第20話 意外な会合
病院の廊下は煌々と明かりがともり、相変わらず疲れきった医者と患者がぞろぞろとうごめいている。
グエンは病院の空気が嫌いだった。湿った消毒液の匂いと、消されることのない真っ白な蛍光灯。戦場で片足を吹き飛ばし、一年間の入院療養中に嫌というほど吸い込んだ消毒液の匂いは今でも慣れない。
廊下を曲がったところで、グエンは通信機にささやいた。
「ゾラック。どうだ?」
「問題なし。お嬢さんと合流しました」
「ダージンは無事だって伝えてくれ。それとピートって猫がいる。そいつも探し出してほしい」
「それはさっきから私の足にまとわり付いている灰色の塊のことでしょうか?」
スピーカーの奥からにゃあ、とか細い鳴き声が聞こえた。グエンは思わずニヤリとした。
「人懐っこくないって話だったがな」
「彼も設定を変えたようですね。この毛玉君も勿論回収しましょう」
「ピートと彼女は本邸に連れて行ってくれ。そこで合流だ。俺より先に着いたら、屋敷のセキュリティを再確認してくれ。ナイフがあったら、全てセーフボックスに入れておくこと」
「了解。ちなみに、あなたがこの猫君を助ける手間賃をダージン氏に請求したとなったら、私は今後のお仕事を考えさせていただきますからね」
どいつもこいつも俺を猫を見捨てる人でなしと思っているのか?
グエンが言い返そうとした瞬間、女の声が響いた。
「グエンドリン?」
グエンの聴覚が正しければ、その声は『できるだけ後回しにしたい』人物リスト上位の人間から発せられたものだった。
そして、グエンの聴覚はめったに狂わなかった。
グエンは凍りついたように立ち止まると、ぎこちない動きでゆっくりと後を振り向いた。
目の前には女が一人立っている。
肩までのブロンドを無造作にまとめ、グリーンの手術着姿で首には聴診器をかけている。
その顔はくたくたになった手術着同様疲労が色濃く現れていたが、彼女の知性的な緑色の瞳は怒りで鮮やかに燃えていた。
「――リュガン」
グエンは呻くように言うと、一歩下がり周りを見回した。
今すぐ逃げ出したい。こんなところで彼女と会うとは思っていなかった。
リュガン・イズリントン。昔一緒に仕事をしたことがある女だった。
彼女はやせ細った貧乏な医学生のはずだ。少なくとも当時は、とグエンは心の中で付け加えた。今は髪にもつやがあり、身長が少し伸びたと感じるほど正しく脂肪がついている。彼女は標準体重に近づきつつあるようだ。
「怪我したの?」
「いや、見舞いだ」
グエンは手を上げて言ってみた。
もしかしたら、同情をもらえるかもしれない。グエンが彼女にした仕打ちを思い出し、医者らしくメスで切り刻み始める前に。
「嘘はやめてっていったでしょう」
リュガンは世の男達を最もイラつかせる『何でもお見通しよ』といった表情で首を振った。
グエンはゆっくり息をはいて、基礎講習で習ったストレスを軽減する呼吸法を試した。
戦場で役に立ったと感じたほどの効果はなかった。
グエンは将来新人教官になった暁には生理学の教科書の内容変更を推進しようと心に決めた。
「君だって、どうしてこんところに? 研修中かな」
グエンは一番勝率の良かった笑みを浮かべて、久しぶりといった口調で声を上げた。
リュガンはじろりとグエンを睨むと腕を組んだ。まるで何から攻撃してやろうか計画を練る作戦局の大佐のようだ。
「久しぶりね。死んだかと思ってた」
作戦目標は一瞬で決定したらしい。つまり、目の前の男の何もかもを攻撃せよ。
「うん。久しぶり」
グエンは『死んだかと思われた』部分を礼儀正しく無視した。
「どうしたの、その髪」
「伸ばしているんだ。昔は伸ばせなかったから。どうかな?」
「まったく似合わない。チョコばかり食べてるから判断力が鈍るのよ」
リュガンは救いがたい相手を諭すように頭を振った。
くそっ、女に言われると本当にそうだと思えてくる。
落ち着けグエンドリン、この女は俺のことを唾棄すべきクソ野郎だと思っている。
「あたしが引っ越したのを覚えてる?」
「ああ、そうか。うん。そうだった」
グエンは必死で彼女から最後に送られてきたメールの内容を思い出そうとした。
確か引越しがなんとかと書いてあったはずだ。あの時はやっと軌道にのった仕事が忙しく、返信する暇はなかった。仕事が終わって彼女と連絡を取ろうとしたときには彼女の家は空っぽになっていた。
だいたい彼女は研究所にこもる学者タイプで、間違っても深夜の救急病棟でウロウロしている超人的なER勤務医タイプではなかった。少なくとも二年前は。
「調子は? 外科医に転向したのか?」
「ここの病理研究所に勤務してるんだけど、交通事故で人手不足でね。医師免許を持っている人間全てが借り出されたの。三年ぶりに縫合しちゃった。しかも生きている人間を」
グエンはハハハと笑ってみせた。
効果なし。
「悪かった。ともかく一切合財を泣いて謝る。俺が悪かった」
「なにが悪かったか、覚えているの?」
グエンは神妙な表情を貼り付けて、頷いてみせた。
効果なし。
「俺を殺すなら、さっさとやってくれ。見逃してくれるならありがたいけど」
「あたしの質問に答えていない」
世界一頑固なのは海軍のエンジニアだと思っていたが、最近じゃ医者もそうなのだろう。
「こんなところで何やってるの?」
「見舞いだよ」
「そう、わかった」
質問は続かなかった。
よかった! 諦めてくれた。少なくとも、さっさと目の前から失せろと言っているが、切り刻む気はないようだ。
「よくなるといいわね」
リュガンはこれっぽっちも心がこもっていない口調で呟いたが、グエンは礼儀正しく頷いた。
「君も……」
さっさと退散しよう。それでなくても、今日は散々な一日だった。これ以上、目の前の女にじりじりと突付かれるのはごめんだ。
だが、彼は思いついてしまった。
「実は頼みたいことがあるんだ」
グエンは振り返って言ってみた。
「DNA鑑定をしてくれないか? 誰の子かわからない子供がいるんだ」
リュガンのアイスブルーの瞳がこれまでもないほど凍りつき、グエンの体を真っ二つにつらぬいた。
「地獄に落ちろ、グエンドリン・アイザー」