30.転落
「で、でも可哀そうなグレン。いくら世間体のためとはいえ、結婚しけなればいけなかったなんて」
アンナ・ブッセンは頬に手を当て、ため息ついた。
「そうですね。アルベール家も、彼の優しさに救われましたわ」
借金清算してくださった方ですからね、ええ。
「敏腕な事業家、今では右に出る者はいないほどの資産もあって。そんな彼に唯一足りないのが血統。あなたの実家を足掛かりにして貴族社会に進出したいだけなのよ。だから誤解しないでね?」
ここまではっきりと口にする人物はある意味、珍しい。
「そうですね。私も不思議なのです」
私は微笑みを絶やさない。
「貴族でも未婚女性が大勢いる中で、なぜ私が彼に選ばれたのでしょうね」
これは本当に疑問なところだ。いつか彼に聞いてみたい。わざわざ借金持ちのアルベール家でなくても良かったんじゃないのかと。
ここで私は不意に意地悪な気持ちになる。言われっぱなしではいられない。
「それこそ、アンナ様と結婚されても良かったでしょうに」
彼女の目を見て、微笑みかけた。アンナは目を吊り上げ、唇をかみしめた。
「私が選ばれなかったとでもいいたいの!?」
私は無言で彼女を見つめた。怒りで肩を震わせている彼女は叫んだ。
「あんたなんて、身売り同然の結婚じゃない!! 金さえあればいいだなんて、娼婦と変わらないわ」
そこまで言われ、さすがに私も心中穏やかでいられない。
「まあ、ひどい言い方ですのね」
スッと息を吸う。
「私はいつでも身を引く覚悟はできているから、今すぐグレンにお願いしてみては? 私を選んでください、って」
そう、実際、彼女と結婚しても良かったはずだ。でもそうしなかったのには理由があるはず。
「どういう意味よ!?」
アンナは怒り狂った形相で私に掴みかかる。
ドンッと胸を押された衝撃でバランスを崩す、手すりに掴まろうとしたが、遅かった。
あっ、落ちる――!!
アンナ・ブッセンの、驚愕に目を見開いた顔が視界に入る。
次の瞬間、水しぶきを上げ、全身が冷たい水に包まれた。ゴボゴボと口から漏れる息。船から落ちたと理解した時、脳裏をよぎったのはそれまで意識したことのなかった 『死』だった。
えっ、私はこのまま終わるの……!?
死ぬわけには……いかない!!
必死で浮かび上がろうと手をばたつかせる。でもドレスが水を吸って重くて仕方ない。息が苦しくなって、顔をゆがめた時、大きな水音がした。強い力で手首を引っ張られ、水面に顔を出す。
「はぁ……はぁ……」
助かった……!!
呼吸が苦しくて必死になって息を吸う。目の前には焦った形相で、私と同じくずぶ濡れのグレンがいる。
「なぜ海に飛び込んでいる!? 正気か!?」
いきなり怒鳴られた。びっくりして肩をすくめる。
「じ、自分から飛び込んだわけじゃないわ」
バッと顔をあげると甲板が騒がしい。
「上がってきた!」
「救助の者、急いで向かえ!!」
その中で真っ青な顔をしたアンナ・ブッセンを見つけた。グレンは瞬時に理解したのだろう。私の肩をグッと抱き寄せて叫んだ。
「アンナ!! 今回の件を説明してもらうからな」
彼女は顔をゆがめ、パッと甲板から離れた。
「無事で良かった……!!」
グレンは私をギュッと抱きしめる。
彼の体が温かいと感じ、しがみついた。今さらになって震えがきた。あの高さから落ちて、無事だったことが奇跡に思えた。それもグレンが引き上げてくれなかったら、どうなっていたか。
礼を言おうとしたが、唇がガクガクと震え、言葉が出ない。
寒い……!!
いくら陽ざしが温かいといっても水浴びするには、まだ早い気候だ。
震えていると救助の小さい船がやってきた。先にグレンが乗り込み、私の手を引っ張り上げた。そして二人で陸に戻る。
「急いで屋敷に戻る」
グレンは私に上着をかけた。フワッと彼の香りがした。
だがそれすらも気にしていられないほど寒くて、歯の奥からガタガタいって震えてしまう。
そして馬車を飛ばして屋敷に到着した。
「ジール!! ジールはいるか!!」
屋敷に到着するなり、私を抱きかかえながらグレンは叫んだ。
「どうなされました?」
早い時間に帰宅した私たちを視界に入れると、ジールはあっけにとられた。
「なんと、ずぶ濡れで!!」
そうこうしているうちにシルビアもすっ飛んできた。
「いったいこれは……」
二人は目を丸くしている。
「説明はあとだ。早く湯を!!」
二人は力強くうなずいた。
******
「ああ、生き返った……」
温かい湯に浸かると、ようやく体の震えが止まった。
「お嬢さま、いったいどうされたのですか? 本当に驚きました」
濡れたドレスは脱ぎにくいこと、この上なかった。冷えた体にぴったりと張り付き、凍死するんじゃないかと思えた。私は一連の出来事をシルビアに話した。案の定、彼女は激高した。
「本当に無事で良かったです」
グレンが助けてくれなかったら、どうなっていたのだろう。もしくは気づいてくれなかったら今頃、海に沈んでいたかもしれない。
「ちゃんとお話しされた方がいいですわ」
シルビアの助言を受け、きちんと彼と話そうと思えた。