死んでも花実は咲くものだ
「永遠。
人はそれを持ち得ない。
故に人は、限りある時の中で己の生きる意味を見つけなければならない。
お主はそれを、見つけられるか?」
そう誰かが問いかけた。
ぼんやりと光を感じる。
己の生きる意味か。
そんなものは見つけようとするどころか、考えたことすらない。
いつもの部屋の匂い、淡い天井、閉じた窓、薄い毛布。
そこに溶け込む少女の姿を見て、もう一度思考する。
この子が言いたいのはつまりあれか?
今日俺が何のために目を覚まし、何のために布団を被るのか、ということか?
いや、たぶんそんなことじゃないだろう。この子が言いたいことは。
と言うより、そもそもこの子は誰だ?
俺の上に跨りこちらを見下ろすその瞳には、不思議と懐かしさを感じる。
綾愛ではないよな。まだここまで大きくないし、髪も長く白い。
うちの綾愛は黒髪ボブがよく似合う可愛い子だ。
目が合い数秒、少女は瞬き一つせずこちらをただ見つめるばかり。
そして段々と顔を顰め、口を揺らし、慌てるそぶりを見せた。
「お、お主、妾を見ているのか⁉︎」
「否、そんなはずはあるまい」
「そんなことはあるはすが…」
「いや待て、まさか、そうか…」
「良いか、これは警告だ」
「金輪際周囲に気を配ることを忘れるな!」
「特にお前の大事な人への注意は怠るでないぞ」
言葉を連ねるにつれ少女の顔が近くなる。
警告だとか注意だとか、この子は何の話をしているんだろうか。
よくわからない。まだ寝ぼけているんだろう。
だが一応頭の隅の隅に置いておくとしよう。
少女の顔が遠のいたので次はこちらが口を開く。
「君は誰なんだ?どうして俺の上にいる」
「妾は…」
少女が答えようとしたその時、トントンッと部屋のドアを叩く音と妻の声がした。
「愛ちゃん起きてる〜?」
「そろそろ起きて支度しようよ〜」
「支度〜?なんのー」
「もう、寝ぼけてないで早く起きてよね!」
「今日は3人で水族館行くんでしょ!」
あぁ、水族館。
そう言えば先週、次の日曜に家族で水族館に行くという話になったのだった。
せっかくの休日くらい家でゆっくり、、、なんて言ったら桜が怒るな。
それに綾愛は最近桜にべったりだから、ここらで好感度を狙っておかなければ。
よし、起きるか。
そう思い身体を起こすとあることに気がついた。
「いない」
辺りを見回すが、在るのはいつもと変わらぬ風景だけでそこに少女はいない。
夢?
そうかもしれない。
だがなんだこの感じは。
布団の温もり、身軽さ、甘くて爽やかなリンゴの香り、透き通った声色。
俺の視覚は少女の存在を否定しているが、何か形而上的なものを感じるのだ。
まぁしかし、今ないものに執着している程暇じゃあない。
なんにしろ俺には俺のことを心待ちにしている愛しの妻と娘がいるのだから!
俺は布団を払いのけ急いで洗面台へ向かう。
廊下に出ると、リビングで支度を終えた2人が女子会をしているのが目に入った。
今日の行動計画でも立てているのだろうか。
いや、綾愛はまだ四歳だ。
行動計画になんて微塵も興味はないだろう。
おおかた今朝見たテレビアニメの話なんかをしているに違いない。
そんなことを考えながら洗面所に入る。
電気をつけ鏡に面を写した俺はそこでようやく気がついた。
泣いている。
鏡に写る俺の頬には涙が滲んだ跡が残っていた。
寝ている間にできたものだろうか。
だが全くと言っていいほど身に覚えがない。
こういう時はだいたいあまりの慟哭に目を覚ましてしまうのだが、今回は本当に気が付かなかった。
いったいどうして。
疑念は増えるばかりだが、二人のことを思い出しさっさとルーティンを済ます。
部屋に戻り着ている服を急いで脱ぎ捨て、厚手の服に着替える。
先週桜と綾愛と3人でショッピングに行った時に新調したものだ。
桜のワンポイントが刺繍された空色のセーターは桜が、黒いテーパードは綾愛が選んでくれた。
これ以上今日に相応しい服装があるだろうか。
黒色のコードバンのベルトを締め、薄墨色のコートを羽織り、荷物をショルダーバッグに詰め部屋を出た。
リビングに行くと二人の女子会はあと牛乳一口分程だった。
どうやらやはり今朝見たカワキュア(少女達が変身して怪人を成敗する系アニメ)の話で盛り上がっていたらしい。
さっそく話していたことを俺にも共有してきた。
「お、愛ちゃんその服にあってんじゃん!」
「やっぱあたし達の目に狂いは無かったよ、ねー綾愛」
「ねー、パパくゎっこいい」
「でさー愛ちゃん」
「今綾愛とカワキュアの話してたんだけどね、さっきCMで今日行く水族館の近くでカワキュアのショーがあるって言ってて」
「綾愛が行きたいって」
「だめかな?」
「パパだめなのぉ?」
なるほどそうきたか。
初手に俺のご機嫌取り。
二人で上手く口裏を合わせたようだが、日々上司のご機嫌取りをしている俺には分かる。
これは正真正銘、社交辞令である。
だが!!
