雑学百夜 虹のかたち
雨上がりの空に掛かる虹は半円状と思われがちだが、実は地平線に遮られ下半分が隠れているだけである。
太陽光を空気中の水滴が反射し起こる現象の為、本来の形は円状となっている。
飛行機など空の上からであれば本来の形である完全な円状の虹を見ることが出来る。
お父さんは虹を見つけるのが得意だった。
虹を見つけることに得意不得意を持ち出すのが正しいのかどうかは分からないが、私のこれまでの20余年の人生の中で「あっ、虹だよ」って声を掛けられた回数はお父さんからだった分がダントツで多い。
そして虹を見つけたあとお父さんは決まってこんな事を聞いてきた。
「沙耶、虹ってどんな形してる?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、私を試すように。
幼い頃はそんなお父さんからの問いかけに私は飛びっきりの笑顔で確かこう答えていた。
「おとうさん、あれが見えんの~? あのね、こーやって『はし』のかたちしとるよ?」
そう言って私は両手の指先を胸の前で合わせ腕で半円を作る。と言っても幼さ故にその動きはぎこちなく橋の形を示す『アーチ状』というよりは『ハート型』あるいは『お尻』みたいな形になっていたような気がする。
そんな私の反応を見るのがお父さんにとって一番の目的だったのだろう。いつもお父さんはその私の答えを肯定する訳でも否定する訳でもなく、只々満面の笑みを浮かべながら私を抱き上げてくれた。
それは私が思春期に入っても続いた。流石に抱き上げるようなことはしてこないが、ずっと私が口を利かないでいた時も虹を見つければお父さんは必ず声を掛けてきたし、私が社会人になり故郷から遠く離れた場所で一人暮らしを始めた時も虹を見つければお父さんはわざわざ慣れないlineでしかも写真付きで報告してきた。
そして今、お父さんは病室の窓の外をか細い指で差しながら「沙耶、ほら」と空に虹が掛かっている事を教えてくれた。
さっき私は虹を見つけた時に声を掛けられた回数はお父さんからが一番多いといったが、まぁある意味それは必然だ。
だって考えてみれば、若い頃は空を見上げる暇もないくらい友達とはただ目の前の遊びに夢中になっていたし、社会人になってからはそもそも空に虹が掛かるような時間帯は会社で仕事なのだから。
そして何よりもの理由だが、私には母がいない。
幼い頃にお父さんと母は離婚した。何があったのかは知らない。ただこの齢になってみれば離婚して母親に親権が渡らなかったということはまぁそういう事だったのかなと想像は付く。
まぁとにかくそういう訳で私は単純に言えば普通の人の2倍の密度で、お父さんと一緒に時間を共にしているのだ。
幼稚園の送り迎え、入学式の帰り道、参観日の帰り道、塾の帰り道、部活動の大会会場への車での送り迎え、県外の大学受験の付き添い、卒業式の帰り道……振り返ってみればお父さんは忙しい仕事の合間を縫いながらよく私と一緒にいてくれたなと思う。しかもどれもこれも図ったようにちょうど時間帯的に虹を見つけやすいタイミングばかりだった。
そんな唯一の家族であるお父さんは去年、会社の健診で引っ掛かり病院を受診した。
一回りも二回りも年下の医者にお父さんは確かに最近感じていたという謎の倦怠感を訴えているとそんな父の話を遮るようにその若い医者は言ったらしい。
癌の疑いがある。それもかなり悪性の、と。
言ってきたらしいって所から分かるようにその診察に私は同席していないので全部後から聞いたことだ。ついでに言えばその後からというのも本当にかなり後で、具体的には先週の頭。「先生がお前にも連絡しろってうるさいから白状するんだけどな……」というお父さんからの電話で私は全てを知った。
お父さんの癌は確定で、予想通り悪性で、何か月にも及んだ治療は全て無駄に終わって、予後はあと数週間だってことを、私は本当にその時初めて知ったのだ。
「今までありがとう……」なんて続きそうだったお父さんの電話をその場で切りその足でそのまま新幹線に乗り故郷へ帰った。今思えばかなり無謀な行動だったが新幹線のデッキで泣きながら職場の上司に電話して何とか事なきを得た。
「介護休暇扱いで何とかするし、好きなだけお父さんの側にいてあげなさい」
そう言ってくれた上司はそういえば確か施設に入れたお母さんを看取れなかったことをずっと後悔してるって話をしていた気がする。去年の忘年会の席で何度も何度も。
そんな経緯で私は今故郷のホスピス病院の個室でお父さんと2人。いわゆる残された時間というのを一緒に過ごしている。
貴重な時間だ。かけがえのないほど大切な時間のはずだ。
なのに、なのにだ。私はこうして梨を剥きながらふと思う。
何をすればいいのだろう? 何を言ってあげればいいのだろう?
