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再び静まり返った教室。弛んだ糸が音を立てて張る幻聴が聴こえる程に部屋の空気は一変し、パタパタと可愛らしい上履きの音だけが床を鳴らす。
あぁ、面倒な事になりそうだ。私は近付く足音に嫌気を差しながら箸を進め、弁当箱の中身を減らしていく。
その態度が気に食わなかったのだろう。足音は苛立ちを孕み、ペースを僅かに上げた。だが、私の元に辿り着く前に関口マヤが立ち上がり、足音の主人の元へ向かうとその場に留めた。
「ふるるどしたん?昼休みに教室とか珍しいじゃん」
その声は、普段の落ち着きながらも強弱のある揶揄い声に似ているが、緊張や警戒心が見え隠れしていた。その事に道風ふるるも気付いたのだろう。関口マヤの、これ以上通さぬ様にと手を振る仕草で差し出された手を軽く抑えて下げさせると、軽く張った肩に手を回した。
「え、マヤこそどうしたん。なんかいつもより冷たくね?」
「ふるるが熱いだけじゃない?あたし、ずっと室内に居たし」
「……は?何しらばっくれてんの?アンタの態度の話してんだけど」
関口マヤの言葉に、小指から順にペタペタと肩を叩く運指を止め、ニタニタと笑みを浮かべていた顔を不機嫌に歪める。
「ってか、最近冷たくね?アンタ、凩さんと喋る機会が増えたからって、ちょっと調子乗りすぎ」
関口マヤの右肩を掴む道風ふるるの指先が白み、服に濃い皺を作りながら埋もれていく。それに伴い、関口マヤの眉が寄り目が細まると、か細い声を漏らした。
普段であれば、いや、関口マヤと面と向かって対峙する機会が無ければ、身内の喧嘩だと考えて無視していた。だが、僅かではあるが、関口マヤの人となりに触れた事で、私の考えは一変していた。
「ねぇ、道風ふるる。私に用があるんじゃないの?」
気付けば私は箸を置き、椅子に座ったまま体の向きを変えて道風ふるるに声を掛けていた。
自分でも意外だと驚いた。それ以上に周囲の生徒達の方が驚いたのだろう。視界に入れずとも、皆のまじまじとした視線を強く感じる。ただ1人、道風ふるるだけは、私の言葉の鈍い反応を示し、先に鋭い視線を突き刺してから遅れて顔をコチラに向ける。
「空気読みなよ。って、読める訳無いか。ぼっちの陰キャ狼ちゃんには」
若干の怒りに歪んだ顔に侮蔑の笑みが混じる。作り物では無い、本心を映し出した彼女の表情。この顔こそが彼女の正体なのだと、今朝の笑顔を思い出す。
言ってはいけない言葉が口から漏れそうになる。喉まで迫り上がった空気を唾液ごと飲み込むと、私は一呼吸置いてから再び口を開いた。
「……なんでも良いけど、話に付き合ってあげるのは今だけだからね」
ほれ、はよ。
溜息を混ぜながら頬杖を突き、組んだ足に腕を置く。態度を大きく、自分が優位なのだと見せつける様に足先をヒラヒラと挑発する様に揺らし、煽る。
その仕草に、教室にいる皆が再び目を見開いて驚いた。今度は煽られている本人も、目を丸くしている。まさか、教室内で大人しく過ごしていた同級生が、クラス内で悪目立ちしている生徒に対しそんな事をするとは、想像すらしていなかったのだろう。
私自身、「やり過ぎた」と内心で後悔した。これは私の悪癖だ。と、肩を落とし顔を伏せる。
ゲームのやり過ぎで、ゲーム内のロールプレイ……立ち居振る舞いを現実に持ち出してしまう。どうしようもない悪癖。これでもまだマシな方だと、息を吐いてから顔を上げる。すると、額に筋を浮かべた道風ふるるの顔が視界に映った。
