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ダブルミーニング  作者: 雫
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ダブルミーニング

 プロローグ


 何故誰も私を認めてくれないのか。

 いつだってそうだった。

 小学生の頃、授業の習字で特選を取った私に父や母は何か優しい言葉をかけてくれただろうか。

 中学生の頃、体育祭の徒競走でグループの一位を取った時、クラスのみんなは私に駆け寄ってくれただろうか。

 高校生になっても、大学生になっても、社会人になった今でも、誰かが私の頑張りを褒めてくれた事があっただろうか。

 そんな事は一度たりともなかった。

 そこに悪意があったのか、どんな他意があったのかなんて私には分からない。私にそれを確かめる術は無かったのだ。そんな話をするような彼氏などもちろん居た試しもなく、共に登下校する様な友達も、たわいもない会話をしてくれるクラスメイトも、休日に遊びに出かけてくれる親友も、今までただの一人もいなかったので誰にも聞く事が出来なかったのだ。

 もちろん意図的に目立たぬ様表に立たぬ様心掛けていた事も理由の一つにあるのかも知れない。それでも私は自分で言うのも何だが、勉強だってそれなりに出来るし、運動部に入っていた訳では無いが、体力にだって自信はある。スタイルこそそれ程魅力的ではないかもそれないが、決して肥満ではないし、それに普段からお化粧してる訳じゃないけれど、その分肌だって綺麗だし顔だってそこそこのはず。矛盾している様だが、私は表にこそ出られないが、皆に認めてもらえるだけの存在であるはずだし、私自身もっと皆に見てもらいたい。一目置かれたい。せめて普通の女性としての人生を生きてみたい。

 社会人になった今でもそれは変わらず、膨らんだ承認欲求を満たす為に流行りのSNSもやってはみたがもちろん結果は明白、誰との繋がりもないのに誰かと繋がれるはずなど無いのだ。

 何故誰も私を見てくれないのか。私はここに居るのに。

 多くは望まない、ただ誰かに見ていて欲しい。

 いつからそう思う様になったのか。


 ・・・・


「せーんぱい、

 もうべつにおはなししてくれなくてもいいんですよ、

 そちらにかけてごゆっくりしててくださいね。」


 すっかり冷たくなって動かない先輩の顔をこちらに向け直し、虚な瞳に映る自分を確認する。今先輩ひ間違いなく私だけを見てくれている。私は満たされていく心を静かに抱き締めた。



 第一章 澤木恭一の朝



 ――春。僕にとって社会人二年目の春である。平々凡々とした学生時代を過ごした僕は大学を卒業後、これまた平均的で無難な中堅建設会社に就職する事となった。一生この仕事で食べていくとかそんな事は全然イメージ出来ないし、なんなら五年後十年後、もっと言えば来年だって続けていけるのか全く想像できない。こう言っては何だが、それ程になんとなくぼんやりと生きてきてしまっている。

 だがそれでいいのだ。僕にはそれくらいが丁度いい。現にこうして今の仕事だって厳しい先輩や上司、辛い仕事だってあるけれど、何となくやっていれば時間は勝手に過ぎてくれて、僕でも二年目の春を迎える事が出来るのだ。

 正直自分でもこの生き方が性に合っていると思っている。確かにこれと言って何か大きな事を成し遂げたりとかって事もないし、野心みたいなものだって微塵も無いけれど、逆に大きな事件や問題もなく、静かに緩やかに日常を過ごしていけるのだ。それでたまに気の合う友人達とお酒でも飲んで楽しく出来た日なんてもう幸せこの上ない。

 とはいえ、とはいえだ、別に毎日の仕事が楽しくてやり甲斐にあふれてるなんてそんな気持ち当然持ち合わせてはいない僕なので、休み明け月曜日の朝の憂鬱さったらない。特段朝が弱いわけでも低血圧という訳でもないけれど、この春特有の穏やかな暖かさに包まれていると、どうしたって布団から出るのが億劫になってしまうものだ。まぁそんな事いつまでボヤいていてもさっさと起きなきゃ遅刻するし、月曜から遅刻なんてしようものなら上司である桧木所長に何を言われるか分かったもんじゃない。まぁ何を言われるかは分かってはいるんだけどね、考えたくもないって事。