何というか私はこの時間っていうのはもっとドラマチックに過ぎていくのだと思っていたのだ。
ところが実際は毎朝9時過ぎ、朝食のタイミングでお見舞いに来て体調を軽く聞いた後は私はベッド脇でノートPCを開き仕事を始め、お父さんは黙ってテレビでニュースを視ている。そのうちにテレビの番組は『バイキング』に変わって「東京ではこんなんが流行っとんか?」と首を傾げるお父さんに「聞いたことない」と私は切り返す。お昼は「これあまりおいしくないんよなぁ」とお粥にグチグチ文句を言うお父さんに「子供じゃないんだからちゃんと残さず食べなよ」と私は軽く叱るだけだし、食後はたまに一緒にアルバム開いたりして思い出話をしたりもしてみるも途中で疲れたお父さんが再びベッドに横になると私も私でうつらうつらと舟をこぎ、そうこうしてるうちに夕食が出てきてあっという間に面会時間が終了する。
『死』とは言葉を選ばなければもっと『特別なもの』だと思ってた。だけど現実は『死』だって日常の延長線上に組み込まれているだけのものなんだってことを私は初めて知った。
晴れた日があるように、通り雨に降られる日があるように。お父さんの死は刻一刻と何の前触れもなく私達の目の前に現れるのだろう。
お父さんが虹を見つけてくれたのはそんなある日の夕方だった。
すっかり痩せ細ってしまったその指で窓の外を指差し「ほら、沙耶」とお父さんは私に虹が掛かっていることを教えてくれた。
「そういえばさっきの夕立凄かったもんね。一瞬だったけど」
そんな私の言葉に、お父さんはただ窓の外に掛かる虹を見つめたまま「綺麗だよなぁ」と呟いていた。
夕焼け色に染まったそのお父さんの横顔はハッとするほど何だか儚い。
そんな横顔を見ていると、幼い頃からずっとお父さんに聞きたいと思っていたことがあるのを思い出した。
「ねぇ」
「うん? どうした?」
「どうして、いつも虹の形を聞いてきたの?」
そんな私の質問にお父さんは吹き出し笑った。
「なんだ、もしかして沙耶はまだ虹の本当の形を知らなかったのか?」
「本当の形?」
「お父さんが子どもだったときは小学校の理科の授業で習ったぞ? 沙耶、ちゃんと勉強してたか?」
「ちょっと待ってよ。意味分かんない」
私の反応にお父さんは種明かしをするマジシャンのように悪戯っぽい笑みを浮かべながら教えてくれた。
「虹って太陽の光が空気中に漂う水滴に決まった角度で屈折と反射をすることで浮かび上がるのは知ってるか?」
「それくらいは知ってるけど」
「でも太陽って丸いのに、その光を反射してる虹が半円状ってちょっと不思議に思わないか?」
「ん~私はそんなもんなのかなって思っちゃうけど」
そんな私の言葉にお父さんは呆れたように笑った後「違うんだよ。正解はな」と続けて言った。
「虹って本当は丸いんだ。太陽と同じように円状の形をしてるんだよ。だけど地上にいるお父さんたちの目には角度の問題でその下半分が地平線に遮られて見えないんだ。虹って架け橋の形とか言われるけど本当は正しい形の上半分だけがお父さんたちに見えてるだけなんだ」
初めて知ったし、ちょっと胸に引っ掛かることもあった。お父さんはあんな昔、私に散々聞いてきた癖に既に正解を知っていたわけだ。それならその時に教えてくれたらいいのに。
そんな私の胸の内を透かすようにお父さんは小さく笑いながら続けて言った。
「お父さんな、子どもの頃それ聞いて凄く悔しかったんだ。今まで虹を見て何度も感動してきたのにそれが実は半分だけだったなんて。昔からなんか完璧主義というかさ細かいというかさ、正しい形っていうのに妙にこだわる性格だったからな。だからこうして根に持ってこんな雑学をいつまでも覚えてるんだよ」
