ネズミ殺し
誓断輪廻 転生した異世界で課せられたルール。最後の一人が決まるまでにしていけないこと。『人殺し、死、自殺』
カニス 正式名称 カニス・アミークス この世界での犬の獣人種の名称
マコトの後ろに駆け寄る一つの影。
黒く艶のある髪。
細く、長い尻尾。
大きく尖った耳はまるで、闇に立つ火柱のような形をしている。
誰よりも慕われたいくせに、誰よりも臆病な男。
マンチェスター・テリアのグレーター。
血と腐敗臭が充満する地獄の中、そんな男が誰よりも早くマコトに駆け寄ろうとしている。
理性はこの地獄から一刻も早く出たいと叫んでいるのに、逆に本能がそうさせてくれない。
マコトと同じ、衝動で動いてしまう。
だが、グレーターは自分がなぜ動いてしまうのかは理解している。
「初めて誰かに頼られた」
それはグレーターが初めてした経験。
穴を掘るのが苦手なグレーターにとって、この村は居心地が悪かった。
楽しくない仕事。
目標がない毎日。
周りに共感してくれるものがいない孤独。
誰かに頼られたいくせに、仲間の輪に入るのは苦手で。
自分を慕ってくれる存在が現れることに憧れていた。
そして、初めてできた弟分。
その弟に初めて頼まれた一つのこと。
「グレーターさん、マコトのそばであの子を守ってもらえますか?」
その願いを聞く直前、崖際を何度も飛び降りるなんて無茶に付き合わされて、本気で怖い思いをしたけど。
それほどの無茶をする男が、他の誰でもない、自分を頼ってくれた喜び。
まだ知り合って日が浅いはずなのに、その信頼を裏切りたくない。
考えれば考えるほど体が勝手に動く理由がグレーターにはわかる。
わかるが、なぜこんなにも簡単にネズミを倒すことができるのかがわからない。
ネズミなんて過去一度も触ったことがないはずなのに。
マコトに飛び掛かるネズミをグレーターはいとも簡単に捻り潰すことができる。
それはグレーターも知り得ぬ遺伝子の話。
マンチェスター・テリアとは、ネズミ駆除をするために改良され作出された犬種。
昨今ではペットタイプとして飼われるようになったため、その役割は半ば失われつつあるが。
小さなものが走っているのを見かけると飛びかかり、シェイクし仕留める。
以前、マコトの背後から近寄ってきたネズミを秒殺してみせたあの動き。
その動きが、グレーターの中に遺伝子として確かに残っていた。
六分間の間に百匹近くのネズミを殺すこともできた”ネズミ殺しのスペシャリスト”としての本能が。
この地獄の中で、理性を上回るほどの能力を覚醒させている。
だが、その本能が強く慣れば強くなるほど、グレーターの理性がどんどん遠のいていく。
「くそ!くそ!くそ!やめろ!くそがっ!」
目の前にいるネズミを捻り潰しながら、グレーターは心の中にあるもう一人の自分が現れていることに怯え始める。
────だんだん、殺すのが楽しくなってきているだろう?
「違う!俺は、あの子を助けたくて…!」
────そう。あの子だ。目障りなあの子。後ろ姿を見せているあの子の首を…噛みちぎってやれ。
自分の言葉じゃないはずなのに自分の中から声がする。
もしかしたら、ここに自分の居場所がなかったのは、穴を掘るのが好きじゃないから。
ではなく、本当は何かを殺すのが楽しいからなんじゃないか?