「あーーー面倒くさいなぁ・・・。」

 僕の勤めるO工業には、内勤といわれる会社内での事務や設計なんかのデスクワークを主に業務内容とする課と、施工管理といってそれぞれの建築現場に赴いて工事を取り仕切る技術課がある。僕はこの後者の技術課なんだけど、何が大変って今回の請け負った現場が僕の家から電車に乗ってバスに乗り換えてそこから20分歩いたところにあるのだ。またその道中がひどく急な坂道で、なんなら山にちょっと入ってる気がするほどである。

 曰く、旧公民館を改築してホテルにするらしい。らしい、というのも、まだ現地調査、計画段階でまだ本格的には工事は始まっていないので、やはり経験の乏しい僕ではまだまだ全体像なんて想像出来ないのだ。というか言っては何だが、こんな僻地にホテルなんて建てたところで本当に集客何て見込めるのだろうか。自然を売りにーとか、別荘感覚でーとか、そんな謳い文句を目にしたけれど、僕からしたら山登りが趣味の人間くらいしかこんな山の手に足を運ぶ事などないだろう。あ、そうか、人里離れた所にすればそれはそれで需要があって、都会の喧騒を忘れたい人が来る可能性はあるのか、あながち悪くない目の付け所なのかな?なんて益体のない事を考えていたらもうかなりやばい時間だ。

 さて、今日も一日頑張りますか。

 僕は身支度を済ませ玄関の鍵を閉めた。

 電車に揺られる事40分、バスが来るまで20分弱、バスに30分ほど運ばれた先から急勾配な上り坂をこれまた20分ばかし歩いた先に現場事務所として仮設営しているプレハプ小屋がある。これは、まずいな。息を切らしながら腕時計に目をやると、出勤時間の八時半に差し掛かろうとしていた。慌てて扉を開け大きな声で挨拶をする。

「おはようございます!」

「うぃーす、おせーぞぉ」

「……。」

「……。」

 大丈夫、時計の針は29分を指している、遅刻では、ない、はず…。しかし返事が返ってきたのは遠藤薫先輩ただ一人であった。僕は恐る恐る所長のデスクを覗き込む。

「なんだぁ澤木ぃ、昨日休みだったからって、朝までヨロシクやってやがったのかぁ??」

 これだ、僕はこれがどうにも嫌なのだ。こういう言い方は好きではないけれど、昭和を背負い過ぎだぞこのおっさん。この桧木西洋所長、年は40代そこそこのはずなんだが、何かにつけてすぐに下ネタに持っていこうとするのだ。女性社員が近くに居ようがおかまいなしのセクハラ上司なのである。いい大人で人の上に立つ立場なのだからどうにか弁えて欲しいものだ。

「すいません、電車までは順調だったんですけど、バスが遅れてたみたいで。」

 こう言っておけばそれ以上深くは追求して来ない。昭和生まれのセクハラオヤジなんてまともに相手してられない。

「おはようございます…」

 随分遅れて返事が返ってきた。今年入社したばかりの新人女性社員、小田真紀さんだ。何というか彼女は、とても静かでほとんど自分から何かを発する事がないので、たまに存在を忘れてしまう事がある。

「さっさと昨日の調査書類まとめて提出しろよー俺が帰るの遅くなんだぞー。」

 後ろから遠藤先輩の声が飛ぶ、これはまだ大丈夫なレベルだがこれ以上まごまごしていては本当に怒られかねない。僕は早々と着替えを済ませパソコンを立ち上げる。

 4月28日

 報告書  澤木恭一…


 ・・・



 第二章 桧木西洋 独白



 ジリリリリリリリリ!!

