覚えのある匂いと、未知なる匂い
誓断輪廻 転生した異世界で課せられたルール。最後の一人が決まるまでにしていけないこと。『人殺し、死、自殺』
カニス 正式名称 カニス・アミークス この世界での犬の獣人種の名称
玩狗 転生者、転移者たちの総称
森で感じた異常事態。
それを伝えるために、アンナは全速力で村がある大穴まで駆ける。
心臓が張り裂けそうなくらい痛いが、今は休んでいる余裕なんてない。
この森がどこまで続いているのかは分からない。
だが辺りにある村なんて、自分たちが住んでいるカニキュラ以外に心当たりはなかった。
それなのに、この深い森の中で突如として発生したカニスの子供たちの匂い。
助けが必要なのか、それとも別の意図があるのか。
どちらにせよ、急いで大人たちを集め保護に動くしかない。
ようやく辿り着いた大穴の入り口。
だがここからがまた長い。
螺旋道を回りながら降り、中層の横穴からドワーフの坑道を抜け、ようやく村へと至る。
鉄壁の守りを誇るカニキュラの構造が、今は恨めしかった。
「はあ……はあ……ああ、もう! 煩わしい……!」
アンナは狩猟組ではない。
シアンがドワーフと作り上げた「カニス専用の呼笛」を携帯していないのだ。
降りて報告していては時間と体力を多く消耗する。
だからアンナは一旦、火を噴きそうな肺を落ち着かせるべく深呼吸をした。
そしてありったけの空気を吸い込み、奈落の底へ向けて叫ぶ。
「ルカぁーー! ララぁーー! いたら返事して!!」
大穴の構造上、その声は幾重にも反響し、増幅されて降りていく。
やがて、「んあ〜? どうしたぁ〜?」という、気の抜けた男の声が返ってきた。
運搬係のルカだ。彼が下にいてくれたのは、不幸中の幸いだった。
「ルカくーーん! シアンと、村の大人をできるだけ呼んできてーー!!」
――反響する声が、逆に内容をぼやけさせる。
何度叫んでも中々伝わないことに苛立ちが募るが、何度かのやり取りの末、下から「行ってくるわ〜!」という返事を聞き、アンナは崩れるようにその場へ腰を下ろした。
「全力で走りすぎちゃった……」
いつも外回りはしているから体力はある方だと思っていたが、普段から匂いを詳細に嗅ぎ取っているため、全力疾走することは少なかったと思い出す。
足がもつれ、立ち上がるのもしんどい中。
ふと後ろの方から、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔をくすぐった。
「あれ? シアン?」
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グレーター「悔しい! 悔しい! 悔しい!」
今日は朝からずっと、こんな調子で愚痴を聞かされている。
どうやら俺が知らないところで、グレーターさんとシュウの間で一悶着があったらしい。
内容は、グレーターさんがシュウを挑発して、柔道で返り討ちにあったというもの。
それは自業自得なため、俺は大半の愚痴を聞き流すことに決めている。
それにしても、まさかあのシュウが挑発に乗るなんて。
普段は大人しくていい子なんだが、認めない相手には容赦なく向かっていくところがあるから、何か気に触ることでも言われたのだろう。
シアン「そろそろ作業も終わりにするんで、もういいですか?」
区切りのいいところまで作業を終えたので、今日は早く帰って別のことを考えたい。
グレーター「薄情者ぉ! あのデカブツに勝つ方法をお前も考えろぉ!」
なんて言うが、体格差的にそう簡単に勝てるわけがない。
それにシュウは狩猟組で、常に第一線に出ているカニスだ。
体格差に加え、日頃の鍛錬がある相手に一朝一夕で勝てるわけがないのだ。
シアン「日頃から練習するしかないですよ」
俺から言えるのは、それだけだ。
さて、もう帰ろうと軽く伸びをした時、どこからか俺を呼ぶ声が聞こえた。
ルカ「シアーン! アンナが呼んでんぞー!」
なんだろう。普段のアンナなら、誰かに伝言など頼まず自分で呼びにくるのに。
どうして今日はルカを介しているんだ?
