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任け犬の遠吠え  作者: ノライヌ
第三章 嘘
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覚悟の違い

誓断輪廻せいだんりんね 転生した異世界で課せられたルール。最後の一人が決まるまでにしていけないこと。『人殺し、死、自殺』


カニス 正式名称 カニス・アミークス この世界での犬の獣人種の名称


玩狗がんぐ 転生者、転移者たちの総称 

俺の行く手を阻むように立つ一人の『人間』。


今、この場にマットの姿はない。

この悪臭を放つ男に気づくことなく、空に見えた影を追ってしまったのか。


もしマットがこの悪臭に気づかずに通り過ぎたのだとしたら、匂いそのものを隠蔽できる能力者が潜んでいる可能性がある。

そうでもなければ説明がつかない。

それほどまでに、この男が放つ異臭はこの森の中で異質であり、強烈だった。


リオンが使っていた香水など、まだ可愛げがある。

あれは刺激こそ強いが、匂いの構成は単純。

だが、この男が纏う『臭い』は違う。

生理的な嫌悪を催すさまざまな腐敗が入り混じり、何重にも重なった不愉快の塊。


アンナの唯一の手がかりを見失わないためには、ここで立ち止まっている余裕はないはずなのに。

森に現れたこの「イレギュラー」を即座に排除しなければならないという、生存本能が警鐘を鳴らし続けている。


「待って!シアン!」


なんて間の悪い。

俺の後を追ってきたマコトが、最悪のタイミングで姿を現してしまった。


マコトの姿を見た瞬間、大柄な男は口から腐敗臭を垂れ流しながら、ニヤリと唇を歪めた。


「なんだぁ〜。いるじゃねえか、メスがよぉ……?」


その言葉。

その笑み。

その臭い。


これほどまでに他人の笑顔を不快だと思ったのは初めてだった。


全身の毛穴から嫌な汗が吹き出し、無意識に握り締めた拳がギリギリと悲鳴を上げる。


マコト「……何こいつ。臭い、嫌い……」


マコトは露骨に顔を顰め、忌憚のない拒絶を口にした。

まともな人間なら、初対面の相手にここまで言われれば憤慨するだろう。

だが、目の前の男は微塵も気にする様子がない。

むしろその濁った瞳で、マコトの体を舐めるように品定めし続けている。


「毛並みはいいなぁ。体は小せぇが、オメェ、シバ一族の娘か?」

マコト「だったら何」


マコトは鼻をつまみながら、吐き捨てるように答えた。


「…なら、『使えそう』だなぁ」


その一言が耳に届いた瞬間、俺の体は弾かれたように男へと飛びかかっていた。

握り締めた拳を、渾身の力を込めて振り上げる。


生まれて初めて、心の底から「人を殴り飛ばしたい」と思った。

そうしなければ、腹の底で燃え盛る毒が消えてくれない。

「使う」なんて言葉を、対等な命に対して向けていいはずがない。


だが、拳を叩きつけようとしたその刹那。

男の顔に驚きはなかった。

それどころか、俺の突進を嘲笑うかのように笑みを深めたのが分かった。


「オメェらは本当、いつもワンパターンだなぁ」


直後、視界を焼く青白い閃光。

鼓膜を刺すバチバチという激しい音と共に、視界が激しく霞む。


──この焼けるような痛み。

俺は経験した覚えがある。


「オメェらはいつもそうだ。仲間のことになるとすぐ吠えて飛び掛かる」


体が痙攣と硬直を繰り返し、思うように動かすことができない。


「無駄だぁ。オメェらは力は強くても、魔法に弱ぇ。しかもオイラの魔法は雷。抗える生物なんてほとんどいねぇ」


マコト「シアン!」


魔法……? この見た目でこの男は魔法を、しかも雷系の魔法が使えるのか……?


「不公平だよなぁ? いや、ある意味平等かぁ?お前らは力も体力もすげぇけど魔法が使えねぇ。人間はお前らより弱いが魔法が使える。……で、お互いがぶつかったらこういう結果になっちまうんだもんなぁ?」