そんなことはどうだっていいのである。
何故なら!!!
可愛い愛しの妻子にお願いをされたらば、それを聞くのが夫の役目だからである。
「行くか。」
「やりー!」
「やったー!」
車を走らせ小一時間、水族館に到着した。
渋滞に捕まり思いの外時間を要してしまった。
日曜日だからか水族館も大変混雑している。
しかしここは用意周到。
イルカショーなどチケットが必要なものは先に予約済みだ。
なんせ愛しの娘をチケットが取れなかった、などと言う薄幸に貶めるわけには行かない。
無論桜もである。
「ママみてぇ、ペンギンさん!」
「おっ、ほんとだ〜ペンギンさんだねぇ」
「いっぱいいるね〜」
「綾愛はどの子可愛いと思う〜?」
「ママはねぇ、あの子」
「あのお腹の模様がニコちゃんマークに見える子」
「えーとえーと、あやめはねぇあやめはねぇ」
「ぜんぶ!」
「そうだよね〜、全部だよね〜笑」
「...」
「(なんだよこの可愛いの渋滞はよぉ!!!)」
「さっきの渋滞もこんだけ可愛げがあったらな」
「愛ちゃんはどの子が好き?」
「俺は...」
「桜と綾愛かな」
「パパ変なこと言ってるね〜」
「ペンギンさんのおはなししてるのにねぇ」
「つめたい、」
その後はでかいカニやら鰯の大群やらジンベイザメなんかを見た。
綾愛にとっちゃ初めて見るものばかりで大興奮である。
イルカショーにもなるとイルカ達のいるプールへ飛び込まんとする勢いで押さえ込むのが大変だった。
一通り楽しんだ後に待っているのはお土産コーナー。これがまた、あれも欲しいこれも欲しいで大変である。
綾愛は年相応で快く散財するが、桜、お前はもう25にもなる大人だろ。
だが愛に歳など関係ない。快く散財である。
おかげで明日からは桜の愛妻弁当三昧である。
一石二鳥とはまさにこのこと。
買い物に満足したのか、今朝話したカワキュアのショーのことを桜が急かしてきた。
ここで俺はようやく気がついた。
綾愛はいつもCMに入ると決まって別のことを始める。つまりCMを見ないのである。
即ち桜、お前だな、カワキュアのショーを一番見たいのは。やれやれ全く。
ショーの会場は水族館を出て徒歩5分のところにある広場だ。
夕方ということもあり帰宅する人も多かったのか、そう混み合ってはいなかった。
しばらく水族館の話で盛り上がっていると、カワキュアのOP曲と共にMCのお姉さんが入場してきた。
「ご来場の皆さ〜ん、こ〜んに〜ちは〜!」
「こーんにーちはー」
来場していた子供達が大きな声で応えた。
しかしそんなもんじゃあお姉さんは満足しない。
「お〜なかなか大きな声が出ますな〜」
「でもでも〜君たちならもっと声を出せるよ!」
「そこの君も!あなたも!親御さんも!」
お、俺たちも⁉︎
突然巻き込まれた周りの親御さんたちも、慌てて握っていたスマホをカバンやポケットにしまっていた。
「"ショー"をみんなで楽しもうじゃないか!」
「じゃあみんな〜、さっきよりも大きな声でお願いね〜」
「せ〜の!こ〜んに〜ちは〜!!」
「こーんにーちはー!!!」
観客総出のこんにちはに満足したのか、お姉さんは満面の笑みを浮かべている。
その笑顔を、俺はどこかでみたことがある。
そんな気がした。
だが彼女の笑顔も束の間、不穏な音楽と共にカワキュアと敵対している組織の輩がお姉さんを襲った。
そしてここからはお馴染み、助けを求める声を聞いたカワキュア達が登場。お姉さんは解放され、一時善戦するも不意を突かれ危機が迫る。
「大変!このままじゃカワキュア達がやられちゃう...」
「お願い、誰か近くでカワキュア達を応援して!」