 目覚まし時計の大きな音に体を跳ね起こす。一人で起きる朝は何とも辛い。元来身体の強い方では無かった私は低血圧の所為もあってか、朝が非常に弱かった。盤の直径が30センチもあろうかという大きな目覚まし時計を止めて、最近めっきり動きの悪くなった身体に鞭を打つ。

 起きろ、頑張れ俺、可愛い娘が、渚が見てるぞ。

 俺は自分にそう言い聞かす。そこに娘はもういない。けれどここにはいないその娘だけが、俺の唯一の心の支えだった。

 仕事柄帰りがいつも遅くなり、家事はおろか娘の世話なぞ一度もした事もなく、育児の大変さも何も分かっていない俺だが、だからこそというか、何とも無責任な話だが、辛い思いを一つもしていない俺にとって娘は無条件に愛おしくて仕方がない。しかしあまりに家庭を蔑ろにし過ぎた結果というのか、自業自得と言うべきか、ある日突然妻のさやかは家を出て行った。たまにではあるがヒステリックに怒り出す事はままあったので、まぁ今回もほとぼりが冷めればひょっこり帰ってくるだろうと胡座をかいていたのがまたいけなかった。さやかは待っていたのだ、これを最後のチャンスとして、俺がさやかと渚を妻の実家まで迎えに来るのを。そして数日経って俺の元に来たのは、記入済みの離婚届だった。

 もちろん最初は俺も離婚を拒んだが、さやかの、別にこっちは裁判でもいいんですが如何しますか、という呟きに俺はさやかの覚悟を思い知らされてしまった。そこまで思い詰めていたなんて、そこまで追い込んでいたなんて、その瞬間まで思いもしなかった。

 三ヶ月に一度は娘に会える、もう少し大きくなったら、海のように大きな男になれとお袋が俺に付けてくれた様に、深い海の様な愛を持った優しい女性になって欲しいと、俺と同じ海の名前を付けたんだよ、と渚に教えてあげたい。

 顔を洗い、栄養ドリンクを飲んだら切り替えよう。こんな顔職場の若い奴らには見せられない。せめて明るく振る舞おう。それで場が和むのなら、得意じゃないけど下ネタだって言ってやるよ。どいつもこいつも小生意気な奴らだが、みんな未来ある若者、仕事以外でこんなおっさんから教えてやれる事は、俺みたいになるなと悪い見本を示すくらいだろう。

「さぁ俺が最初に仕事行かないと、もし誰かが頑張ってても見てやれないからな。」

 外に出るとちょうど朝日が昇るところで思わず目が眩んだ。何気ない毎日の出来事だが、いつの日かこの人生に置いてどん底と言ってもいいだろう今日という日を笑って振り返られる、そんな日がきっと来る。そう思うと俺はスマホのカメラ機能で朝日を数枚写真に納めた。時計は4時52分を示していた。



 第三章  蜜月



「さっさと昨日の調査書類まとめて提出しろよー俺が帰るの遅くなんだぞー。」

 ったく仕方ない奴らだ。俺が助け舟出してやったのに気づいてねぇのか。見ろ見ろ、桧木所長の顔を。恨めしそうな目してんぞー。怖い怖い。

 澤木の奴はのほほんとしてやがるからな、こっちでケツ叩いてやらねぇと、しかし新入社員で入った時から面倒見てやってるが、こいつはいつまで経っても自主性がないというか何というか…。今日は仕事帰りにでも飲みに寄って、ちょっと説教してやらねぇとだな。ほんと、俺が居ないとダメだかんな、仕方がねぇな。ん、そうだ、新入社員の小田も誘ってやるか、あいつ暗いからなぁ、つうか何だか不気味なんだよな、たまに一人でニヤニヤ笑ってやがるからな、あれだな、あれぞオタクって奴なんだろうな、やっぱりやめとこうかな…。いや、澤木にダセェ所見せられねぇな。よし!