怒らせてしまったか?その表情を見て、意外にも私の思考は冷静だった。ただ、少し。そう、ただ少しだけ、思い違いをしていた。そして、その思い違いを思い違いのまま、何も考えずにポツリと呟いてしまった。
「……生理か」
その呟きは、普段の教室内であれば、隣の席の生徒に聞こえるかどうかの声量。だが、外が賑やかであるとはいえ静まり返った教室内。端から端まで聞こえるほどでは無かったが、教室内にいる殆どの生徒の耳に届き、当然本人の耳にもハッキリと届いた。
「──!こんのっ!」
道風ふるるは隣にいた関口マヤを突き飛ばし、私に勢い良く飛び掛かる。同時に、体勢を崩した関口マヤは机にそのまま衝突し、教室内に激しい物音と軽い悲鳴が上がる。
これは不味い。そう思ったのか、近場の男子は慌てて道風ふるるの進路に立ち塞がり、それでも押し退けて進もうとする彼女を制止する。
「離せよくそっ!」
乱暴に喚き立てる彼女を、男子は仕方なしに背中から羽交い締めすると、怒声に被せて声を荒げた。
「離したら手ぇ出しに行くだろ!」
「お前に関係ないだろ!」
「うっせぇ!おい!誰か先生呼んでこい!」
だが、そんな必要はない様で。教室前を通りかかった生徒達の人集りに釣られた教師が喧騒を聞きつけ、勢い良く教室内に飛び込んで来た。
「何があっ──おい!女の先生呼んで来い!」
男性教師は教室内を見るや否や、廊下の外で野次馬をしていた生徒の1人にそう命令し、急いで道風ふるるの元に向かい両腕を掴むと、男子を引き剥がした。
「落ち着け!いいから腕の力を抜きなさい!」
「だぁ!離せよくそ!」
「力強いな……!あ、先生方!この生徒を一旦外に連れてくんで、ちょっと手伝ってください!」
数回の問答の後、男性教師は教室に訪れた他教師に声を掛け、道風ふるるを囲む様に押さえると1人の教師を残して教室内を後にする。そして、残った教師は廊下に屯する生徒達に「用がない奴は教室に戻れ!」と、強めの口調で叱りつけ、倒れている机を元に戻しながら教室内に視線を移す。
その一連のやり取りを、座りながら黙って見ていた私は、散り散りになる廊下の住人達を一瞥してから立ち上がり、守ってくれた男子の元に歩み寄ると視線を逸らしながら礼を述べた。
「……さっきはありがと」
するとその男子は、照れた様に鼻頭を掻きながらヘラリと笑った。
「べ、別に大した事じゃないから。それより、あの態度はゲーム内だけにした方が良いよ」
「それは……そうだね」
反論する余地など無い正論に、私は口籠もりつつも頷くと、教卓前で佇む関口マヤの元へ声を掛けに向かう。だが、その前に教室に残った教師が教室内にいる皆に声を掛ける。
「すみませんが、何が起きたのか説明をお願い出来ますか?幸い、怪我人はいない様ですが……このまま話を聞かずに。とも行きませんからね」
その言葉に、教室内の生徒の視線が一点に集中する。その点には、勿論私がいる訳で。
「ええと、君の名前は?」
男性教師は生徒達の視線を追うと、私を見て首を傾げ名を尋ねる。
「……多々良千歳です」
「多々良さんですね。今から職員室の方で話を聞きたいのですが……ご飯は食べ終わってますか?」
私は無言で首を横に振る。
「であれば、ご飯を持って着いてきてください。皆さんは食事に戻るか次の授業の準備に戻る様に。後、彼女が遅れた場合は次の授業の先生に呼び出されていると伝えてくださいね」
では行きますよ。そう言うと、弁当箱を持った私の背中に手を回し、軽く押す。そこで今まで黙っていた関口マヤが口を開いた。
「あ、あの。私も着いてきます」
呼び止められた教師は背を押す手を外すと振り返り、首を傾げる。
「君は?」