「応援してくれるお友達はいない?」
そうお姉さんが投げかける前には、子供達の手がちらほら上がっていた。
うちの娘の手もあがっている。
怖がると思っていたんだが、大きくなったな。
「みんなありがとう!じゃあそこの君、こっちに来てお姉さんと一緒に応援してくれるかな?」
なんと指名されたのはうちの娘、天ヶ瀬綾愛。
成長した姿を見られる機会をくれたお姉さんに感謝だな。
嬉しそうに立ち上がり席を離れる綾愛の背中をそっと桜が押した。
「いってらっしゃい」
「勇気を出してくれてありがとう!お名前は?」
「あまがせあやめです」
「そっか、あやめちゃんか、綾愛ちゃん。」
「いい名前だよね。ね...」
「愛、桜。」
楽観。平静。平穏。
俺達の名前が彼女の口から発せられたその時、それらは全て変貌した。
動揺する雰囲気に不穏な音楽が交叉する。
そして俺の脳裏には少女の言葉がよぎった。
「なんで名前をって思ってるでしょ!」
「その訳を知らずして、いや忘れているその顔で!」
「私を見るのは今日で最後。」
「ごめんね綾愛ちゃん。あなたは悪くない。」
「けどこうなってしまったあの日から、私は今日愛達2人に憎悪を贈るためだけに生きてきたの。」
「だから、やっぱりごめんね。」
「ごめんね愛、桜。」
「私が何を言っても、誰であっても、今あなた達にしてあげられるのはこれだけ。」
「もしまた向こうで会えたのならその時は!」
「その時はまた、昔みたいに、ね。」
そこのいた誰も今の状況を理解できていないだろう。桜はどうか知らないが、少なくとも俺は彼女を知らない。知るわけがない。彼女は今日このステージで初めて顔を見て、声を聞いて、そして初めて、初めて、名前を、呼ばれ、た?
「キャーッ!!!」
「あ、あいつ、銃を持ってるぞ!!」
「やばい!みんな逃げろ!!」
は?どうして。初めて顔を見た!声を聞いた!名前を呼ばれた!そのはずなのに!なのになんで、こんなに懐かしいんだよ!...桜は!、!桜もだ、桜も俺と同じ、彼女を知っている!あいつ、あいつは誰なんだ!、違う、今は、今は綾愛だ!綾愛が何かされ、銃!?銃って、おいおいおいおい!
叫ぶより早く体を動かす。
背を伸ばし、足を伸ばし、手を伸ばし、指先を伸ばす。
「綾愛ーー!!」
「綾愛...」
バンッ!!!
その大きな音に俺の叫びは無慈悲にもかき消された。
横たわりこちらを向く綾愛の白い肌が赤く彩られていく。
伸ばし切った俺の体は、希望を抱くにはあまりにも遠すぎた。
桜ももう、駄目だ。感情が追いついていない。
ただ、目の奥から光が消えていく。
ただ、目の前が淡々と薄まっていく。
「私はね、愛、桜。」
「どっちの方が憎いとかじゃないの。」
「どっちも憎たらしいんだよ。」
「だからどっちかに絶望を背負わせたりはしない。一緒に死なせてあげる。優しいでしょ。」
「今まで楽しい時も、悲しい時も、喧嘩した時も、3人一緒だったけど。」
「今回ばかりは私はいけない。」
「だからこれだけ。」
「2人とも。」
「愛してる。」
バンッ!バンッ!
「おーい」
「起きるんじゃ」
「起きるんじゃ愛」
この声。
あぁ、あの少女の声だ。
また俺に話しかけてきているのか。
悪いけど俺はまだ眠いんだ。
もう一生、起きなくても良いくらいに。
「起きろ!!」
「ぶわぁ!!」
「ようやく起きたのぉ愛」
「妾のこと、覚えておるか?」
「覚えてるかって、まぁ多少はっ、は?」
「なんだよ、ここは。」
「世の名は天岸。」
「お主らがあの世と呼ぶところじゃ!」
「あの世だって?」
「うむ。そして!」
「愛!」
「お主は自今、天使となる」