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第21話 チョコレートコーヒー

 グエンが本邸にたどり着いたのは、朝日が昇った頃だった。

 彼は祖父から受け継いだ屋敷を本邸と読んでいた。

 どちらかといえば、ボロ屋敷とかも朽ち果てた城と呼んだほうが相応しかったが、曲がりなくとも祖父からの遺産の一部なので、そう呼ぶにはためらいがある。

 王朝風の石作りの屋敷は、大戦を潜り抜け、長く経ったおかげで壁にはツタが這い回り、庭は荒れまくり、何百とあるガラス窓はくもりに曇っていた。

 グエンの稼ぎの大半はこの屋敷につぎ込まれているが、いっこうにボロ屋敷以上の外観になる気配はない。

 グエンがせっせと庭の雑草をなぎ払ったり、壁のヒビを埋めている間にどこからともなくほかの場所が痛み出し、雨漏りは拡大し、ガラス窓はくもり始めるのだ。

 グエンは巨大な玄関ホールに足を踏み入れると、天井のシャンデリアを見上げた。

 ローガン邸とひけをとらない立派なシャンデリアだったが、いまではくもの巣がかかり、灯りはともっていない。

 屋敷中の家具には、片っ端から埃よけの布がかかっているはずだ。

 グエンは人の気配がする応接間に足を踏み入れた。

 本物の暖炉がある古風な応接間では、じりじりとした少女が絨毯を取り減らしている。

 何十往復もしていただろう。色あせた絨毯の色が、サギリアがウロウロしていたところだけ更に薄くなったかのように見えた。

 サギリはグエンに気付くと、ゾラックより先に駆け寄ってきた。


「ダージンの様子はどうだった?」


「彼は元気だ」


 足元で灰色の塊がにゃあと鳴き、グリンの足にまとわり付いた。

 グエンが灰色の毛玉を拾い上げ、耳らしきあたりをなでると、ピートは子猫らしい愛くるしさでゴロゴロと鳴いた。瞳は金色にきらめいている。


「さてはダージン氏は小動物に嫌われるタイプかな?」


「なんのこと?」


 グエンは鳴きながらじゃれつくピートをもう一撫ですると床に下ろし、サギリアに向き直った。虹彩が燃えるように黒々と輝き、やきもきしているのが手に取るようにわかった。


「本当の事を言っていいのよ。ダージンはもう歳なの」


「年齢は関係ない。今にも外に飛び出して、放火犯を八つ裂きにしようと計画していたよ。つまり、ピンピンしていた」


「彼は三十年間、陸軍にいたのよ」


 なるほど。グエンは一瞬でダージンという不思議な男を理解した。

 ソルの調べではダージンの軍役は五年だった。その後、軍人名簿から削除されているから、機密名簿にしか載らない特殊部隊に移ったのだろう。

 うわあ、もしかしたら人生の先輩なのかもしれない。

 だが、グエンにはいかめしい執事になる自分は想像できなかった。


「ゾラック、コーヒーをくれ」


「もちろん」


 ゾラックは妙にうきうきした様子でキッチンに飛び込んだ。

 サギリアが初めて気付いたかのようにキョロキョロと周りを見回す。


「この家ってあなたのなの?」


「元々は僕の祖父のものだ」


「あなたはついてるわ。立派な屋敷だもの」


 ついでに、莫大な維持費がかかる。グエンは心の中で呟いた。


「じゃ、僕の家の感想は終わりだ。ゾラック。防災無線の『面白いところ』を写してくれ」


 部屋の中央にモニタが現れ、文字情報となった無線の内容がずらりと表示された。

 火は消火され、明日の朝から現場検証が始まるようだ。現場の消防士は無線で色々なことを喋っていた。温室には引火性の液体をまいた後がある、とかなんとか。

 グエンはじっと文字を頭に刻みつけながら、気付けば膝に乗ったピートをなでていた。

 どう考えても、つじつまが合わない。彼女の家を燃やしたいなら、もっと効果的な方法が五万と思いつく。

 爆破はグエンの得意なことの一つだ。二十年にわたり、戦術生化研究所と軍によって、ありとあらゆる無機物有機物を、あらとあらゆる方法で分解する手段を叩き込まれたのだ。

 わざわざ防災装置を解除したってことは、そこまで進入できたってことだ。だが、その後はお粗末の一言だ。

 どこの馬鹿が風下の温室に火をつける? 少々のガソリンをまけば屋敷全体が炎に包まれると思うおめでたい連中だけだ。

 俺に任せてくれたら、ものの数分で徹底的にあの城のようなお屋敷を灰にできるだろう。


「温室に燃えるものはあるか?」


 サギリアは首を振った。


「妙だな」


「グエン、コーヒーにチョコレートはいかがですか?」


「もらうよ」


 ブラックコーヒーにチョコレート。確かにいい組み合わせだ。特にストレスで惨めな気分の時には甘いものが必要だ。

 ブドウ糖と脂肪と――グエンはまどろみながら、コーヒーの香ばしい香りにおぼれるように目を閉じた。


「どうぞ」


 目の前に置かれたマグカップには、コーヒーとは言いがたい液体が満たされた。

 たっぷりと泡立てたクリームが乗っているし、チョコレートの香りがしている。


「なんだ? これは」


「チョコレートマキアートです」


 ゾラックが厳かに言う。


「マキアート?」


 なんだそれは? グエンはぞっとしてチョコレートを探した。もしかしてコーヒーの中に溶かし込んでいるのか?


「もしかして、あの女が飲むフワフワの甘ったるいクリーム入りのやつか?」


 ゾラックが誇らしげに胸を張った。


「サギリアさんに教わったフレーバーコーヒーです。ブラックコーヒーのみが、自分の男らしさを維持するのに必要なものだと信じて疑わないY染色体がいて今まで作ったことはないのですが」


 ゾラックは目を輝かせて――どうせカメラ洗浄液でも分泌させているのだろう――一気にまくし立てた。


「いいじゃない、甘いコーヒーを飲んだって、あなたの男らしさが損なわれたりしないわよ。ねぇ、ゾラック?」


「もちろんです、お嬢さん」


 一人と一体は目配せして、二人の間にしか分からない笑みを浮かべた。

 くそっ、女が二人いるようだ。

 グエンは目の前のカップを見下ろして、息をついた。

 オーケー、俺は甘いものが必要だから、このチョコレートコーヒーを飲むだけだ。

 けっして、ブラック党支持から、政治的嗜好を改めたわけじゃない。それにコーヒーに対しては別段保守的というわけではないのだ。

 グエンは自分に言い聞かせてから、長年鉄の意志で拒んできた女々しいといわれる甘ったるい香りを発している液体を飲み込んだ。

 脳みそを動かすのに、砂糖が必要なのだ。

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