魅惑のデザート
「“幸福”の香草パン粉焼きでございます」
給仕のひとことを待って顔を寄せれば、ただよう香ばしさに唾がわく。
「ハーブはエデンの園からごく香りの良いものを運ばせました。“幸福”も、満ち足りた子どもたちより届いた、純度の高いものです。“全能感”の風味も感じられると思いますね」
レナードの言葉に、ベルフェルは目を丸くして、ごくりと喉を鳴らす。
握りしめた真鍮のナイフとフォークを戸惑いがちに料理に入れ、強面のみてくれよりも上品にひと口分切りわける。
そろりと口に運びいれると、思わず唸って目を見開いた。
細かく刻んだガーリックとローズマリー、香草をサッと混ぜ込んだパン粉はキツネ色で、噛めばパチッと弾けて小麦の香ばしさとハーブのいい香りが口いっぱいに広がった。
ふっくらとした“幸福”からうまみいっぱいの汁気がジュッと溢れ出す。
しっとりとした口当たりはゆっくりと火を通した鶏肉のようだ。
噛みしめるたび、おだやかな口福が喉の奥まで沁みてゆく。惜しみながら飲み下し、ぬくもりがじんわりと腹の底に落ちきると、彼はほうっと息をついた。
「天使レナード氏。こいつぁ美味い! あんた、ずいぶんな美食家だって? いつもこんな気取ったもん食べてんのか?」
「家庭料理にすぎません。汚らわしい、黙って食べるがいい。悪魔ベルフェルよ」
話を振られたグレーのスーツのレナードは銀の眼鏡を押し上げて、苦々しい顔のままアペリティフの地獄産”怨嗟”のシェリーを口に含んだ。
長く緊張状態が続いていた天国と地獄で、じわじわと進められてきた融和路線が身を結んだのはここ最近のことだ。
地獄側の多大な譲歩で漕ぎ着けた修好条約調印の記念にと、初めて企画されたこの昼餐交換会は互いの使者をもてなすべく、趣向を凝らした料理が用意されることになっていた。
部屋の壁際には、数人ずつ天地の外交官たちが居並ぶ。
スーツの着崩し方でどちらの所属かひと目でわかると、部屋に入るなりベルフェルが大笑いしたのは半刻前だ。
「味がやさしくてぞっとするが、美味いもんだ。七面倒な外交官の仕事にしちゃ、存外いい役どころじゃないか。なあ、レナード氏」
「私はあなた方の食事なんてごめんこうむりたかったのですがね」
ぴしゃりとはねつける言葉に肩をすくめてワインをすする悪魔をよそに、料理の準備が整ったと給仕が合図する。
次は地獄側からの提供だ。
「そう言いなさんな。食べりゃ気が変わって、我が愛する地獄まで、遊びに来たくなるかもわからない」
からかいに無表情で答えるレナードを尻目に、ベルフェルは己の山羊角を愛しそうに撫でさすった。
「さあ、まずは地獄鮫とマンドレイクのフィッシュ&チップスからだ」
悪魔がパチリと指を鳴らすと、地獄の料理人が気軽な調子でひと皿を運んでくる。
届いた皿を覗き込むと、レナードは眉をひそめた。
「随分チップスの大きさが不ぞろいですね。目で楽しませる意識は皆無だ」
「ハハ、それも味だ。いいか、マンドレイクは適当に切る。細いのはパリッと、太めのスティックは、ほくっとした食感を楽しみゃいい。そいだ顔のところは苦味が強い。好みでよけてくれ。通にはたまらん味だがな。豚野郎の油で揚げたあつあつに、サッと死海の塩をふるんだ。そして、このパンチの効いたスパイスをめいっぱいキかせて……。あ? 多少イケない成分が入ってるが気にしちゃならねえ。ちょびっと目が覚めて、素晴らしいアイデアがバンバンに沸いてくるってだけだ」
ギラギラした黒い容器からつぶ感の残るパウダーを無遠慮に振りかけられて、レナードは渋面になる。
カラリと揚がったフィッシュ全面にかかったメタリックな色味の粉が、いかにも毒々しい。
ザクリ。
クリスピーな仕上がりの地獄鮫を、嫌々噛み切ったレナードが動きを止めた。噛みしだく鮫の白身から、ほどよい塩気と脂の甘みについで、複雑に絡むスパイスの香気が突き上げるように鼻に抜けていく。
「ん? おい、お上品な口にゃ合わねえか?」
無言のまま、ザクザク、ぱりぱりとレナードが物を口に運ぶ音が続く。
ごく苦いと注意したマンドレイクの顔も、躊躇なく口に放り込んだ時にはベルフェルも口笛を吹いた。
「こんな味の濃いものばかりでは、遠からず悪魔諸氏は生活習慣病でしょうね」
「病と俺らは親戚でね!」
苦々しそうなレナードの合図で、地獄側へは丁寧に盛られたパスタの皿が運ばれていく。