「関口です。そい……多々良さんと一緒に飯食ってて、連れてかれた子とも知り合いなんで、多分多々良さんより状況の説明が出来ると思う」
「……分かりました。では、同行をお願いします。ご飯の方は済んでますか?」
「いや、持ってきます」
関口マヤは机に置かれた菓子パンとペットボトルを乱雑に掴み取ると、駆け足でこちらに向かってきた。そして、私は教師に背中を押されながら教室を後にし、3人で職員室に向かった。
職員室に着くと、近くにある生徒指導室から道風ふるるの怒声が漏れ聞こえてきた。どうやら彼女はその部屋で、数人の教師にことの発端を説明しているらしい。とは言っても、聞こえてくる内容は感情的な物と暴言ばかり。正直、用はなんだと急かしただけで、何故あそこまで怒り狂えるのか理解が出来ない。
なんて事を考えながら、生徒指導室の方を見て立ち止まっていると、教師が慌てた様に職員室の扉を開き、「早く入りなさい」と背を強く押した。
中に入ると、複数の教師の視線が突き刺さる。その中に担任の先生の顔が無い所を見るに、道風ふるるの元に出向いているのだろう。言っては悪いが、あの担任と今の彼女の相性は最悪なのではと、顔に苦笑が浮かぶ。
教師は私達を仕切りのある一角に通すと、革張りの黒い1人用ソファに座らせ、紙とペンを持ってくると机を挟んだ対面に腰を下ろした。
「では、何があったのか最初から教えてください」
私は教師に、教室で起きた出来事の一部始終を話す。時折、関口マヤが私の説明に補足を挟みながらも、それら全ての内容を教師は紙に記していき、昼休みの終わりを告げるチャイムが疾うに過ぎた頃、漸く教師はペンを机に置いた。
「──これで全部だと思う」
「そうですか。……ちょっと待ってくださいね。一度見直しますから」
そう言うと、教師は紙を手に取りソファに凭れ、黙り込んでしまった。
「なんか、巻き込んでごめん」
何故か、関口マヤは顔を逸らしながらそう呟いた。
突然の謝罪に何の事か理解できず、首を傾げて何の事かと聞き返す。
「いや、あたしが嫌な顔しちゃったから、ふるるがアンタにちょっかい掛けた訳だし……」
「あぁ、あれね。今回のは正直、時間の問題だったと思うよ。前々から敵視されてたんだから。寧ろ、1人で来た事に驚いたくらい」
「あーね。ふるるの事だから、男子の先輩引き連れてきそうだよね。てか、実際に前ん時はそうだったし──あっ」
関口マヤはそう言うと、ハッとした表情を浮かべ両手で自分の口を塞ぐ。その仕草と内容に、目の前に座る教師は片眉を上げると紙を下ろし、関口マヤを見つめる。
「……前にも今回の様な事があったんですか?」
その質問に対し、関口マヤの視線は泳ぎ、言い淀む。
「いやぁ……その、今回とは全然違うっていうか……。話し合い?的な?あ、あたし、その場に居なかったから知らないし……」
一応の弁明に耳を貸す様子を見せず、教師は再びペンを取り、紙の下の方に「以前にも問題行動あり」と記していた。関口マヤは諦めた様に肩を落とすと、深い溜息を吐いた。教師は気にせずにペンを置くとソファから立ち上がり、私達に声を掛けた。
「話はこれで終わりにしましょう。ご飯を食べ終えたら、授業に戻りなさい。後、もしかしたら放課後、この件で呼び出す可能性があるので、すぐに帰らず担任の先生に一声掛けてください」
そう言うと、教師は紙とペンを持って立ち上がり、職員室から出ていった。
ドッと、肩が重くなる様な錯覚を覚えながら溜息を吐くと、膝に置いた弁当箱を机に置き、広げる。隣では、関口マヤが菓子パンの袋を開けて中身を豪快に頬張っていた。