そんな自己嫌悪がだんだんとグレーターの中で強くなり、体は震える。
だが、ネズミを殺す手は止まらない。
何がなんだかわからなくなり、今まで気にしていなかったこの地獄の雰囲気が、実は自分の本当の居場所なんじゃないかとまで錯覚するほど、思考を蝕み始めている。
「ハハハッ」
自分がわからなくて怖いのに、笑っている。
おかしくなって苦しいのに、楽しんでいる。
「なぜこんな時に笑いが溢れるんだ?」もうわけがわからなくなる。
そういえばあいつもそうだった。
崖を飛び降りる瞬間、なぜシアンは笑っていたのかと今、考える。
死ぬような思いをする瞬間に、笑うなんておかしいことだとグレーターは思う。
だけどあいつはもしかしたら、恐怖に打ち勝つ自分に奮い立ち笑っていたのかもしれない。
自分と似た、少し臆病な雰囲気を持つ男。
自分の弟分だと勝手に決めつけたけど、もしかしたらあいつの方がずっと勇敢ですごいやつかもしれない。
そうだ。
その評価は間違っちゃいない。
だけど、それならなおのこと、あいつに任せられた「目の前の子を守ること」だけは完遂しなければならない。
勝手に弟と決めつけて作った関係だ。
頼られたことを投げ出す奴は兄貴分ではない。
本能が理性を完全に蝕もうとしていたとき、打ち破るのは自身の憧れ。
こうありたいと思う自分の理想像が、グレーターの視界を晴らす。
「あああ!!気持ち悪い!気持ち悪い!気持ち悪い!」
自分の内側から溢れ出た本能の残滓を吐き出すかのように、彼は叫んだ。血と腐敗臭の地獄の中で、自分はまだ正気だと確認するかのように、その言葉を繰り返す。
だが、向かってくるネズミを潰すのはやめない。
手を止めたら、あの子を守れない。
振り払うべきはネズミではない。心の底に巣食う、殺しを楽しむ自分だ。
オレンジ髪の少女が初めて後ろを振り返る。
「うわ!どうしたの?」
今までグレーターが後ろでしてきた、護衛も、葛藤も、覚醒もマコトは気づいていなかった。
「どういたもこうしたもねえよ!お前が一番どうしたんだよ!なんでこの気持ち悪い中、普通にしてられる!」
グレーターの疑問はもっともで、マコトはこの雰囲気に飲まれていない。
ただひたすら一点ある、あの白骨の目に刺さる棒だけを見ている。
「アレのせい」
マコトは詳しく説明しない。いや、説明できない。
「とりあえずあそこまで行けばいいんだな!」
グレーターも詳しくは聞かない。
この子が他のカニスよりも口数が少ないのは出会った時から知っているから。
「うん!」
マコトがその銀の棒に近づくほど、死にかけのネズミたちが立ち塞がろうとする。
だが、この場にいる死にかけのネズミではもう二匹のカニスを止めることができない。
最も凶暴なネズミたちはシアンが引きつけているおかげでこの場にはいない。
あのネズミの黒い波であれば、グレーターも手も足も出ないが、死にかけで、かつ数が少ない今の戦力では、ネズミ殺しの本能が覚醒したグレーターに歯が立たない。
だが、グレーターも万全ではない。
銀の棒に近づくにつれ、どんどん耳鳴りが大きくなり、また視界が曇ってくるような気分になる。
早くマコトが目的を果たしてくれないと、また頭がおかしくなるんじゃないかと体が震える。
そして…。
ようやく辿り着く、元凶の麓。
マコトはまるで狐のように、軽快に飛び移り、大きなネズミの白骨体に刺さった銀の棒に手をかける。
「全部これのせい。こいつが出す…音のせい」
マコトはゆっくりと両手で棒を引き抜き、顔の前で先端の鏃を見つめる。
「あいつの時もこれと同じ音がした」
マコトは両手でその矢を振り上げ、先端の鏃を思い切り地面に叩きつけた。
それはネズミたちの死骸から発せられる血と腐敗の匂いに隠されている狂乱の旋律。
鏃の先端から発せられる波長が、月の満ち欠けにより、体の中にある獣の血を沸かせ、暴力的にさせる。
月と狩猟の女神に選ばれ授けられた、男が残したその呪いの名前は。
月女神の銀涙。
アルギュロー・ダクルシ。