「小田ぁ、今日仕事終わりで澤木と焼き鳥屋寄って帰っけどお前も空いてたら来れるか?」

「……。」

「…わかりました。」

 無愛想な女、やっぱ気持ち悪いんだよなぁこいつ、澤木のがよっぽど可愛いぜ。

 ……ん?小田と、あぁ、その隣のCADオペの小辻か。パソコンのディスプレイの影になって見えなかった、居たのか、まぁ会話の流れ聞いてりゃ小田が誘うだろ、来たきゃ来るだろうしな、それよりさっさと仕事片付けちまおう、昼までにこの辺片付けねぇと昼から打ち合わせだったな。


 ・・・


 あれ?僕誘われてないのに行く事決定してる…?全く強引な先輩だ。遠藤先輩はお世話になってこそいるが、こういうやけに先輩風吹かせたがるところは如何なものかと思う。

 先程から小田さんと話しをしているのは、小辻日向君、僕らの仕事内容とはまた少し違くて、会社で作られた設計図を桧木所長が現場との差異や打ち合わせなどで変更になった所などを修正していくのだが、その図面作成業務の補佐的役割というか、まぁそんな所だ。それがCADオペレーター…だったはず。というのもそこまで仲が良いという訳ではないのだ。彼は引っ込み思案というか割と物静かなタイプで、あまり自分の事を多くは語らない人なので、その彼の業務内容とまでなるとふわっとした事しか僕は知らない。

 小田さんに関しても、同じタイプというか、よく似た雰囲気の彼に懐いているのであれば一つ先輩である僕の手も煩わないというわけで、正直助かる。というかそれよりも小田さんがあんな風に普通に喋ってるのは初めて見た気がする。いや、小田さんも変な人っぽいが、小辻君も何だがただならぬ気配を醸し出している気がして、やはり類は友を呼ぶという事か、変な人同士気が合うのだろう。 

 書類を先輩に提出したら午後からは桧木所長も遠藤先輩も打ち合わせになるので、現地調査とか言ってその辺をうろうろして時間を潰そう。そういえば現場のすぐ裏の山を少し登ってみたいと思っていたのだった。少しくらい離れたってバレやしないだろう。

 僕は登山が趣味だ、ただしピッケルとかを使って登るような本格的なものではなく、ハイキングみたいなくらいがイメージとして丁度いいだろう。のんびりと山の木々の揺らぎ何かを感じながら散策するのだ。

 しばらく歩いてみたが、やはり地方の田舎の山という事もあって山の草木は鬱蒼と生い茂っており、遠くの方に沼らしき場所や恐らく昔山小屋として使っていたであろう廃屋何かを見つけたが、これはハイキングコースとするにはなかなかに危険な部類に入るかも知れない。少なくとも僕の中ではここは気持ちよく登頂出来る山では無いと思う。野犬でも出そうな危い雰囲気を感じた事と、落ち始めた太陽に引き返す事を決め、僕は踵を返した。


 ・・・


「うぃーお疲れさーんかんぱーい。」

 仕事終わり、僕達は駅近くの焼き鳥屋さんに来ている。結局小田さんも小辻君も桧木所長も参加せず、僕と遠藤先輩の二人で飲みに寄っただけの形になった。おそらく小田さんは小辻君を誘ったが予定でもあって断られたのだろう、それなら私も遠慮します、といった流れだろうか。何となくインドア派な雰囲気の二人なのでそんな気はしていた。いや、しかしひょっとしたら小田さんは小辻君に少なからず好意を抱いているのかも知れないな。

「先輩、もしかして小田さんって、小辻君の事好きなんですかね?」

「は?いやぁそんな事ないんじゃねぇか?ああいうタイプの人種っていうの?はさ、そういう色恋には一番縁遠い気がするぜ?遠藤先輩からの有難い意見だぜ。」

「……さすが縁遠い先輩。」

 面白くも何とも無いがお酒の席だ。合いの手くらい入れてあげよう…。そこから変なスイッチが入ったのか、先輩は僕にやれ恋人は出来たのかだの、どんな人がタイプだだの、何の身にもならない話しを延々とした挙句すっかり酔い潰れてしまった。元々それ程お酒が強い訳でも無いのにいい迷惑である。僕も気の置けない連中とならば気兼ねなく酔っ払えたかも知れないが、先輩の前でそこまで酔える訳もなく、ましてやまだ今日は月曜日、明日も仕事はあるし僕はまだ電車にだって乗らなければならない。

