける気がある可能性は置いといて。


「親子関係っていうのは?」


「いっておくが俺の子供じゃない」


「ああ、そう」


 リュガンは全く信じていない口調でたっぷりとコーヒーを注いだ。

 グエンはふいにゾラックの甘ったるいチョコレートシロップ入りのコーヒーが恋しくなった。

 甘いものが必要だ。とくにこの女の目の前にいるときは。

 アーモンドチョコが嫌いだってことは、このチョコレートは自分が食べていいのだろうか? 


「ありがとう。君はコーヒーが好きだったね」


 ステップ五、相手の好きなものも忘れた豚野郎ではないことの証明。

 効果はなかった。

 グエンは恐る恐るマグを受け取ると、毛根付きの髪の毛のサンプルが入ったビニール袋を差し出した。


「頼むよ、リュガン」


 リュガンはビニールを一瞥すると、ゆっくりと時間をかけてコーヒーを飲み干した。


「グエンドリン。三年前のあたしは貧乏な医学生で、ポーカーとダーツと、あなたが持ってきた怪しげ仕事で学費と生活費を稼いでいた」


 グエンは話がどこに向っていくのか分からずに、取り合えず頷いた。


「やっと研究員のポストを得られたのよ。ついでに学資ローンに耳まで浸かってるの。いまさら、非合法の仕事に手を出してキャリアをふいにしたくない」


「分かるよ」


「どうだか」


 グエンはため息をついて、チョコレートの箱を見下ろした。

 オーケー。俺が馬鹿だった。チョコレート一箱で女の機嫌が治るとでも? 


「帰るよ。悪かった」


「グエンドリン、仕事を請けてもいいわよ」


 グエンは慎重に眉を上げた。彼女なら、報酬は俺の命だといいかねない。


「お金はいらないけど、条件が一つ、スウォンガム大学のチャリティパーティの招待リストにあたしの名前を載せてくれたらってのはどう?」


 グエンは耳まで避けるほどの笑みを浮かべた。


「君は最高の女だって、今日はもう言ったけっけ?」


「サンプルを置いてさっさと行ってよ」


 グエンは片目をつむってみせ、ムッとした表情のリュガンを置いて部屋を出て行った。

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