アズロット編 4月12日 その1 チェックポイントを目指せ!
兜守たちがドワーフの地下王国へ向かって夜が明けた4月12日、早朝。
「あの、すみません。大事なお話があるのですが、聞いてくれませんか?」
テントから出て火を起こした俺のところへ、昨日川で見かけた空を泳ぐ魚がやってきた。サイズは昨日見たやつよりも小振りな気がするから、たぶん別の魚だろう。
「――おう、何の話だ?」
俺が職業柄、人間や動物に化けて現代社会に隠れ潜む魔族を見慣れていることもあって、魚がしゃべったことに大した驚きはない。
「自分の知り合いの知り合いの、そのまた知り合いの知り合いくらいから回ってきた連絡網なんですけど――」
それだと情報の発信源がまるでわからねぇ。
「どうした? 先を言えよ」
俺が寝起きの目をこすりながら聞くと、何故か魚は涙を流し始めた。
「――じ、自分たちは、もうおしまいです。魚類滅亡のときです」
「大丈夫か? 落ち着けよ。いきなりやって来られて、おまけに泣かれたんじゃあ、こっちも対応に困る」
俺は水筒から水を注いで一杯飲み、おかわりを注いで魚に差し出す。
魚はコップに頭を突っ込んでブクブクやってから、
「す、すみません。自分の知り合いの知り合いの、そのまた知り合いの知り合いくらいの奴が、ある人間から聞いたらしいんです」
だったら最初から『ある人間から聞いた』でいいじゃねぇか。
「自分たちのような魚や他の種族を食い散らかす、魔族みたいな人間がこの大陸に上陸したって。その人間の名前は――」
その名前を聞いて、俺はコップを落っことした。
「家内兜守が食い散らかすだぁ!?」
「そうです。そういう話です。もうおしまいです。僕はもうお婿に行けません。北の遠い湖にいる、とても綺麗な、人間みたいな魚のメスと結ばれるのが自分の夢だったのですが、もはやこれまで。このまま終わりを待つくらいなら、いっそ、自ら潔く散ります! ですからあなたにお願いです! 今から僕はそこの火で身を焼くので、どうか骨まで綺麗においしく食べてください! 魚ぉぉおおおおおおお!!」
半狂乱に叫ぶや否や、魚は俺が起こした焚火の中へ突っ込もうとしやがった!
「バカ! 早まるな!」
俺は咄嗟に手を伸ばして魚を止めようとするが、魚の身体はぬるぬるで滑ってしまい、全然捕まえられない!
「食い散らかされるのは、嫌なんだぁああああ!! 魚ぉぉおおおお!」
ヤバイ! すっぽ抜けた! 捕まえるんだ!
「魚ぉぉおおおお!」
「待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て待て!!」
「魚おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
CATCH!!
「――待てって! その情報はデマだ! どこかのずる賢い人間が嘘の情報を流してるんだ!」
「お父さん! お母さんんんんんんんんっ!!」
尾をばたつかせて、火に迫る魚。
「もうなんだって朝からこんなことに!?」
俺は叫び、焚火の上に覆いかぶさった。
「あちちちちちち!!」
そうして火を身体でもみ消した俺は、黒く焦げたジャケットを脱ぎ捨てる。
「どうして散らせてくれないんだ! みんな食い散らかされちゃうんだぞ!? 世界は滅ぶんだぞ!?」
「滅ばねぇよ! 俺たちはそのためにここで旅をしてるんだ! だから落ち着けって」
「うぅ、うわぁあああ!」
魚は俺の胸に頭を突っ込んできた。ハグしてほしいってのか?