「先輩、僕電車の時間もありますので今日はこのくらいで…。」

「んぁあ、おう…、俺はもう少し飲んでから帰るからぁ、お前先帰っていいぞぉ。」

 先輩は明日の仕事に影響しないかとか考えたりしないのだろうか。ともかく、会話が出来るまでには持ち直した様なので、僕は先に帰らせてもらう事にした。先輩は駅から歩いて十分程の距離の家具付き短期賃貸物件に住んでいるので、最悪歩ける程度まで酔いが冷めればどうにかなるだろう。「あれ?鍵どこやったかなぁ?」と先輩らしき声が店の外まで聞こえて来たのは気にはなったが、そこまで構っていられない。僕は一旦止めた足をまた駅へと向ける。春の夜風が僕の火照った頬を撫でて通り過ぎて行った。明日もまた穏やかな陽気になりそうだ。



 ・・・



 あ、また通り過ぎる人が私を見てくれてる。そう、これよ。これが私よ。もっとちゃんと見てよ。今日はお化粧だってしっかり頑張ったんだから。今日は特別な日になるはず。私はこの日の為にしっかりと準備をして来ていた。駅から少し離れた人通りの減ったこの少し暗い路地は事務所までに必ず通る道である。ここから私は電話をかける、

「実は少し前に忘れ物を取りに事務所に行ったら、先輩のデスクにキーケースが置いてありまして、気になって電話したんですが、だいじょうぶですか?」

 何のことはない、昼のうちに鞄から抜き出しておいたのだ。鍵がなければ家に入れない。ここで先輩が通るのを暫く待つ。

 あ、来た来た!

「おーい、せんぱいまってましたよー」

「ひっ!お、お前何だよ…、き、気持ちわりぃな、ちっ、近づくんじゃねぇ!お…お前、何て顔してやがんだよ…。や、やめろっ!おい!何なんだ!やめてくれっ!!」


 …酷い。本当に酷い。私が何をしたっていうの。こんなに親切にしてるのにどうしてそんな態度取るの。頭に来てついつい持って来てたハンマーを使ってしまったじゃない。

「……ぐっ、お、お前…、なん…でこんな……」

「…せんぱいよっぱらっちゃってるんですか?わたしがわるいんじゃありませんからね?よーくはんせいしてください」

 打ち所がよく無かったのかな、一撃では絶命に至らなかったらしい。この場合は良かったというべきなのかな、やっぱり人って案外そう簡単には死なないみたい。まぁ別に何でもいいか。

 私は先輩に手を回すと先輩に肩を貸す形で事務所方向へと歩みを進める。もし誰かに見られたとしても酔っ払いを連れて帰ってる様に見えるだろうし、そこに嘘偽りはない。途中先輩が何だか暴れそうになるので、仕方なく持って来ていた果物ナイフで数回脇腹を刺した。先輩はその度小さく呻き声を上げるがそれも次第に力無いものへと変わっていった。何事か呻いている様にも聞こえるがもはや何を言っているかは分からない。最初の数回は刺す度に身体が反射的に動くのが、いつも偉そうな先輩が何だか滑稽に思えて可笑しかったので、つい楽しくなってやり過ぎてしまったのか、途中から先輩の中身がはみ出してきてからは反応も悪くなってしまった。

 ちらりと先輩を見ると、先輩も薄らとだがこちらを覗いてくれている、あぁ何て優しい先輩だろう。

「よごしちゃったのきにしてくださってるんですね、ありがとうございます!だいじょうぶですよ、さっきからふりだしてきたあめがぜんぶきれいにあらいながしてくれますよ。でもせんぱいがよごしちゃったんですからね。きをつけてくださいよー。」