“歓び”と“慈愛”のクリームパスタ。
香りづけにと小粒のルビーを中ほどまで詰めたミルが供され、ベルフェルは楽しそうにゴリゴリと削りいれて“きらめき”の風味に舌鼓を打つ。
「ご立派な味だ! うすら寒い愛の味はたまらん」
彼が満足げな顔をさらにゆるませたところに、仕上げとばかりに真っ白な服を着たパティシエールが渾身の作だと自信ありげにクリスタルをくり抜いた器をベルフェルの前に置いた。
“敬虔な祈り”のスプモーニと三種の”愛”のベリー。
一口食べるや、三口で食べあげ、ミルク味のスプーンの先っぽまで名残惜しくしゃぶって悪魔はうなる。
「これもまぁ、ぞっとする味だが、食っちまえばな。ボヤボヤした味付けで最高だ。シェフを呪っちまいたいよ。おっと、天国でいう”祝福”だ、勘違いしてくれるな?」
献立に合わせた軽い口当たりの“祝福”のワインはボトルなかほどまで減り、三品を食べ終えると、悪魔らしからぬほどけた笑顔で彼は腹を撫でさすった。
レナードの後ろに控える天使の面々がこそこそと声を立てる。
なかなか地獄側からのメインディッシュが出てこない。
レナードは、先ほどまで口に残っていた塩気が自分に渇望を寄越し始めたのを知って奥歯を噛んだ。原始の欲の気配に、彼は潔癖そうなとがった顎をクッと引く。
欲は、大罪に通じる。
葛藤を知ってか知らずか、レナードの同僚が気遣わしげに声をかけた。
「レナード、お前大丈夫なんだろうな?」
「なんの問題もありません」
「いや、しかし--」
「問題ないと言っています」
囁きのやりとりを見てとったベルフェルは、牙を出して陽気に笑った。
「ハッハ、レナード氏。待ち遠しそうだな! すまない、俺は地獄耳でね! 安心しろよ。もっとパンチがあるのを用意している。準備はいいか? さあ、ミノス牛の1ポンドステーキ〜悪魔風〜、”絶望”の黒ワインとの相性は抜群だ」
それは両開きにされた重たい扉の奥から現れた。
清潔な黒衣に身を包んだシェフが、レナードの傍らへワゴンをうやうやしく運び入れ、天使の視線を釘付けにする。
彼の目の前でかぶせてあった半円の銀の蓋をさっと取ると、黒々とした鉄板にソースと油を弾けさせ、格子の焼き目のついたぶ厚いステーキが肉汁をたっぷり抱きこんで現れる。
暴力的なステーキがレナードの視界いっぱいに広がった。
レナードは、険しい顔のまま両手に銀器を握る。祝福された銀のカトラリーで大きく切り取った肉片をにらみつけ、ひとときの躊躇を憎むように、口いっぱいに肉の塊を頬張った。
瞬間の彼の瞠目を見て、ベルフェルは囃すようにパッと大きく両手を広げた。
「さあ! 腹いっぱいやってくれ!」
レナードは無言だった。
カチャ、カチャとせわしく食器が鳴る。油の弾ける音が途絶えても、黙したまま彼は没頭する。
勤勉と潔癖の蝶結びをするするとほどいていくように、食べ、飲み、貪り続けていく。
周囲がざわつく。悪魔が笑う。
芳醇で濃いブラックワインを二杯、三杯と飲み干す彼の手はとまらない。
誰もが息を飲む中に、ひとりベルフェルだけが楽しげだった。
タン、と音を立てて、ついにレナードが最後の酒杯を真っ白なクロスのかかるテーブルに置いた。
口のはしに濃い色のワインがひとしずく伝うのを指先で抑え、熱いひと息を吐く。
ソースひとはけも残さぬ、完食だった。
「料理は以上ですか?」
「残念ながら。仕上げといこうか?」
デザートを、と言いかけたベルフェルを、レナードが片手を挙げて押しとどめた。銀縁の眼鏡越しの鋭い天使の目線が、ニヤついた悪魔を射抜くように捉える。
「あなた方はいつもこのようなものを?」
「思うままに。ご感想は? 美食家さん」
「お聞かせしましょう」
純白のナプキンで口を拭い、レナードは立ち上がると突如懐に手を入れ、そして微笑んだ。
タアンッ
銃声。銀の弾丸が微笑の天使から放たれる。
止める間もない凶行に、ぐらりとかしいだ悪魔はドッと床に崩れ落ちた。
爆ぜるように現場の空気が一変する。
「気でも違ったのか? 外交官に!」
「お前、やはりっ、堕天する気かレナード!」
ハハと天を仰ぐ天使を、居並ぶ同僚達が取り囲み連れ去っていく。
レナードの翼が真っ黒く染まっていくのが、ベルフェルの視界の端に映る。
悪魔は撃ち抜かれた額のまま、口角を上げた。
「”堕落”は美味しいかい?」
罪の名は、貪食