人間の観念と魚の観念が同じかどうか知らねぇが、とりあえず俺はシャツに顔面をグリグリ押し付けてすすり泣く魚の頭をちょり、ちょり、と撫でてやる。魚の皮膚はデリケートって聞くが、俺の体温で火傷とかしてないか心配になるぜ。
「嘘の情報ということは、自分たちは、これからも生きていけるんですか? 魚生を全うできるんですか?」
「ああ、できるさ。いくらでもしてくれ」
「よ、よかった。……突然お邪魔して、無茶苦茶なお願いをしてしまってすみませんでした」
「もうバカなことは考えないと約束できるなら許してやる」
コクリと魚は姿勢を前傾させた。了承のサインみたいだ。
「その、お前さんの知り合いが会ったっていう人間だが、どんな格好をしていたか知ってるか? 髪の色とか、肌の色とか」
「確か、頭に生えた毛は深い緑の色をしていたとか」
深緑色の髪か。有力な情報だ。
「わかった。その深緑の野郎は嘘つきだから、俺たちが懲らしめておいてやるよ。だからお前さんは仲間たちにこのことを伝えて、みんなの誤解を解くんだ。でないと、今のお前さんみたいに、焚火に身投げする魚が出てくるかもしれないぜ?」
「た、確かにそうですね! 今や多くの仲間や他の種族にこの情報が回っているはずですから、急ぎます。お騒がせしてすみませんでした! それとお水、ごちそうさまでした!」
俺の警告に血相を変えた――ように見える魚は、礼を言って泳ぎ去っていった。
今の話、兜守のやつにはまだ知らせない方がいいだろうな。パニックになって旅どころじゃなくなったら困る。俺が隠密に片づけた方が無難だ。
「――やれやれだぜ」
俺は朝食を用意する気も失せ、テントに戻って携帯でSNSを開き、さきほど魚から聞いた嘘の情報が出回っていないか確認する。
その嘘情報を流した野郎も、SNSで騒げば本人にも知られると踏んでいるのだろう、目立った投稿は見られない。
「なんだか、もう疲れちまったな……」
俺は仕方なく二度寝した。
そうして午前12時半。洞窟の入り口付近でテントを張って兜守たちの帰りを待つ俺は、今朝更新されたレース実行委員会の公式サイトを覗いて腰を抜かした。
例の嘘つきの情報ではなく、兜守の情報に、だ。
兜守のやつ、【アメリカ海軍第七艦隊総指揮権の半分を掌握】って、なんてものを手に入れてやがる!? なにをどうすればそんなことになるんだ!?
レースへの意気込み:「なんてこったい」
そりゃそうなるわな!
俺はカジュアルに電話する。
「おはよう、アズロット。今日はいい天気だわ」
「今度ラインでおかしな画像を送ってきたらドラゴン化してお前を食ってやるからな? それはそうと、話がある」
「今日の朝食はトマトサラダにオリーブオイルをかけて、こんがり焼いたトーストにマーマレードを塗って、搾りたてのオレンジジュースと一緒にいただいたわ」
「話があるんだって!!」
「なぁに?」
「兜守のやつがアメリカ海兵隊の指揮官になりやがった! これはお前の仕業か?」
「私は特になにもしてないわよ? 実行委員長の前でYシャツのボタンを三つ外して前かがみになって、レースを盛り上げるために、兜守を支援できるようにしてあげてくださいってお願いしたくらいよ?」
「委員長もお前も恥を知って地獄に落ちろ」
「そんなに怒ってどうしたのよ? 兜守がレースを有利に進められるようになったのに。トランポ大統領だって、『面白そうだからいいんじゃね?』って快諾してくれたのに」
大統領がそんなパリピみてぇな口利くか!
「限度ってもんがあるだろ! 参加者を支援するために軍隊が介入するレースなんて聞いたことねぇぞ!?」
「誰も聞いたことないわ。だから盛り上がっているんじゃないの」
「大丈夫なんだろうな?! 戦争になっても知らねぇぞ!?」
「兜守は軍隊使って戦争をけしかけるような悪党じゃないわ」
「あのなぁ……」
あの女は【万が一】って言葉を知らねぇのか?
「その証拠に、彼が50分前に第七艦隊に要請した支援物資は、どれもレースを円滑に進めるためのものよ?」
「――いったい、なにを要請したんだ?」
「もうすぐそっちに届くはずだから、自分の目で確かめるといいわ」
言うが早いか、遥か遠方からヘリコプターのものらしき音が聞こえてきた。それも複数機いるぞ。支援物資を空輸するとか、金の掛け方が尋常じゃないな。
「話はそれで終わり?」
「……ああ」
「それじゃ、私は今から委員会の会議に出なくちゃだから」
「ラインは送るなよ!? フリなんかじゃねぇんだからな!?」
「私はあなたに、弱点を克服するべきだと言ったわよね?」
――はッ! 鼻血の気配がしてきたッ!
「そ、それはわかってる! わかってるけどなぁ!」
「ねぇアズロット。入院している人は毎日薬の力を借りて、病と闘っているのよ? 毎日」
「それはわかる! けど、お、俺はもう大丈夫だ! お前の協力のおかげだよ! だからもう画像は送らないでくれていいぜ!? なぁ、頼むから!」
「随分と息が荒いわよ? 大丈夫だって言うのなら、テストさせてもらうわ。これもあなたや兜守たちのために必要なこと。退院する人が必ず検査を受けてから病院を出るのと何ら変わりはないわ」
正論だからなにも言えねぇッ!
「――だから、ね? わかってるでしょう?」
わかりたくないッ! く、来るなッ!
「はい、これ」
ポロロン、と、通話中にラインの着信音。
カジュアルは言うなり、俺にラインを寄越しやがった!
ここで俺は閃く。
そうだ、今まではどんな重要な情報なのかと、いちいちこいつのラインを開いて確認していたが、それが間違ってたんだ!
ほぼほぼ、俺のライン履歴はあの悪魔の画像だからな!