 事務所を越え、しばらく山道を行くとようやく目的の山小屋にたどり着いた。途中先輩の腸が私の脚に絡まって何度も転びそうになった事もあってか、思っていたより大変だった。この山小屋は長い事人の手に触れられていない様でかなり荒れ果てていたが、何日かかけて頑張って小綺麗にしておいたから、きっと先輩も気に入ってくれるはず。

 血で汚れ、雨で濡れてしまった服を着替えるていると、床に放り投げた先輩の手がぴくりと動いた気がした。やはり先輩も私と一緒に居られて喜んでくれているようだ。こんなに内臓を撒き散らかして、こんなにも血が沢山出てるのに、それでも生きているなんて、嬉しくて仕方ないに違いない。私は持ち込んできておいた椅子に先輩を座らせる。対面に座って先輩を見るがこちらを見てくれない。この期に及んで何を照れる事があるというの。仕方のない人。私は項垂れた先輩の顔を持ち上げるが、どうしても先輩は恥ずかしがってしまうようので、少しだけ先輩を弄る。俯いてしまわない様に、恥ずかしがり屋な先輩の顎に下から先程の果物ナイフを差し込み、柄の部分を襟元に引っ掛ける。伏し目がちにならない様にホチキスで瞼を止めてあげる。どうやらやっとこっちを見てくれそうだ――。

 静かに、確かに私の心は満たされていく。そう、そうやってちゃんと私の事を見て居てくれたらいいの。

 私と先輩、人里離れた山小屋に、二人だけの甘美の時間が静かに流れる。どれだけ時間が経っただろう。これ程までに私の事だけを見つめ続けてくれた人が今まで居ただろうか。

 暫く悦に浸っていると、その満たされつつある幸せな時間に、ふと声が響く、


 ――こんな事やめるんだ!――


 繰り返される声は少しずつ大きくなってくる。

 こんな事しても意味ない!何よ意味なくないわよ!絶対にすぐにバレて警察に捕まるだけだ!別にバレても私は先輩と一緒に居るだけだし捕まることなんてない!本当にそんな事心から思って――

「あ゛あ゛あぁぁぁぁ!!!!うるさいうるさいうるさいっ!」

 何度も何度も響いて鳴り止まないその声から逃げる様に私は山小屋を飛び出した。後悔や罪悪感なんて微塵も感じていないのに。

 飛び出した春の夜空はいつの間にか雨も上がり、綺麗な月が夜道をほんのりと照らしてくれている。あぁ、どうやら帰り道は躓かずに済みそうだ。



 第四章  



「そっか、今日からゴールデンウィークじゃん。」

 いつもの時間に目を覚ました僕は寝間着のまま立ち尽くしてひとりごちていた。朝起きてからいつもの流れでテレビを点けると、普段から観ているニュース番組はゴールデンウィークの混雑状況を報じていた。そういえば昨日を月曜日だとばかり思っていたのは一昨日が祝日で休みだったからか。なんだ、これなら昨日先輩にもう少し付き合ってあげればよかったかな。いや、下手に付き合ってしまっても面倒くさいだけか。

 僕は休みでも昼まで寝ているタイプではなく、(もちろんいつもは今日程早起きではないが)割と朝から活動的な方だ。とは言っても、特定のいい人がいる訳でもなく、社会人になってからは学生時代の友人ともそれ程頻繁には会えないので、専ら一人で行動するのだが、お一人様に対しても随分と優しい世の中になったのでそれ程周りを気にせずに出歩けている。とはいえ、二日酔いとはまでは言わないが、少し昨日のお酒も残っているので午前中はこのまま眠る事にした。前言撤回ってやつだ。寝る前に一応先輩には昨日のお礼の連絡だけ入れておこうか。電話するのも何なんでメッセージだけ残しておく事にした。

