第9話 スーパーハッカー
グエンは明るいピンクに塗られたドアの前で息をはいた。
世の中はやらなくちゃいけないことでいっぱいで、その中でもピンク色のドアをくぐるのは重労働のうちに入る。ピンクというのは、潜在的にY染色体を怖気づかせる作用を持つが、それがこの部屋の主の狙いだろう。
メッセージは明確かつ的確だった。つまり――――男人厳禁。
だが、鍛え抜かれた軍人はこんなドピンクのドアをくぐっても死なないのだ。
グエンはあれこれ考えるのを止めてチャイムを鳴らした。
「どぞー」
スピーカーから明るい女の声が響き、ドアがけたたましい鈴の音を響かせながら開いた。
グエンは大きく息を吸い込み部屋に足を踏み入れると、色彩の洪水に備えた。
この部屋の主は空間恐怖症だ。部屋中の空間という空間、隙間という隙間がリボンやフリルやぬいぐるみでみっしりと埋められている。
黄金色のフリンジがついた宮廷風のクッションのあいだには、かえるの形の銀細工の置物が突っ立っていて、鈴のついたピンク色のリボンやエキゾチックな模様のカーテンがそこらじゅうから垂れ下がっている。少女宮廷趣味の隙間を埋める最後の仕上げがごとく、部屋中にはケーブルが張り巡らされ、十をこえるモニタが浮かんでいた。
どう考えても正気の人間のすむところとは思えない。
グエンは毎度感じるめまいを振り払った。
「よう、ソル」
モニタに囲まれた中央の机から、鳶色の髪をした女が顔を上げた。
その髪はいつも通り、完璧にセットされている。つまり、男には理解できない超絶技巧を駆使して巨大な造花や、グエンの名前も知らない髪飾りが突き刺さっている。
ソルはラインストーンのついた真っ赤なフレームの眼鏡を治すと、にっこりと笑った。
「久しぶりね、グエン。調子は?」
「いいよ」
グエンは黄色と緑色のクッションに埋もれたソファに座り込むと、落ち着ける色彩のものを探した。黒とかカーキとか。男の色だ。
そんなものはなかった。
「あら、髪のびたわね。それって――――」
「おめでとう、今週その忠告をしてくれたのは君で二人目だ。話題を変えてくれ」
「理性的な人間に囲まれているようね。ところで、あなたのキュートなゾラックちゃんは元気?」
「君に会えずに寂しがっている」
グエンは片目をつむってみせると、ソルがクスクスと笑う。
「やっぱりね。彼女はあたしのことが好きなのよ」
グエンは隣に突っ立っているカエルの置物を突付いた。
「なんで俺の顔を見ると、みんなゾラックのことを聞くんだ?」
「可愛いじゃない、あの子」
「君の変態的願望抜きで答えてくれ」
ソルがうっとりとため息をついた。
「ごめん。やっぱりいい。そろそろ本題に入っていいかな?」
「うーん。あたしがゾラックちゃんにしたいことリストに興味ない?」
「サギリア・ローガンの遺産がどうなったのか確認して欲しい」
ソルは興奮してずり落ちた眼鏡を治すと、すっと目を細めた。お仕事モードだ。
「ふむ、先月話題になったローガン博士のお譲ちゃんね。すぐに分かるわよ、どうする?」
「待ってるよ」
「あたしとしては、あなたの可愛いゾラックちゃんにデータ送信したかったなあ」
「君の願望を俺の人造人間で満たさないでくれ」
ソルはクスクスと笑いながら、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
彼女はなにからなにまで探り当てる天才的なハッカーだった。
ゾラックが人造人間の倫理的制約で非合法の情報操作ができないおかげで、彼女には仕事和頼むことがある。物心ついたころからの警察無線、消防無線、公共公安通信を全て盗聴しアーカイブに保存している。もちろん、約百五十チャンネルのテレビ番組、ラジオ、ネット通信、彼女の特製のアンテナと懐が痛まないかぎりの情報は全て。
この根っからの変態で、情報の女王は元々政府機関で働いていたという噂もあるが、グエンも詳しいことを知らなかった。ただ確実なのは、彼女が天才だという事と、インテリアのセンスが最悪だということだけだ。
「出たわよん。中央モニタにご注目」
ソルは満足そうに言うと丁重にネイルアートされた中指でキーボードを一叩きした。
グエンは部屋中にあるモニタのどれが『中央モニタ』なのか探し出すのを諦めて、モニタのスクリーンセーバーが切り替わるのを待った。
「うーん。あたしって天才だと思う?」
『中央モニタ』から流れるように浮かび上がる数列と画像を満足そうに眺め、ソルはにんまりとした。
「君は天才だよ、ハニー」
「サギリア・ローガンちゃんの遺産の行方は大学と、勤めていた企業と……大部分は慈善団体に寄付されているわね」
ソルは、次々と吐き出される慈善団体のリストをグエンのアーカイブに転送した。
「屋敷の所有権は?」
「屋敷? 現在の所有者はコスタンス・ダージン。あらあら親族じゃないようね。先週弁護士のところで手続きが完了している」
グエンは頭の中でサギリアの関係者リストをめくった。彼女の交友関係は頭に叩き込まれている。
「ローガン家の執事だな」
「執事? ご主人さま、朝食の準備ができました、ってアレ?」
「ソレ。ダージン氏のことを調べてくれ」
「うーん、執事なんて前時代的ねぇ。憧れないわけじゃないけど……」
ソルが呟くように言ったきり、猛スピードでキーボードをたたき出した。
「おっと、遺言状の更新は一ヶ月前ね。彼女、自分が死ぬのを知っていたんじゃないかって思うわ」
まさか。
「あたしがロマンチックになっちゃったと思う?」
「君は感傷的で浪漫主義だ。部屋を見れば分かるよ」
「ダージン氏の履歴を送るわね。中々のナイスミドルよん」