お父さんはまた呆れたように笑う。
「いやまぁ雑学はいいんだけど……」
「それで、なんで今まで虹の形を何度も沙耶に聞いてきたかって事だろ?」
「そうよ。それが何でなのって」
「あぁ、あのな。初めて沙耶に虹の形を聞いた時な。本当は沙耶の答えを聞いたその時にもう正解を教えてあげようと思ってたんだ。何となく親子の会話の一つとしてさ」
「うん」
「だけど虹の形を聞いた時、沙耶がこうやって腕で半円状の虹の形を作ってくれたんだよ。その時な……お父さんその時初めて丸い虹じゃなくてこの半分の虹のかたちも良いなって思えたんだ……」
そこまで言ってお父さんはふと黙り込んだ。
「……どうしたの?」
突然黙り込んだお父さんの顔を覗き見ると、お父さんは少し笑った後
「沙耶。お父さんな、それまでずっと悩んでいたんだ」と呟いた。
「悩んでた?」
「そう。沙耶の子育てを本当にお父さん一人で出来るのかなって」
少しだけ開いていた窓の外から風が吹き病室のカーテンがふわりと揺れた。ついさっきまで降っていた夕立のせいだろう。アスファルトに溶けた雨の匂いが私達を包む。
「そんな……何言ってるの。私一度だって苦労したことないよ?」
「ふふっ、ありがとう。でもなぁ、お父さん最初は不安だったんだ。本当はお父さんお母さん二人そろってこそ沙耶が幸せなんじゃないかって。やっぱり本当は夫婦そろって子育てするのが正しい形だよなぁって。お母さんが居ないまま、お父さんだけで沙耶は本当に幸せなんだろうかって……」
そこまで言ってお父さんはふと懐かしそうに目を細め笑った。
「そんな時にあの沙耶の不器用な虹を見た時、なんかお父さん本当に何だか嬉しくなってさ……正しい形にこだわってた自分が恥ずかしくなるくらい沙耶のその半分だけの虹のかたちが可愛くて、本当に愛しくて……これでいいんじゃないか? こんな沙耶と2人ならお父さんだって頑張れるんじゃないかって思えたんだ……」
お父さんはそう言って私の手を握ってくれた。
「沙耶、あの時から今日までずっとずっとありがとうな」
そう言うお父さんの薬の副作用でカサカサになった肌を通して私に確かな温もりが伝わってくる。
その温もりは最初指先、そしてそれは胸に喉元にそして目頭へと伝わっていく。
私の為に幾度も幾度も悩んでくれた人の温もり。
生まれてから片時も私のことを見捨てないでいてくれた人の温もり。
そして本当は、本当は、もっと、ずっとそばにいて欲しかった人の温もりだ。
優しい温もりが頬を伝う。
気付けば私は叫んでいた。
「私こそ、私こそお父さんの子どもで本当に良かったです」
お父さんの手を握りしめながら私は何度も叫んだ。
「ありがとう」「ごめんなさい」————ポタポタと伝えたかった言葉が零れていく。
お父さん、死なないで。
お願い。私、一人になんてなりたくない。
まだ話したいことが山ほどあるの。
ねぇ……ねぇ、お願い――
お父さんはその間只々優しく私の頭を撫でてくれた。小さい子どもをあやすみたいに。幼い頃私にそうしてくれていたみたいに何度も何度も。
私がふと顔を上げた時、お父さんは涙で滲んだ私の頬を撫でた後、今度はゆっくりと私の胸元を指差した。
「雨が上がれば、いつかここにも虹が掛かるかもしれないね」
虹を見つけるのが得意な私のお父さんはそう言って悪戯っぽく笑ってくれた。
雑学を種に百篇の話を投稿しようと頑張っています。
『雑学百話シリーズ』
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