エピローグ:塩の道をゆく
「フランツ様、顔を上げて」
「フランツ様、前を向いて」
ダンタリオンとばあやが、俺にどかどかと服を押し付ける。
最初の時は閉口したが、二度目になればさすがに慣れた。
「うん、やってくれ」
全て終わって鏡を見れば、仕立ての良いシャツに、タイをあてるだけの、とても簡素な礼装である。
フランツィアは、今日も暑い。立っているだけで汗をかく。凝った服装などしようがないのだ。
春に入って、ずいぶん経つ。そういえば、一年前のこの季節に、とても騒がしい彼女はやってきたのだった。
「フランツ様」
「ん」
「お召し替えは、お終いでございます」
いつの間にか、老執事の最終チェックも終わっていた。ぼうっとしていたらしい。
「みんな、来たかな?」
誤魔化し気味に、問いかける。
「ジルヴィア様や、アルフレッド様など、主立ったご家族はご到着済みです」
そう説明して、老執事は苦笑する。
「お集まりは大変よろしいかと存じます」
「ふん。婚姻の宴を、こんな辺境でやる割には、か?」
「これは。私の口からでは」
窓を覗くと、あちこちから白い煙が上がっている。
竈が開く日は決まっているのだが、今日は特別だ。遊牧の民は羊をさばき、フランツィアの民はそいつに塩や香草を振るだろう。
窓を開けると、美味そうな匂いと共に、よく知った曲の一節も入ってきた。婚礼の曲である。
サーシャと共に、俺達は剣の高原から逃げ延びた。
その間、草原では色々な動きがあった。
馬国の戦争は落ち着いた。敵となる叔父は、あの争いで討たれていた。テオルは抵抗をせず、恭順を申し入れた。
テオルに下った罰は、二十日水も食料もない牢へ入れられるという、死罪に等しいものだった。
けれど、彼は生き延びた。屈強な体が、死を拒んだのだろう。
偉丈夫ゆえに決闘に負けたが、偉丈夫ゆえに生き延びた。
屈辱も生き恥もあれど、それでも、生きねばならないということでもある。
俺達は、商国の宮へ顔を出した。
草原の長からの許しは、すでに得られている。さすがに長の口約束では不安だったが、追って、しっかりとした書状が届いた。
そいつを持って、サーシャと共に、父王の元へ参上したのである。
もちろん宴は設けられたが――肩が凝った。
商の王族が集まれば、頼み事や情報交換が集中する。サーシャなど、馬国とのつなぎや、交易路への名乗りなどで、息もつけぬほどだっただろう。
父王は一言、『大儀であった』と言った。褒められたのは、実に十年ぶりかもしれない。
そんなこんなで、帰国後の四、五十日は忙しかった。
だから、今日なのだ。
フランツィアで、婚姻の宴の正式版をやる。
結局、俺達が祝って欲しい人、そして祝いたいと――俺が勝手に想像しているだけだが――人が、一番遅くなった。まぁそれも構うまい。
もろもろの行事を終えてフランツィアに帰ると、住民は我慢できずに、勝手に祭りを始めていたのだから。
婚姻の宴は、後から主賓が合流するというかつてない形式となった。
この日を指定してやらなければ、きっと一週間でも、二週間でも、婚姻を酒のつまみにしていただろう。
「くく」
笑みが漏れた。
背後からも不気味な笑いがした。
「ぐふふ」
悪友がニヤニヤ笑っている。血色の悪い顔も、商国から科国まで絡んだ大騒動で、ちょっとは日焼けしていた。
「……お前は、変わらんなぁ」
下手をすれば、フランツィア唯一の死者になっていたかもしれないのに、悪友エリクは相変わらずなのである。
「向こうで怖くなかったのかよ?」
「私の知識は、科国にとっても宝ですので。これも人徳ですな」
商国へ帰ってきたのは、俺とサーシャが宮に行っていた頃だと聞いている。きちんと無事を知らせる文はあったが、大変気を揉んだものだ。
科国の将ヴィクトルに、融雪剤の製法など説いてきたらしい。
エリクは身を正し、一礼した。
「改めまして。本日は、おめでとうございまする」
苦笑して、頭を振る。
悪友にも苦労をかけた。一番体を張った気さえする。
とはいえ、もはや愛情の錬金術師も不要である。
「エリよ。今度は、俺がお前の嫁を世話する番だな」
肩に手を載せ、ニヤリと笑ってみる。が、悪友はさらに不気味な笑みで返した。
「なにを生意気なことを。間に合っております」
「な、なに。詳しく話せ」
