1-8:杯を干す
サーシャの兄と従兄弟は、商国の都を訪れていたらしい。格式上、俺は商王族の不在を詫びた。
「お気になさらず」
サーシャの兄、カイドゥは首を振る。落ち着いた態度で、声に慎重な性格が滲み出ていた。褐色の細面で、鼻の下に髭を少しだけ生やしている。
「妹とは急なお話であったと聞いております。旅路でも、大商国とはよい縁を持てそうだと確信することばかりでした」
一方、従兄弟のテオルは大柄な男だ。
切れ長の目が、俺を穏やかに見下ろす。顔つきで言えば、彼の方がサーシャに似ているかも知れない。
「テオルと申します」
優しい声音だが、ごつごつした体つきは立派な武人である。
装束も見事だ。帽子には金の小片を散らし、服のあちこちで宝石が輝いている。商の宮廷風といっても通用するほどの装いだった。
馬国には、おそらく地方により衣服の違いがあるのだろう。
鳶色の細目が、俺を見つめた。
「一族は違えど、従姉妹のことは、幼少から妹同然によく知っております」
サーシャとテオルは、微笑を交わしあった。二人の別れは、それで済んだらしい。
テオルは次いで俺を見る。ぎゅっと手を握ってきた。そのまま握りつぶされてしまうと思ったほど、大きく熱い手のひらだった。
「あいにくと、宴の後、草原に戻らねばなりませんが……久遠の蒼穹に、祝福を」
やはりサーシャの婚姻は、馬国内でも大事件だったようだ。
痛む手のひらで、テオルの気持ちを思い知る。商国だけでなく、馬国にもやっかむ人はいるに違いない。
「なにゆえに……」
なにゆえに、俺がこんな目に。
対して、次の客は気楽だった。
フランツィアの顔役や、馬国の親類縁者の後やってくるのは、よく知る悪友達である。
「おめでとうございます」
「若様! まさか若様にこんな日が……」
門番のレッドに、飲み仲間のブルーとメリッサ。顔役連中が顔をしかめて場を譲る。というより、軽く引く。
祝うよりも、驚いたり、妙に感動しているやつが目についた。
「大げさだぜ」
しかし。
どんどん、周りが固められている気がする。
暗澹たる不安を教えたやりたい。さりとて傍らの美女を褒められて悪い気がしないのは、男のどうしようもないところだ。
ゆらりと不吉な影がやってくる。
「ぐふふ。ご結婚おめでとうございます」
「祝うなら悪魔の末裔のような笑いをやめろ」
言うと、エリクは肩をすくめた。真顔になると間違いなく美形なのだが、もともとの掘りが深いせいか、過剰気味に笑うせいか、顔をちょっとでも歪めると吸血鬼のような顔になる。
暗がりにいると、伝承の御代に神が退治しそこねた魔物でないかと思う。
「……ふん。お前はさぞ楽しかろう」
俺はそっと腐した。
サーシャはフランツィアの顔役に招かれ、再び囲まれている。羽振りがいい人間に頼みごとをするなら、結婚式はうってつけだ。
俺の方も、苦情を言うなら周りがいない今がいい。
「確かに、あなたの姿を見るのは、昔から楽しみでしたな」
なぜ、この結婚を推したのか。俺にはその疑問がある。
エリクは俺の心をはかったようだ。
「思い出して、いただきたいのですよ」
「……思い出す?」
目で問うと、エリクは言う。
「あなたが、忘れたことさえ忘れてしまった、そんなものですな」
首を傾げるばかりだ。
エリクは次の瞬間には、意地の悪い顔つきに戻っていた。
「また楽しませてくださいよ」
「こいつ」
悪友は身を翻して、人混みに消えた。フランツィアの人々は久しぶりの慶事に、皆で喜びあっている。
追いかけるのも憚られて、俺は椅子へ腰を戻した。杯に残した酒が、宴の騒ぎに揺れる。ゆらり、ゆらり。俺の立場のようだ。
サーシャが隣の席に戻ってきた。
「ふふ。よい仲間だ」
サーシャはそつなく対応したようだ。一応、街の無礼もなかったようで、安堵する。
「ああ。この身には過ぎた連中だ」
酔いが回ったせいか、つい恥ずかしい言葉を言ってしまった。
だが本心だ。
製塩作業は地味で危険だ。それでもやっていけるのは、結局のところ、働いてくれる人がいるからだ。
感謝せねばならない。
「……聞いたかもしれんが」
酔いの勢いで、俺は意を決して尋ねた。
「俺の失敗は、知っているか?」
話すと、胸がちくりとした。でもこの話は、しないでは済むまい。
宮を去ることになった、最も大きな失敗の話だ。
サーシャは顎を引く。うっすらとした笑みからは、気持ちは読み取れなかった。
「ああ」
「ならばなぜ」
「我が君よ。めでたい席だぞ」
祝いの場。街の長として、表情に気を配るべきなのだと追って気づいた。それでも笑みは、なかなか口に張り付いてくれなかった。
