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咄嗟に違和感のあった方向へ身体を向けると、既に相手は高草に身を隠し、獣道を作りながらこちらに向かってきていた。
「はやっ……!」
こちらの攻撃を気にする素振りを一切見せない突貫。咄嗟に左手を構えて魔法を放つ為に口を開くが、その瞬間、背後の足元から猛烈な悪寒に襲われる。私は構えを解くと全力で左に飛び退き、背中から高草の海を転がり一回転して立ち上がる。
回転した視界が正常に戻り、下がった顔を正面に向ける。その瞬間、目の前の空間から赤く照ら付いた口内と、その内側から伸びた4本の鋭い犬歯が眼前に迫る。
「──!」
声にならない声を上げ、反射的に左腕を顔の前に翳す。それとほぼ同時に、左腕に上下から強く挟まれた様な圧迫感を覚え、体力がゴッソリ削られる。それに加えて突進の重みが加わり、その場に勢い良く尻餅を突いてしまう。目の前では、腕からはみ出した4本の牙が、糸を引きながら私を殺そうと上下に乱舞していた。
「こんのっ!」
両太腿に点で感じる重さを跳ね除け、腕の向こう側に向かって逆手に持った短剣を突き刺す。すると、腕に加わる圧が更に強さを増し、毛皮から赤いエフェクトが派手に散らばる。
このままでは他の個体の追撃が来てしまう。私は目の前の存在に短剣を何度も突き刺しながら気合いで立ち上がり、噛み付くそれをどうにかして倒そうと踠く。が、その時漸く、私は自分の腕に噛み付くモンスターを目にし、唖然とする。
「──あ?おおか、み?」
赤黒い口に乳白色の犬歯。そして、赤色の瞳。それは分かる。ハッキリと、今、私の腕に噛み付いているのだから、見えて当たり前だ。だが、そのパーツが付いている肝心の“頭”が見当たらない。いや、実際に目の前にあるのは確かなのだ。だが、頭があるであろう部分が掠れて見えないのだ。
それだけでは無い。その先に伸びているであろう胴体は、まるでその場に濃霧が漂っているかの様な見た目をしており、四肢に関しては先の方が霞んでいる。尻尾を見ると、先の方は煙状となっており、完全に周囲の霧に溶け込んでいた。
その、あまりにも想像とはかけ離れた姿に、思わず思考が停止する。その隙を、ミストウルフは見逃してはくれなかった。
足元から這い上がる悪寒。先程、足元に現れた存在と同じ威圧感が、私の足首に吐息を吐いた。
いつの間にか両足は地面から離れ、私は空中で膝を抱えて丸まっていた。足元には、今まさに私の足に噛みつこうと牙を伸ばし、高草を食らった狼の姿があった。
(姿が見える……?)
足元でこちらを見上げるミストウルフは、細部までハッキリと姿が視認出来た。だが、そう思ったのも束の間、ミストウルフは目と口だけを残して霧に消え、次の瞬間にはその目と口すら消してしまった。
もしやと思い、腕に噛み付くミストウルフに視線を向ける。だが、こちらは先程と姿は変わらず、半透明の様な状態のまま。
(よく分かんないけど、先ずはコイツから!)
身体が自由落下を始める。それに合わせ、私は左腕を振り下ろし、短剣を指の間で挟んで柄頭を掌底に押し当てる。そして先端を赤い瞳に突き刺すと、着地の衝撃に合わせて内部へ深く押し込んだ。
「キュオォォォ──!」
狼は私の腕に噛み付いている事など忘れ、情けない叫び声を上げる。私は咄嗟に緩んだ顎から左腕を引き抜き、短剣を逆手に持ち直して中身を掻き混ぜる。
「クォ、ガァ、キャァ。キョ、キョ」
ミストウルフは口や目から大量のエフェクトを撒き散らし、歪な鳴き声を上げながら身体を痙攣せさせる。そして少しずつ半透明の体に実態を帯びさせると、全身が赤いエフェクトとなって消えていく。
やっと1匹。だが、ここからが勝負所。今までは今倒したミストウルフともう1匹の2匹だけだったが、仲間が死んだ事でただの気配を殺意に塗り替えた奴等が、問答無用で襲い掛かってくるだろう。現に、先程まで逃すまいと周囲を旋回していた気配が、その場に立ち止まって殺意を向けていた。
1匹減らしたとはいえ、い未だ圧倒的に奴等の方が有利。それに、今の1匹を相手にこちらは、左腕の肘から先が自由に動かせなくなっている。まともに動いた状態でも風弾を当てる事は厳しかったのだが、これではもう、風弾に頼る事は出来ない。
強く噛まれたお陰か、腕に巻いた毛皮は程よく固定され、境目を握らなくとも良くなっている。それでも、毛皮の耐久値が少ない事には変わり無く、盾として使えるのも後1回といった所。
「頑張れ私。まだ何にも出来てないんだから」
──クォーーーン!