シアン「なんて呼んでたの?」
駆け寄り内容を確認するが、ルカは「知らね」と、内容までは把握していない様子だった。
なんかおかしい…。
シアン「どこで呼ばれたの? 呼んだのは俺だけか?」
ルカは答える時、最初は本題だけを言い、後から情報を付け加えることが多い。
だからこちらから詳細を確認する必要がある。
ルカ「あ〜、穴の上から、シアンと大人を呼べって言ってたな」
俺と大人を呼べというのも気になるが、「穴の上から」というのが一番引っかかった。
アンナはいつも、多少面倒でも自力で降りてきてから報告する。
穴の上から誰かを挟んで人を呼んだことなんて、今まで一度もない。
つまり、かなりの緊急事態か、何かをパトロールで発見したかの二択。
狩猟組は今日、狩りに出ていない。
ならばできるだけ多くの仲間を集めて上に行かなくては。 二人に全員を大穴の方に集結させるよう頼み、先行して俺だけが穴の上まで駆け上がった。
大穴の入り口。
だが、そこに俺たちを呼びつけたはずのアンナの姿はなかった。
アンナは呼びつけておいて勝手にいなくなるような性格ではない。
俺は地面の匂いを嗅ぎ、彼女の行方を探った。
アンナほどではないが、俺にだってカニスとしての嗅覚はある。
石鹸の香りと、激しい運動のあとの汗の匂い。
集中せずとも、それはすぐに見つかった。
だが――その匂いの中に、異質な残香が混じっている。
昔、少しだけ嗅いだことのある刺激の強い匂い。
この森で自然に発生するはずのないその正体を脳が弾き出したとき、ある人物の顔が浮かんだ。
シアン「リオンが使っていた……香水の匂い?」
どういうことだ。
リオンが再び現れたのか? それとも同じ香水を使った別人の匂いか? だがおかしい。
香水の匂いと、アンナが座り込んでいたであろう場所の匂いが、完全に『重なって』いる。
アンナの男性への苦手意識はだいぶ緩和されたが、この至近距離を許すほど他人に心を開いているはずがない。
なら、ここで何が起きた? アンナはどこに消えた?
仮にこの香水の主がリオンだとしたら、なぜアンナと共に姿を消したんだ?
やはりあの男は、俺たちをこの村に誘き寄せ、ネズミで殺そうとした策士なのか?
いや、待て。短絡的に結びつけすぎだ。少し冷静にならなきゃ……。
「……アン! シア……! シアン!」 シアン「うわっ! びっくりした!」
マット「大丈夫? 顔が青ざめてるけど。何かあった?」
いつの間にか、父マットを含めた大人たちが十人近く揃っていた。
シアン「何かあったというか、呼んだ張本人のアンナの姿が見えなくて……」
グレーター「それで考え込んでたのかよ。いねえなら周りの匂い嗅げばいいじゃねえか」
大人たちは散らばり、周辺の匂いを嗅ぎ分け始める。
だが、肝心のアンナの姿どころか、その後の匂いすら見つけられないという報告だけ。
この大穴から落ちた……なんて最悪のシナリオすら脳裏をよぎる。
(アンナ、どこに消えたんだ?)
冷や汗が噴き出るほど、焦燥が大きくなっていく。
そんな中。
「アンナの匂いは、こっち」
一人の仲間が、迷いなく森の奥を指差した。
シアン「マコト……」
またしても、君なのか。
普段は本当の犬のように怠けている君が、大事な局面になると豹変したように何かを見つけ出す。
ネズミ事件から三年。
君を疑わないと決めていたのに。 その理解を超えた行動が、俺の中の疑念を再び強くさせる。
マコト「あと、あいつの臭い匂いがする」
その言葉に、大人たちは全員首を傾げた。
アンナの匂いだけじゃない。誰も「香水の匂い」まで嗅ぎ分けることができなかったのだ。
俺も考えることに集中しすぎて、この匂いを追えばアンナに辿り着けるという単純な事実を見失っていた。
俺はもう一度冷静になり、アンナと香水の残香が向かう先を嗅ぎ分ける。
その中には、二人以外の匂いも混ざっていた。
嗅いだことのない、複数の不気味な気配。
特徴はカニスに似ている。だが、匂いはそれだけじゃない。
この森の中に、俺たちが知らない何かがいる。
その気づきに、背筋が凍るような感覚を覚えた。
……全員で動いてはダメだ。
その「知らない匂い」の主は、すでにここまで辿り着いている。
大人たち全員でこの場を離れ、警備を薄くするのは悪手だ。
シアン「俺とマコト、あとお父さんでアンナを探します。他の方々は、カニキュラの警備を強めてください」
本当にこの人選でいいのか。少なすぎないか。
だが、これがアンナを連れ去っただけの囮である可能性もある。
なら人数は割けない。 頭が割れそうなくらい思考をフル回転させ、指示を出す。
ロドルフォ「おい、何が起きてる。なんで警備を強めなきゃいけないか説明しろ」
だが、皆にはまだ事態が見えていない。 気づいているのは、俺とマコトだけだ。
なぜ俺たち二人だけがこの異変に気づけているのかは分からない。だが今は……。
シアン「この森に、敵が来ている可能性があります」
最悪を想定して動くこと。それだけが、今の俺にできる判断だった。