「塩に、税をかけようとした。父王に上程した案はよかったが、急ぎすぎて塩が高騰した。民にも、大いに、大いに嫌われた」
次々と富を産み出す兄姉を含めて、人気のある王族は一種の英雄だ。
軍才、学才、商才。
俺はそうはなれない。人気者がいるなら、引き立てる嫌われ者がいるのも世のことわり。
比べられるのが悔しくて、苦しくて、誰も俺を見に来ない辺境に住処を求めた。
塩を買い占めて高騰を煽った中には、俺が政の手ほどきを受けた仲間もいた。その裏切りも堪えた。
ゆえに、今度は地面を掘った。
しかとある岩塩は、人望と違って消えはすまい。
「……俺が、交易路か」
決定的な気持は、まだやってきていない。思考はぐるぐる回る。
なぜ。
なにゆえか。
なにゆえに俺がこのような目に。
乾杯で飲み干し損ねた酒が、まだ残っている。それをチビチビやって、言葉を濁した。
「やれやれ。この国は面倒が多い」
ふっとサーシャが笑みを深めた。
「む」
「長がそうだといえば、異はない。頭のいうことに、尾や足が異を唱えても仕方あるまい?」
さすが堂々と『政略結婚だ』と言い放った姫君は違う。
思い切りの良さが羨ましい。
宴を見渡した。
様々な食材がある。特に目を惹くのが、肉だ。
生きた羊や牛は、この辺りには少ない。フランツィアは塩に全てを託した街だった。
今は、みんな笑顔だ。
焼き砂糖。混ぜ飯。揚げ餃子。
馬乳酒にお茶。
そして、よく塩がきいた羊肉。馬国の男達は、かけすぎて塩辛そうな肉を嬉しそうに食べていた。フランツィアの人々も、異国料理に舌鼓を打っている。
「交易か」
目の前にあるのは、その可能性の一つだ。
「……草原の品が手に入るということか」
「お、そうであった」
馬賊の姫君は、笑った。
正解を出した教え子を褒めるように、ドレスの裏地から、何かを差し出す。
途端、宴の端っこで、眼帯の老人が遠い目をした。
この姫君はなんでもかんでも自分で持ちすぎではないか?
「進ぜる」
それは、手のひらぐらいの、U字に曲がった金具だった。
「仮の婚姻とはいえ、これくらいの贈り物はよいだろう」
「……これは?」
「蹄鉄の護符だ」
「お守り、のことか」
そういえば、愛馬の蹄鉄を魔除けにするのは聞いたことがある。
「仮の婚姻ゆえ、高価なものは禁じられているが……これくらいなら。魔除けを贈ることは、わたし達の作法でもある」
細やかな傷に、ずしりとした重さ。明らかに実用されたものだった。
無骨である。
こんなもの――といっては失礼だが――贈ってくる、姫君がいるとは。
「くくっ」
かえって気が楽になった。
笑みが浮かんで驚いた。仮に苦笑であっても、笑みは笑みか。
「……ありがとう」
サーシャも笑った。袖で笑みを隠すようなことはしない、得意げで、あけすけな笑顔だ。
「道のりに蹄鉄とは、うってつけであろう?」
「ああ」
あのきれいな馬の蹄についていたのなら、なにかの加護がありそうだ。
簡素だからこそ、金に換えられぬ価値が宿るということも贈り物にはありうる。
「礼は、少し待ってくれ。考えがある」
サーシャは意外そうに眉を上げた。続く表情は、悪戯好きな猫のようだ。
「我が君よ、楽しみにしている」
「……うん。ただ、その。我が君というのはやめてもらえないか」
こくんと、サーシャは首を傾げた。
「嫌か?」
「こそばゆい」
「ふふ。ま、なんとなく、そんな気がしていたよ」
察して呼んでいたのだから、なかなかいい性格である。
彼女はからからと笑った。
では、なんと呼ぶ。俺は応じた。
「フランツでいい」
サーシャは頷く。顎に手を当て、何度か名前をそらんじる。
「サーシャ、まず何をするんだ?」
「うん、多くある。交易路をゆくラクダを用立てねばならんし、帰りの食料の準備も要るな。なにより、ここで塩を得るためには、フランツに増産してもらわねば」
盛りだくさんである。
けれど、障害を数えるサーシャの顔は、嬉しそうだ。
あれもやる。これも要る。そうだ、われらもフランツを招かねば。
ふと懐かしい気持ちがした。こんな顔を、昔どこかで見たような。
「……やれやれ」
俺は残った酒を飲み干した。
キーワード解説
〔塩税〕
塩にかける税金。
人は塩がなければ生きていけないため、塩にかける税は全ての人への税となる。
安定した財源となるが、貧者も富者も平等にかかるため、加減を誤るとたいへん憎まれる。
この税の失敗で倒れた国もあるほど。
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