*グレン視点 遠い記憶
**グレン視点**
「なにやっているんだ!! 遊びじゃねえんだぞ!!」
俺の一日は怒声を浴びることから始まる。
「ほら、さっさと働け!!」
荷物を船に運んでいる最中、モタモタしているとすぐに蹴りが飛んでくる。
気が立った船員から足や手が飛んでくることも珍しくなかった。
「ふん、お前みたいな小僧でも使ってやるんだから、ありがたく思えよ」
よく言うぜ。お前なんて周囲からバカにされている使いっ走りじゃないか。周りにいじめられるうっぷんを、自分より弱い奴でしか発散できない哀れな奴。
俺の目には反抗心がありありと浮かんでいたのだろう。
「おっ、なんだ、その目は」
それを相手は見逃さなかった。俺の首をグッとつかむと、顔を近づける。
「いいか。俺たちは船に乗り、ハルバン海峡を渡り、一刻も早く荷物を運ぶんだよ。お前みたいな小僧、足手まといにしかならないのに、使ってやるだけありがく思うんだな」
偉そうな態度で詰め寄ってくるが、俺を雇ったのはあんたじゃない。この事業を営むアルベール伯爵だ。
こいつはなにかを勘違いしている。直接雇用したわけでもないくせに、常日頃からこの態度だ。
「お前、次にそんな態度をとったら、海に沈めてやるからな!!」
俺の反抗的な態度が気に入らない男は、じわじわと首を絞めてきた。呼吸が苦しくなり顔をゆがめると、男はせせら笑った。
俺が子供だからって、バカにしやがって。いつか俺が力を持ったら、その時は覚えていろ。せいぜいそれまでは好きに振る舞うがいい。
「――なにをしているの?」
その時、鈴のなるような可愛らしい声が聞こえた。
男はすぐさま手を放した。反動で俺は尻もちをつく。
ゴホゴホと咳き込む俺をよそに、男はクルリと振り返る。
「あっ、ルシナお嬢さま。こんなむさくるしい所へ、どうしました?」
男はすぐさま媚びを含んだ声を出す。気持ち悪い、さっきまでとはえらい違いだ。
「お父さまと一緒に、船を見に来たの」
楽しそうにはしゃぐ声に顔を上げる。
視界に入ったのは陽の光があたり、天使の輪が輝くサラサラとした髪。こぼれ落ちそうなほど大きな瞳に白い肌。上品なレースをふんだんに使ったドレスを身に着けている。
こんな天使みたいな子が、この世には存在するのか――。
しばしボーッとなり、見とれてしまった。するとすかさず舌打ちが聞こえた。
「おい、グレン。立てよ!! ルシナお嬢さまの前で失礼だろう!!」
今にもつかみかかろうとする男の前に、ルシナと呼ばれたお嬢さまが、サッと立ちはだかった。
「いいのよ、ジョージ」
名前を呼ばれた男は急にデレデレし始める。はたで見ていて気色悪い。
「ねえ、ちょっとお話をしたいの。彼を借りてもいいかしら?」
「えっ、こんな奴とですか?」
男は不満を隠そうとはしない。
「お仕事の邪魔をしない程度に少しだけだから」
頼みこむ彼女は、俺になんの用事があるのだろうか。
「まあ、いいですけど……」
男は不機嫌さを隠そうともせず、俺に視線を投げる。
「じゃあ、ルシナお嬢さまの用事が終わったら、すぐさま来るんだぞ」
威圧的に告げた途端、表情をコロッと変える。
「では、ルシナお嬢さま、俺は先にいきます」
ペコペコと頭を下げながら姿を消したクソ野郎を見送っていると、彼女は急にしゃがみ込んだ。
「私はルシナ。ルシナ・アルベールよ」
瞳をキラキラと輝かせて顔をのぞきこんでくる。その距離の取り方にびっくりしつつも、見入ってしまう。
「わあ、あなたの瞳、とても綺麗な色をしているのね。まるで海みたい」
褒められると途端に恥ずかしくなり、深く帽子を被った。
なぜか彼女の視界に自分が入ることに、たまらなく羞恥心を覚えた。
「あの、大丈夫かしら……?」
おずおずと切り出してきた彼女は、急に自信なさげな声になった。
「あなたがいじめられているように見えたから、つい言葉をかけてしまったのだけど……」
ああ、一連の行動は、俺を助けるためだったのだ。
優しさを感じると共に、自分とそう年齢の変わらない彼女に助けられたのが、なさけなくてみじめに思えた。
手入れされた髪に高級品だと思えるドレス。
それに比べて俺は膝のすりむいたパンツに、色あせたシャツ。
自分とは住む世界が違う人間だと、思わざる得なかった。
その時、遠くから彼女を呼ぶ声が聞こえた。船のたもとでアルベール伯爵がこっちを向いていた。
「じゃあ、私はもう行くわね」
ニコッと笑った彼女はスッと立ち上がる。
「邪魔してごめんなさい。お仕事、頑張って。そしてーーあなたが無事に帰ってこられますように」
祈りを捧げるように両手を組んだあと、フワッと笑う。
まさか俺のために祈ってくれたのか……?
踵を返す彼女の後ろ姿から、目が離せなかった。
その夜、毛布にくるまって一日の出来事を反芻した。
仕事に戻った俺は、あのクソ男ジョージに、こっぴどく嫌味を言われた。ひがんでいたんだろう。だが、いつも以上にうまく聞き流すことができた。
それよりも俺の心を占めていたのは――。
ルシナ・アルベール。
船の事業のアルベール伯爵の娘。わかっているのは、それだけだった。
首を傾げて微笑む姿。底辺の俺に見せた気遣い、優しい笑顔。
俺とはすべてが違う。住んでいる環境も世界も。
考えるだけ無駄だと思ってはいても、ずっと頭から離れない。
俺は彼女にお礼の一つも言えなかった。
もっと……もっと彼女のことが知りたい。
寝心地の悪い固いベッドの上でギュッと瞼を閉じた。だが今夜は眠れそうになかった。