そして始まり
葉山小鳥。
それが、わたしの名前だった。
母がつけてくれたその名前には、「小さくても自由に羽ばたけるように」という願いが込められていたらしい。
母はわたしの名前を呼ぶたびに愛おしそうに微笑んでくれた。
「小鳥、大きくなったら、自由に羽ばたいてね」と。
でも、わたしは――本当に自由だったのだろうか。
母は病気がちで、わたしが幼い頃からよく入退院を繰り返していた。
もともと存在感のなかった父は……気づけばいなくなっていて、他の女性を作って家を出て行ったと聞かされた。
母は女手ひとつでわたしを育ててくれたけれど、体が弱く働くこともままならず、生活は決して楽ではなかった。
それでも、わたしたちは二人で支え合って生きてきた。
母が作るごはんはどんな高級料理よりも美味しかったし、どんな時も愛情たっぷりで接してくれた。
そして、いつも一緒に歌を歌ってくれた。
わたしが中学で合唱部に入ったのは、そんな母との楽しい思い出があったからかもしれない。
わたしは、歌うことが好きだった。
けれど、それを仕事にしようとか、もっと勉強したいとか思わなかった。そんな風に夢を見る余裕なんて、なかったから。
いや、意図的に考えないようにしていたのかもしれない。
わたしはごく自然に、進学も夢を見ることも諦めて、高校卒業後すぐに働くことを選んだ。
契約社員として営業事務の仕事をして、母の治療費や生活費を稼いぐ日々。
最初は、慣れない社会人生活に追われるばかりだった。
正直きついことも多かったけれど、それでも職場の人たちはいい人ばかりだったから、少しずつ仕事を覚えていった。
そして、仕事にも慣れ、大人としての生き方にも順応してきた頃――
母は静かに息を引き取った。
これで……よかったんだって、自分に言い聞かせた。
母の最期を見届けることができたのだから。
(少しは親孝行できたかな……? お母さん。)
けれど、その日からわたしは、完全に一人になってしまった。
いわゆる天涯孤独。
もちろん仕事は続けた。生きていくために。
与えられた仕事をこなしていく毎日。
そんな中で、唯一の癒しだったのが、飼っていた一羽のセキセイインコだった。
――ぴーちゃん。
セキセイインコのぴーちゃんは、わたしが中学三年の春休みに家族に迎えた子だった。
母が「ひとりじゃ寂しいでしょう?」と、少し無理をして迎えてくれた、小さな命。
黄色くてほわほわで、あったかくてまあるくて、大切な子。
ぴーちゃんはわたしのそばに寄り添ってくれた。
母が入退院を繰り返していたときも、一人でごはんを食べる夜も、いつもそばにいてくれた。
小さな体で元気にさえずり、わたしが歌えば一緒に鳴いてくれた。
どんなに疲れて帰ってきても、ぴーちゃんの姿を見ると、心がほぐれた。
母の死を乗り越えられたのも、ぴーちゃんがそばにいてくれたから。
けれど、その子はもういない。
ぴーちゃんがそっと息を引き取ったのは、だんだんと春が近づいてきた頃。
よく晴れた日のあたたかな朝だった。
十年の時を共に過ごし、わたしの手の中で安らかな眠りについたかけがえのない存在。
わたしは、ぴーちゃんを看取れたことに安堵しながらも、涙が止まらなかった。
今でも、ぴーちゃんがいたケージやプラケースはとってある。
当然、捨てられなかった。
きれいに掃除をして、そっと押し入れにしまっている。
ぴーちゃんがいなくなった部屋は、広くて、静かで、なんだか冷たかった。
思い出すたびに胸が締め付けられたけれど、それでもわたしは生きていくしかなかった。
――いつかまた、歌いたいな。お母さんと。ぴーちゃんと。
忙しい日々の中で、ふとそんなことを思う。
今はまだ、なかなか前を向く気持ちにもなれないけれど……。
でも、もう少し心に余裕ができたら、また新しく歌う場所を見つけたいな。
わたしはそんな願いを、心の奥にしまい込んでいた。
その日は、いつもと変わらないはずだった。
仕事を終え帰宅して、ぼんやりとスマホを眺めていた時。
SNSで見かけた迷子のペット情報に、見覚えのある場所にいるインコの写真が載っていた。
「……あれ?」
思わず、ぎゅっとスマホを握りしめた。
それは、近所の公園。背景でそう確信した。
写真に写っているその子は、黄色と緑色のグラデーションがきれいなセキセイインコ。
「この子、うちのアパートの近くにいるんだ……」
小さな体で、心細げにさえずっているところを想像したら、なんとかしてあげたくなった。
ちょっとアパートの周りを探してみようかな、と思ったその時。
ピィーユッ!
音の方向を探して窓の外を見た瞬間、心臓が跳ねた。
――いた。
迷子のインコが、ベランダの向こうにいる。すぐそこの木の枝に留まっている。
どこかに飛んで行ってしまう前に、保護しなきゃ!
「おいで、大丈夫だよ」
わたしはベランダの手すりに身を乗り出し、そっと手を伸ばす。
ここが二階だとか、そんなことは関係なかった。
「おいで……怖く、ないよ……」
ゆっくりと指を差し出すと、セキセイインコがこちらを見て、小さく鳴いた。
――あ。
ぐっと伸ばせば届きそうだった。あとほんの少し前に出れば――
その瞬間、バランスを崩してしまったのだ。
視界がぐるりと回転して、あっという間に重力に引っ張られる。
落ちる。
空が逆さまになった。
ふわりと、内臓が浮遊する感覚。
ぎゅっと目をつむった。
――ああ。
わたしは、死ぬのかもしれない。
そんな考えとともにこれまでの記憶がよみがえってきて、それが走馬灯だと気づいた。
不思議とすべてがスローモーションに見える。
恐怖と後悔で涙がこぼれ、それが額を伝った。
――お母さん、ぴーちゃん。自由に羽ばたけなくてごめんね。
わたしはどこかで、自分で自分を縛っていたのかも。
もっと何かできなかったのか。
さっきも……誰かに助けを求めていたら、あの子を保護できていたかもしれない。
そんな思いが頭をよぎった次の瞬間。
温かいものに包まれるような、そんな感じがした。
まるで、柔らかな羽毛にくるまれているみたいな――
意識が、深い闇に沈んでいった。
こうしてわたしの人生は幕を閉じた。
と、思ったのだけど。
――コツン。
ふと目を開けると、何か固い殻のようなものに包まれている、気がする?
手を動かそうとしても、思うように動かない。
暗闇の中で、わたしはかすかな違和感を覚えた。
(ここは……どこ?)
ここまで読んでくださりありがとうございます。
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