魔法は人間だけが使えることは、聞かされていた。そしてカニスにはそれを抗う術がないことも。


それがプリムスの村が奇襲された時の敗因。


だから油断するつもりはなかった。

だが魔法とは本来研鑽を積んだ者が扱う、どこか理知的な力だという先入観があった。

だからこの怠惰を体現したような男が、これほどの実戦的な雷魔法を操るなど想像の端にもなかった。


シアン「く…そっ……」


「なんだぁ? 気絶しねぇのか。普通なら屈強なオスでも気を失う威力なんだが。オメェ結構頑丈だなぁ? だがオスはもういらねぇ。欲しいのはメスだけだぁ」


どこまでも胸糞悪い言葉を漏らしやがって……! 殴りかかりたい。

だが、かつて経験したヴォルタリン鉱の威力とは比較にならない高電圧の衝撃が、全身の神経を焼き、自由を奪っている。


シアン「マコト……逃げ……」 「逃がさねぇよぉ」


マコト「……ッ!」


男がマコトに向けて手のひらをかざす。その指先に再び青白い閃光が収束し、彼女を襲おうとした、その瞬間。


「おい」


男の背後。

静まり返っていたはずの草むらから、一つの「黒い影」が音もなく飛び出した。


男が振り返る暇さえなかった。

次の瞬間、聞こえたのは「べゴッ」と近くの木に何かがぶつかったような鈍い音。

そしてそこに存在していたはずの男の顔面は、跡形もなく消え去り、頭があるべき場所からは噴水のように鮮血が噴き出している。


先ほどまで得意げに魔法の不平等を説いていた肉塊はドシャリと音を立て地べたに崩れ落ちた。


「大丈夫?シアン?」


そこにいたのはいつもの優しい父親の姿。

だが持っている狩用の大鉈には先ほどの男を両断した時の鮮血がベッタリと付いている。


先ほどの電撃と、今起こった衝撃のせいで動けないどころか言葉すら出てこない。


マット「立てる?」


といつもの優しい声で手を差し伸べてくれる。

とても一撃で人を殺した男の声だと思えないくらい、優しく、そして頼り甲斐のある声。


マコト「大丈夫?シアン?」


マコトも俺に寄り添い、立ち上がらせてくれる。


痛みは凄かったが、完全に麻痺するほどでもない。

それより今の状況に頭が追いついていない。


シアン「お父ッ…ア、アンナは…?」


マットが人を殺したことに混乱している余裕なんてない。

まずはアンナの安否確認が大事。

マットが俺たちの元に戻ってきたのは見つけたからなのか、それとも見失ってしまったのか…。


マット「大丈夫。あの大きな鳥のような生き物が着地するところまでは確認したよ。ただやっぱり俺じゃあ匂いでの追跡はできなかったからまたシアンとマコトに追ってもらうしかないね」


やはり匂いによる追跡はできないとなると、この男含めこの森にいる侵入者たちには隠蔽する能力か何かを持っているということか。


シアン「すぐ…ッ行こう!」


少なくとも俺とマコトがアンナの後を追えることだけが救い。

なら今は俺の中にあるドス黒い感情から目を背け、アンナのことだけを考えるべきだと。自分にそう言い聞かせる。


だけど、その感情は俺の頭の中からなかなか消えてくれなかった。


むしろ『よかったね』と俺の頭の中で優しく囁いてくる。


「マットが、自分の代わりにあの男を殺してくれて、安心してるんじゃない?」


その言葉を強く否定できない自分がいる。


マットに、父親に人殺しをして欲しいなんてかけらも思っていない。

だがあの場面で、俺はあの男を殺す自信がなかった。


それは誓断輪廻とかいう理不尽なルールが邪魔しているとかそういう話ではなく。もっと根本的な恐怖。


俺は…人を殺すのが怖い。

創作物のように簡単に人を殺す決断が、俺にはできないと…今の場面で理解できた。


殴り飛ばして、相手が気絶して、そして終わればいいとそう思う程度。


だがそれでは解決しない。

村の場所はあの男にはすでにバレていた。

また悲劇を繰り返さないためには、誰かを守るためには、マットのように躊躇いもなく殺すべきだったのではないのか?という疑問と、それは短絡的すぎる決断なんじゃないのかという葛藤が俺の中でざわついている。


だが、どうすればよかった。

あの男は話し合いで解決できるようなタイプではない。

欲しいものを力づくで奪い、邪魔するものを踏み潰すような男だ。


あそこでマットが動かなければ、マコトは…。


そう考えると、マットに殺人という罪を背負ってもらったことに安慮しているような最悪な気分になる。

だけど肝心のマットは…。


マット「大丈夫?シアン。やっぱりさっきの魔法がかなり効いてるんじゃ?」


と俺の心配をしてくれる。人を殺したことなんて全く気にせずに、平然と。


だから思わず聞いてしまった。


シアン「お父さんはあの男を殺す時、どう思ったの?」


俺を助けるために自らの手を汚してくれた人に、こんなこと聞くべきじゃないのはわかっている。

だけどどうしても聞きたくなってしまった。


マットは考えるかと思った。

答えにくい質問だと思ったから。


だけど相変わらず、平然と…。


「俺は俺の大切なものを壊そうとする奴に、もう一切の容赦はしないと決めてるから。何も思わなかったよ」


と、俺とは比べ物にならないくらい、強固な覚悟を見せつけてくれた。

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