「わかった。今ちょっと手が離せねぇから、あとでしっかり見ておくぜ」
つまり、未読スルーすりゃあいいんだ!
「未読スルーなんかしたら、ただじゃおかないからね?」
読心術でも使ってやがるのか!?
だんだんとヘリコプター群の音が大きくなるにつれ、俺の心音もデカくなっていく。
い、嫌だ! 見たくない! 貧血で死んじまう!
「貧血で死んじまうって心配してるなら大丈夫。今回の支援物資の中に、私があなたのために専用食と輸血パックを詰めておいたから」
あの野郎、俺のこと全く信じてないぞ! 完治したなんてこれっぽっちも思ってないぞ! 本当に治ってないけど!
「ねぇアズロット。聞いてる?」
「――ああ」
「ライン、見れる? 今すぐに」
「――ああ」
「見てなんともならなければ、あなたは完治したことを証明できるわ」
「……じゃあな」
俺は通話を終了してラインを開いた。
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気が付くと、俺は洞窟から戻ってきた兜守たちに介抱されていた。
そしてすぐ側に、恐らくはヘリコプター群が置いていったのであろう、武骨なボディを迷彩カラーで染めた、兵員輸送四輪駆動車=ハンヴィー・M1025が目覚めのときを待っていた。
「アズロット。テントに飛び散った血の跡……またか?」
「……ああ」
俺は兜守の意味深な問いに頷く。
「なぁ、兜守」
「なんだ?」
「生まれ変わりたいって思ったことはないか?」
「あるよ、何百回もな。どうしたんだ? 大丈夫か? 顔色が海よりも青いぞ?」
「世の中、理不尽なことだらけだなって、思ったことはないか?」
「あるよ、何百回もな。いや、何百じゃきかないわ。五歳を過ぎた辺りから人生の毎分毎秒が理不尽だったわ……」
「女の頭の中がどうなってるのか、逆立ちしてもわかりっこないって思ったことはないか?」
「あるよ、何百回もな。……いや済まん、僕は女と接点なんて持ったこと無かったんだったわ……」
「兜守、どうした? 大丈夫か? お前の顔、氷の海で2時間泳いだあとみてぇに青くなってきたぞ?」
「そうさ。僕は人生という名の氷の海を35年泳いだんだ。青くもなるよ。……ああ、僕みたいなおっさんを、日本では魔法使いって呼ぶんだよな……」
「――あの、もしもし? カジュアルさんですか? ……はい。破片の一つ目を入手しました。あと、剣を守っていた使い魔の鳥さんが仲間になりました。黒くて、鷲みたいな立派な鳥です。それとは別にですね、なんだか、おじさんとアズロットさんの様子が変なんです。二人して負の世界に入り込んでしまったみたいで……はい。え、放っといて先を急げばいいんですか? わ、わかりました……」
俺と兜守が感傷に浸るどころか溺れている傍で、何やら電話していた様子の由梨。
彼女はバックパックを担ぎ直し、俺たちをどこか憐れむような目で悲し気に見てきた。
「あの、気は済みましたか? 先を急ぎたいのですが……?」
由梨から発せられたのは氷みてぇな言葉だった。
真っ青になった俺と兜守は、物言わずテントを片付け、まとめた荷物をハンヴィーの貨物スペースに積み込む。
そこまでやって、俺は自分のほっぺたを叩いて気合を入れる。
落ち込んだままじゃダメだ。俺らしくもねぇ。
弱点はすぐに消せねぇとしてもな、ここで負けを認めたら竜人の名が廃るってもんだ。
「――ところで、兜守よぉ、カジュアルから聞いたぜ? 第七艦隊の指揮権を手に入れたんだってな! この車はその権限で空輸させたのか?」
バシィン! と兜守の背中も叩いた。
「ああ。嘘みたいな本当の出来事だよ」
「なかなかやるじゃねぇか! しかも、荒れた道でも水辺でも走れる万能のハンヴィーときた!」
兜守もさすがにこんなことが実現するとは考えもしていなかった様子で、興奮半分、戸惑い半分といった感じで苦笑する。
「現在時刻は午後1時。タイムリミットまであと5時間です。急がないといけません。お二人のうち、運転ができる人はいますか?」
由梨に問われ、俺と兜守は顔を見合わせる。
「兜守、お前免許は?」
「持ってる。ペーパードライバーだけどな」
「なら、ここは俺の出番だな!」
俺は言って、左ハンドルの運転席にどかりと座る。正直なところ、こういう迫力のあるデカブツを一度操ってみたかったんだ。
助手席に兜守、後部座席に由梨という構図で乗り込んだ俺たちは、ガソリン満タンのハンヴィーを目覚めさせ、V8エンジンを唸らせて東へ向け出発した。
目指すは獣人たちで賑わうという街――【レフモケ】だ。