色彩とアリアドネの糸
誓断輪廻 転生した異世界で課せられたルール。最後の一人が決まるまでにしていけないこと。『人殺し、死、自殺』
カニス 正式名称 カニス・アミークス この世界での犬の獣人種の名称
玩狗 転生者、転移者たちの総称
「あの日感じた違和感が、胸の中でじわりと熱を持って膨らんでいく」
アンナは大穴の上に広がる密林を、今日も一人で駆けていた。
この三年間、彼女はこの森の全てを鼻に叩き込んできた。
木々の蒸れ、土の湿り気、獣の足跡。
集中力を極限まで高めれば、世界は色彩へと変換される。
アンナの視界は今、研ぎ澄まされた嗅覚によって『可視化』されていた。
熟知した森の匂いは、茶や緑、青といった落ち着いたアースカラーで構成されている。
そしてアンナが持つ能力はそれだけに留まらず、匂いをレイヤーの如く分けて嗅ぎ分けられること。
仲間であるカニスの色がライトブラウンだとすると、そこに性別の色が加わる。
男性なら硬質なグレージュ、女性なら温かく柔らかい淡黄色。
そこからそれぞれの種族の色が加わり、性格、毎日の運動量、食事の傾向と様々な色が重なっていく。
全く同じ色の組み合わせを持つものなどいない。
だから地球に住む犬は、様々な匂いが入り混じる人間社会の中でも、特定の匂いを嗅ぎ分け、探し出すことができるのだ。
だが、先日マットたちが狩りから戻った際、その中に『見たこともない色』が混じっていた。
それは、突き刺すような、鮮烈な赤。
鉄の匂いを含む血の赤ではない。
血はアンナの視界では、重く濁った『黒』として映る。
狩猟組が持ち帰る獲物から毎日嗅いでいる、死の色。
あの時の鮮やかすぎるほど眩しい赤は、もっと不自然で、この世界の理から外れたような臭いを放っていた。
アンナはまだ誰にも、シアンにさえも、まだこのことは話していない。
正体不明の匂いに怯えて、せっかくの平穏を乱すわけにはいかなかった。
パトロールの役目は、不安を撒き散らすことではなく、その正体を突き止めることだ。
季節は秋。
世界がオレンジに染まり、果実や紅葉の匂いが混ざり合う。
複雑さを増す色彩の中でも、一度覚えた『あの赤』を、彼女は決して見失わない。
ジャーマンシェパード。
地球において、万能の使役犬として頂点に君臨したその嗅覚でさえも、鮮やかな赤色に辿り着くことはなかった。
ふと気づくとアンナはカニキュラがある大穴からかなり離れた場所にまで流れ着いていた。
普通の人間であれば迷ってしまったと焦る場面だが、カニスにとっては自分の匂いを辿ればいいだけ。
だから、帰ること自体は問題ではない。
これほど離れた場所にも、鮮やかな赤が混ざる場所などないのだから、もしかしたら上空を飛ぶ大きな鳥の匂いが風に舞い、流れ込んだのかもしれない。
そう思った時、アンナは知らない匂いを発見する。
匂いはひとつではない。
十を超える複数の匂い。
だが、あの時感じた赤色ではなく、感じる匂いの色はライトブラウン。
つまり、アンナたちと同じ獣人の匂いだ。
だが、アンナはあることを感じ取る。
「おかしい…」
発汗量から体臭だけではなく、年齢すら匂いを可視化できるアンナに見える色は、子供を表す黄色。
この魔獣が彷徨く大森林の中で異質を放つライトイエロー。
アンナ自身、子供の時にこの森を歩いて今のカニキュラがある場所まで辿り着いた身だ。
カニスの子供の匂いが森の中にあること自体はあり得なくもないと理解できる。
だが、おかしいのは『子供の匂い』しかないことだ。
魔獣が跋扈するこの森を歩くのに子供だけで歩くのは不可能。
まず食料にありつけないどころか、魔獣から身を守ることすらできない。
その経験があるからこそ、このライトイエローの匂いが不気味な異臭なように感じられた。
「戻って報告しなきゃ…」
そう思い、すぐに踵を返しアンナは自分が走ってきたルートを戻る。
これは明らかな異常事態。
自分一人で抱えていい問題ではない。
数人の応援を呼び、万全を期してあたらなければならない事態だ
もしすぐに保護すべき存在だったとしても、一人でかなりの距離を誘導しなければならなくなる。