 ——昨晩はご馳走様でした。てっきり今日も仕事だと勘違いして、お先に帰らせていただきましたが、今日から連休でしたね、先輩はちゃんと家に帰れましたか?連休だからといってあまりハメを外しすぎない様に気をつけてくださいね笑——

 よし。先輩にはこれくらい砕けた内容で丁度良いのだ。これに対して先輩が生意気言うんじゃねぇとか何とか言って突っ込みを入れる。これで場が和むなら多少叱られるくらい安いものだ。この仕事を始めてから最も学び、尚且つ大切だと思い知らされたのが、まさにこう言った人間関係である。やはり人と人とが仕事をするのだから、円滑なコミニュケーションがどれ程大切かということだ。社会人としての務めもしっかり果たした僕はもう一度布団に潜り込む。すぐに襲い掛かる眠気に何一つ抗う事なく僕は眠りにつく。


 ・・・


 特に何をするでもなく、だらだらと連休を消費してしまった事を後悔しながら僕は電車に揺られる。初日はまぁ仕方がない、二度寝をして気がつけば夕方前となればわざわざそれから出掛ける気にもならない。運が悪い事に連休前日までゴールデンウィークの存在自体を忘れていた為、もちろん今更どこの観光地もホテルの空きはない。じゃあ仕方ない近場で済ますかと妥協しかけたところでの連日の雨である。まぁせっかく出たのに大雨でホテルに缶詰め状態ではあまりに味気ない、いやいやゆっくり出来るからそれでも別にいいじゃんとか言うならそもそも家でゆっくりすればいいって話だ。お陰で身体はすっかりリフレッシュされてグータラ仕様になったのかただただ仕事に行きたくない。五月病かな…。もう帰りたい。

 とは言いつつも連休明けという事もあり僕は普段よりも早く出勤した。

 …と、あれ?鍵が開いてない?早く出勤したとは言え、始業1時間前だ、先輩はともかく、仕事の虫である所長なら少なくとも先に来てパソコンをポチポチしてるはず…。あれ、今日もまだ休みだっけ?スマホのカレンダーを見るがどう見ても今日は連休明けの平日、仕事のはずである。まぁこんな事もあるか…、と鍵を持たされていない僕は、他の皆んなの出勤を待とうとスマホの画面から目を離し顔を上げた。すると丁度こちらに近付いてくるであろう足音に気付き、そちらを見ると後輩の小田さんが歩いて来た。何故か裏の山道の方から現れた小田さんは小さく挨拶を交わすといつもの様に黙りこくってしまった。…気まずい。ここは先輩として何か話をしなければ…!

「あー、皆んな遅いですね、連休明けで揃って寝坊してるんですかね?」

「…そう、ですね…。」

「えっと、小田さんは連休どっか出掛けたり実家帰ったりしました?僕はすっかりダラダラ過ごしちゃいましたよーハハハ…。」

「…私は実家住まいなので…。」

 …か、会話が続かない…。これはどうしたものか、今ほど先輩に早く会いたかった時はない。


 しかし出勤時間となっても、先輩は現れる事はなかった。先輩どころか所長も小辻君までもまだ姿を見せない。いくら連休明けといえども3人も同じ日に遅刻するなんて、珍しい事もありますねと小田さんは呑気な事をぽそりと言っていたが、そんな事あるだろうか。僕は何か嫌な予感を感じたので、会社に電話を入れる事にした。僕は今日もまだ休みというその一縷の可能性を見出したのだ。もし本当に休みなんて事があったら小一時間事務所の前で待ちぼうけ何て滑稽にも程がある。