「きひひ。機密でございます」
悪魔の末裔は、屋敷の陰へ消えた。
なんだか気が楽になった。ちょっとは俺も緊張していたのか。
「フランツ様!」
庭師のロブ爺さんが、花だの布だの、多種多様な贈り物を一抱えに持ってきた。騎士時代の礼装らしく、絹仕立ての真っ白な服だ。
「すごいですじゃ。贈り物が、こんなにも」
辺境の宴とはいえ、一部の家族も来てくれた。
ジルヴィア姉上と、長兄アルフレッドは、ムラティアに泊していたこともあり駆けつけた。万事を繰り合わせた馬車の御者は、屋敷の日陰で倒れている。
姉上は、かつて高騰を起こした市場を、今度は食材の大商いで賑わした。
「ダンタリオン、ばあや。そろそろ行く」
合図をしてから、屋敷を出た。日差しがかんかんに強い。
庭では、もう準備があらかた済んでいる。誰もが顔が赤いのは、早くも一杯やっているからだろう。
飲み友達のブルーとメリッサが手を振った。
門を抜け、屋敷から段々に降っていく。どの住居も今日は目一杯に飾り付けられている。歩く度に背中や腕を叩かれた。
手はずとしては、夫婦並んでこの階段を上る。ご婦人方が洞窟から機を待つ生き物のような目で順繰り控えており、夫婦でここを上れるか危惧した。
祝福の嵐が吹き荒れることは間違いない。
「フランツちゃん」
声に、振り向く。ジルヴィア姉上と、長兄アルフレッドが立っていた。
「しっかりね」
小さな手で、姉上は背中を叩いてくる。
「ちょっとは男を上げたな」
兄上は体を揺すった。二人を前にしても、胸を張っていられるようになったことは、いいことだろう。
「はい!」
短く応じて、階段を降りる。
本来なら市場の入口である。今は、遊牧民のテントが設営されていた。
仮ではない、正式な縁だ。
花嫁の服装も、そのお召し替えの回数も、前回とは比べものにならない。故に、そのための場が設けられていた。
「姫様がお待ちです」
眼帯の遊牧民、ザザが俺を促す。無骨な性分ゆえか、この人はいつもどおりだ。しかし、いつもよりも、礼の時間を長く感じた。
「分かっている」
テントの入口に近づくと、甘く、よい香りがした。
「フランツか」
サーシャの声がする。
「ああ」
「入口の布を、めくってくれ」
「へ」
「袖が大きい。一人では、うまく出れぬのだ」
どことなく不機嫌そうなのが、なんだか面白い。普段通りである。
入口の布を、めくる。たきしめてあった香が、風とともにふいてきた。
身をかがめて、サーシャが出てくる。
鳶色の瞳がいつもより大きく、はっきり見えた。眉と眉の間を、薄紅色の顔料がつなぎ、こちらは馬国のまじないのようである。縁を結ぶ、という意味らしい。
化粧のせいか、白い頬が少し赤い。
艶やかな唇は、ちょっと得意げな笑みを浮かべていた。
「どうした、我が君よ」
全体を見る余裕が出て、ようやく赤を基調としたドレスだと知れた。
見事な金糸の刺繍が、袖から襟まで、豊かに渡っている。
王冠型の帽子からも、今日は金銀の飾りが垂れていた。
「きれいだ。すごい」
口が回らないのが悔やまれる。
笑みを深めて、サーシャはヴェールのような、薄い布を被った。
「うん」
魔法がとけたように、緊張がほどけた。
手を出す。
サーシャがその手を握り、俺達は屋敷へと続く階段を上った。
「ぐふふふ。では、始めましょう」
技師エリクが、顔を出してくる。拍手が起こり、ラッパが鳴る。
俺達は階段を進み始めた。
握手や拍手、祝福の言葉を受けながら、屋敷の庭に登り切る。
空は澄んでいた。鳶が高く飛んでいる。フランツィアから一望できる荒野は、どこまでも続いて見えた。海の果て、陸の果てまで。
「今日は、格別の景色だ」
参列者に一礼する際、サーシャはそう囁いた。屋敷の丘からは、荒野が一望できる。
サーシャは続けた。
「どこまでも見える」
「どんな道でも、歩いて行けるさ」
二人なら。
「では、誓いを」
神官に促され、俺達は唇を重ね合った。
お読みいただきありがとうございます。
以上で、完結となります。
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塩の世界と、遊牧の世界は、なかなか奥深いものです・・・。
それでは、またの作品でお会いしましょう^^