再び、遠吠えが鳴る。濃霧が、地面が、高草が、その遠吠えに怯える様に小刻みに震えた。同時に濃霧の壁が破ぜ、内側からミストウルフが飛び出してきた。
正面に1匹、そして背後の左右に1匹ずつ。もう1匹、視野範囲内に居るであろう奴に関しては、他の奴等の殺意に掻き消されて感知出来ない。
「〈風弾〉!〈風弾〉!」
正面から向かってくる奴に視線で風弾を放ちつつ、背後の敵に挟まれぬ様に右側に走る。ミストウルフより私の方が初速は速いのだが、高草の妨害があり逃げ切る事は不可能。だが、逃げるつもりは毛頭ないので問題無い。
私は正面の個体に風弾で牽制を続けて、左側に居た個体共々一定の距離を保つ。そうする事で、並走して追いかけて来ている個体だけが、私に近付く事が出来る。
もし仮に、時間を掛けて距離を詰めてくる様であれば、その間に私の体力は全快する。それでも、左腕が使える様になるわけでは無いが。
「〈風弾〉!」
ただ、風弾を連発する為のMPが先に切れてしまいそうだ。正面の敵の動きに合わせて、先置きで風弾を放つ事が出来れば問題無いのだが、姿が朧気にしか見えず、且つ並走する個体に常に気を配らなければならない以上、残念ながら私の脳では不可能だ。
(スタンボルトは1発ある。だけど、1回使えば2分は使えない。使いどころは気を付けないと)
スタンボルトは1メートルと射程が短い。その事も念頭に置かなければ、いざという時に不発に終わってしまう。そうなれば、私の負けは確定する。
「〈風弾〉!〈風弾〉!〈風弾〉!」
そろそろMPの枯渇が見えてきた。恐らく、ミストウルフ達はそれを知って下手に攻撃してこないのだろう。
「賢すぎるよ、まったく!」
私は肘を軸に左手のひらの角度を変えると──
「〈風弾〉!〈風弾〉!──〈風弾〉!」
3発目の風弾に合わせて攻撃カーソルに触れ、左手から風弾を発射した。
発射された風弾は私の向いている方向とは反対側……つまり、並走していた個体に向かって飛んでいく。だが、ミストウルフは高草の割れる音に反応し、飛び上がる事で風弾を軽々と回避してみせた。
──その飛び跳ねた姿は、何故かハッキリと目視する事が出来た。
「ふひぃ!」
姿が見えたのは僥倖だった。
私は即座に身体を捻り進路を変えると攻撃カーソルに触れ、落下すら始めていないミストウルフに肉薄し、小さく呟いた。
「〈スタンボルト〉」
んぁ〜
体勢を立て直す途中の変な形で硬直したミストウルフの喉元に、私は口を大きく開いて噛み付いた。
獣人特有の鋭い2本の犬歯が皮越しに喉を押し潰し、巻き取られなかった綿菓子の様に長くフワリとした長毛が舌に絡む。だが、私の目的は噛んで倒す事ではなく、噛み付いて“固定させる”事。その理由は勿論──
「うおぉ!」
飛び付いた勢いで地面に転がりながら、私は固定したミストウルフの頭……瞳に向かって短剣を突き刺した。
ミストウルフは悲鳴を上げない。が、犬歯越しに喉が震えている事が分かる。
前転の勢いのまま身体を跳ねさせ立ち上がり、刺した短剣を引っ掻き回す。
既に硬直は解けているが、痺れの効果のお陰か抵抗する力は弱い。恐らくこのミストウルフ、力自体はそこまで強く無いのだろう。
霧に溶け込む能力を持ち、速さに特化したモンスター。確かに、相当厄介なモンスターではあるが、姿がハッキリと見えてしまえばこちらの物だ。
先の攻撃で速度が少し落ちた所為で、後から追いかけて来ていた個体が間合いの側まで近付いていた。
スタンボルトは使えない。風弾に関してもMPが僅かしか残っていない。何より、この短剣の形的に、刺突以外でダメージを与えられない所が地味に痛い。使い古した短剣の、斬って刺してに最初から慣れてしまっているので、初陣がミストウルフなのは間違いだったと今更気付く。
「狙いは目ぇ一択。だけど、頭を固定する手段が無いのがキツい……」
互いの間合いギリギリの距離を保ちながら、スタンボルトのクールタイムが終わるのを待つ。最初に正面に居た個体は、先の攻撃の際に距離が空いたので、今の所追い付かれる心配は無い。
「後2匹。このまま、スタンボルトが使えるまで逃げれば良いだけ……!案外余裕じゃん!次は最初から、噛み付きを防ぐ物を用意し──」
何かを、忘れている気がする。そう、ふと思った瞬間。左足の膝裏に何かが触れた。
「──あえ?」
気が付くと、目の前に地面が迫っており、遅れて強い衝撃が全身を襲う。
何があったのか。濃霧、高草、地面と激しく移り変わる視界の中、混乱する頭に頼らず感覚だけで地面を探し、なんとか起き上がる。だが、立ちあがろうとした瞬間、支えを無くした身体が大きく左へ傾き、そのまま地面に突っ伏してしまう。
「え、え?」
慌てて仰向けに倒れた身体を起こそうとするが、左腕と左足が全くいう事を聞かず、すぐには起き上がれなかった。
それならばと、身体を右側に傾けて起きあがろうと力を入れた瞬間。左腕と右足をトラバサミで拘束され、激しく揺さぶられる。
上下左右に震える視界に眉を顰めながら、ジワジワと減るHPバーに危機感を覚え、短剣を強く握りしめて左腕に絡まる奴を殺す為に肩を動かす。いや、動かそうとした。
「……そういやぁ、居たね。存在感薄すぎて忘れてたよ」
腹部と両肩に掛かる細い圧。目の前にはいつの間にか、霧が晴れる様に姿を現したミストウルフが、大口を開いて私を見下ろしていた。
抵抗を諦めて瞼をゆっくりと閉じる。そして、閉じ切る前に見た眼前に迫る瞳に復讐心を燃やしながら、私の意識は別空間へと送られた。