 ところが、僕の期待も虚しく、やはり今日が休日であるなんて事は当然無かった。会社の方から各位に連絡を入れますとの事だったが、どうしたものか…。いよいよ作業時間も過ぎた頃、やっと連絡が来た。どうやら所長とも先輩とも連絡がつかないらしい。先輩は一人暮らしなので眠りこけっていたら連絡もつかないだろうとは予想していたが、所長もとなるとちょっと心配だ。小辻君は連絡が取れたらしいのだが、体調不良の為欠勤するとの事らしい。そして事務所の鍵を持っている所長も先輩も来れないとなると僕らは事務所に入る事も出来ないがどうしましょうかと尋ねたところ、今日は申し訳ないが一旦帰宅して進展があればまた連絡する、お疲れ様、との事。まぁラッキーとしておこうか。

 僕は会社からの電話内容を小田さんに伝えると、小田さんも伏し目がちにニヤリと微笑んでかと思うとお疲れ様ですとすぐに帰っていってしまった。僕も大人しく帰ることにしようかな…。



 ・・・



 今日は祝日で本来ならば俺も含めもちろん仕事は休みである。まだ現場としても作業員を何名も投入してどうのこうのしている段階ではないので、俺自身わざわざ休日にこうして出勤する必要はない。特に所長としての事務作業が溜まっている訳でもない。ではなぜ俺はここ、事務所のデスクに座って居るのか。何のことはない、今日は部下のお悩み相談に馳せ参じたまでだ。少ない人数で一つのプロジェクトに携わる以上、上司としてはこういった部下のヒアリングも大切な仕事の一つだ。ましてやわざわざ休日に時間を作って相談させて欲しい何て頼られるとなると捨て置くわけにはいかないのである。俺は一人事務所のデスクで待つ。事務所の時計に目をやると、約束の時間までまだ少しある、時間的余裕の心の油断からか、春の陽気からか、段々と重くなる目蓋に逆らわず、俺は少しだけ仮眠を取ることにした。



「おは…うござ…ます…」


聞き覚えのある声に俺は目を覚ます。と同時に鈍い痛みに身を捩らせる。一体何がどうなっている。それに何だこれは、頭から何か液体をかけられているようだ、しかし確かめようにも腕が動かない。視界が滲む。誰だ。


「こっちですよ…」


俺はその時やっと自分の置かれている状況を正しく理解した。何かの事件にでも巻き込まれて、強盗犯に身体を縛られているのだ、と初めは思っていた。だが、違う。そこに立っているのは紛れもなく俺を呼び出した張本人だ。なぜお前がと言いかけた声は声にならない。反射的に喉を押さえようとしたが腕が動かない。…いや違う。…そんな、何で、こんな事…、腕が、俺の腕が無い。ギチギチに肩を止血されて感覚が鈍くなっている為か痺れて大した痛みもない、いや、痛みは確かにあるのだが、何なんだこの状況は。あまりに現実離れしたこの状況に頭がついていかない。現状を受け入れられない。身体を見ると俺はどうやら椅子に座らせられている様だが、腰の辺りで背もたれに縛られている。上着が脱がされてカッターシャツが血まみれになっている。頭から何かをかけられていたのではなく、これは俺の頭から流れる血か。ずっと叫び続けているつもりだが終ぞ声にはならない。


「あなたはいつもそうやって五月蝿いから、声は出せない様にさせて頂きました。あとあんまり顔動かさない方がいいですよ?喉にボールペン刺さってますからね、空気が抜けて声にならないんですよ、ふふ、ウケる。ペン立てかよ。」


何故だ。何故こんな事を…。一体俺が何をしたっていうんだ…。誰か、誰か助けてくれ。なんとか身を捩ったその時恐ろしいものが俺の視界に入る。呼吸が荒くなり喉に突き刺さったペンから間の抜けた空気の抜ける音がする。俺の隣には遠藤が居た。…何とも悍ましい形相で絶命している。…何だこれは、こんな事、人のする事か?…狂ってる。何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ、あぁ、渚、さやかごめんよ、ごめんよ、…駄目だ、視界が白んで来た。…渚、もう会えないのかな、大きくなった姿を見たかっ

「どこ見てんだよ」


六畳程の小屋に置かれた折りたたみの長机に血肉が飛び散る。

「……きっしょ」



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