それは抱え切れない責任を背負い、誰も救えない事態を招きかねない。
だからアンナは急いでカニキュラに戻ることにした。
だが、アンナはこの時自分がしてしまった失態にまだ気付いていなかった。
匂いを可視化できるほどの精度はなくとも、匂いを追跡するくらいの能力はカニスなら子供ですらできることを。
森の奥から、一つの影が姿を現す。
白い髪だが頭頂部の耳だけが茶色く、腰の部分から尻尾が生えている、五歳程度の少年。
アンナがいた部分に、近づき匂いを嗅ぐ。
「女の匂い。清潔感のあるすごい匂い」
少年はそのままアンナが進んだ方角に鼻を向けスンスンと鼻音を立てながら匂いを記憶する。
「ママに報告しなきゃ」
すぐにアンナの匂いを追おうとはしない。
なぜなら、そう教え込まれているから。
追うよりもまず報告することを義務付けられ育てられた少年は匂いだけ覚え、アンナが進んだ方向とは真逆の道を選んだ。
清潔に気を遣うアンナが纏う石鹸の匂いもまた、この森では異質さを放っている。
すぐに追わずとも、この匂いの痕跡は消えない。
それがアンナがしてしまった致命的なミス。
自分が匂いを追うスペシャリストであるという自負。 魔獣が嫌う匂いだから、と石鹸を常用していた油断。
常に「追う側」であった彼女は、自分の足跡が、迷宮へと導く『アリアドネの糸』として機能していることに、最後まで気づけなかった。
少年が数十キロの道を引き返した先。そこには複数の人影が集まっていた。
「ママは?」
少年と同じ年端の子供たちが、無言で奥を指差す。
種族も年齢も同じだというのに、彼らの間には会話がない。
言葉を交わす必要も、交わしたいという欲求も、彼らの瞳からは抜け落ちていた。
「ママ!」
少年が一つの影へと駆け寄る。
足元に跪き、千切れんばかりに尻尾を振る。
その姿は、犬の獣人というよりも、主人を迎える『犬』そのものだった。
「ママ! 見つけたよ! 森の奥に、僕たちと同じ種族の奴ら!」
簡易的なテントの奥で気だるそうに座っている影はその報告を受けても動こうとはしない。
「なんだ、結局見つかったんだ?ママ、もう面倒だから早く帰りたいんだけどな〜」
「ご、ごめんなさい。ママ……」
ママと呼ばれる影から漏れ出す不機嫌さを察し、少年は咄嗟に謝罪した。
「んで〜? 見つけたやつはどんなやつだったの〜?」
影の目的は、たった一人のカニスを探し出すことだ。
期待などせず、少年の要領を得ない報告をやり過ごそうとする。
「えっとね、すごいいい匂いがした。ママが使ってる綺麗になるやつに似てる」
期待しないでよかった。と報告を聞く影は思う。
抽象的な報告、少年はまだ五歳程度。人間でいうなら十歳程度の年齢ゆえに語彙力が乏しい。
この報告でわかるのは石鹸を使っているくらい。
「そう。偉いね〜。じゃあ今度はそいつの寝床まで調査し」
「あ、あとね!ママ」
少年はまだ言いたいことがあったのかママと呼ばれる影の言葉を遮り、続ける。
「遠くから見たからよくわからなかったけど。そいつ、顔に変なのつけてた!」
その言葉を聞き、即座に立ち上がりテントの外にいた少年を抱きしめる。
「そいつの匂いは覚えてるんだよね?」
出てきたのは白い髪、白い耳、白い尾を持つカニスの女性。
少年の顔を固定し、目をじっと見ながら問い詰める。
「うん!お、覚えてる!」
その言葉を聞き、白髪のカニスは少年に満面の笑顔を向け
「いい子だね〜名前、なんていうんだっけ?」
と、母親にあるまじき質問。
「ママは前にラテって呼んでくれた!」
けどそんなことは少年は気にしない。
ママに見てもらい、褒めてもらえることが何よりも嬉しい。
「ああ、そうだね。耳だけ茶色で髪は白だもんね。覚えやすい〜」
少年を抱きしめ、頭を撫で、誠意いっぱいの愛情のようなものを注ぐ。
「じゃあ、ラテ。その匂いの場所まで案内してくれる?」
「うん!」
満面の笑みで答える少年。
そして、そのママの顔もまた笑顔で染まっていた。
だがその笑顔の奥、瞳の中は冷たく凍っていた。




