4-16:勝敗
「なに」
テオルの声が、確かに聞こえた。
横目に、銀馬の吐息が見える。真っ白で、明らかに息が荒い。
俺はゲイルを励ました。
今だ。
行け。
テオルが叫んでいた。敵が、必死に鞭を入れる。その姿が、次第に後ろに下がっていく。
偉丈夫が絶望に呻いた。
ゆっくりと、ゲイルが敵を離す。
周りは、悲鳴を上げているだろう。大番狂わせだ。引きこもり王子が、馬国の俊英を下そうとしているのだから。
背後に見えるテオルの馬は、すでに口が開いていた。はっ、はっ、と息が漏れる。
ゲイルは落ち着いたものだった。むしろここにきて力を振り絞るように、全力で駆ける。
最後の直線。伸びが、明暗を分けていく。
俺もまた必死に鞭を振った。
後で気づいたことを、織り混ぜて話す。
速駆けは、想像以上に、俺に有利な勝負だった。
サーシャが『有利』と言ってくれたのは、この点にこそある。
テオルは、偉丈夫だ。体が大きく、英雄の体格。
俺はやせっぽち。最近の激務で、さらに体重を落としてもいた。
最後の最後に、それが効いた。
不慣れな砂地と、予想外に粘る俺達に、テオルの馬は体力を消耗していた。最後の一押しが、荷物の重さだ。
端的、単純、そして身もふたもない言い方をすれば――やせ型の俺は、騎手の体重分、有利だったのだ。
「それまで!」
駆けきった。
判定人は、ゴールの両脇に二人が置かれている。
彼らは引きこもり王子が勝ったのが信じられなかったのだろう。駆け終わって振り向くと、呆然とこっちを見つめているだけだった。
「目ぇついてんのか!」
ここで叫んだ門番のレッドは特筆に値する。神経が太すぎる。
すぐに、馬と同じ赤色の旗が掲げられた。
「しょ、商国の方が早い!」
手綱を引いた。
ゲイルは止まってもまだ、体から湯気を出し続けた。テオルは信じがたいものを見たように、こちらを見つめている。
勝った。
呆然と辺りを見回した。音が感じとれない。
遠くのサーシャと目が合い、頷きを交わし合った。
「あああ!」
声が漏れた。
絞り出すような、疲れてみっともない、それでも勝利の叫びだ。
今まで、家族の姿を遠くから見ているだけだった。全力で駆けて、勝ちというものを掴んで、ようやく分かったことがある。
俺はやはり――兄上や、姉上のようになりたかったのだろう。
一度は、誰かの、英雄に。
憧れていたんだ。
ぱちぱちと、場違いなほど呑気な拍手。
観戦台で勝負を見届けていた、サーシャの父と、叔父である。間に挟まれるようにして、サーシャが立っていた。
「見事であった」
草原の長、サーシャの父は言う。
次いで、切り裂くような声が来た。叔父だ。
「テオル!」
テオルが弾かれたように、観戦席へ向いた。
大柄な体の上で、細い目が苦渋に歪む。
叔父は、小さい体で、どこからそんな声を出したのかと驚くほどだった。
「分かっておるな」
テオルは、鞍上で下を向いて動かない。
見つめていると、目が俺と合った。苦しげに、顔を歪める。
「取れ」
遠くから、何かが放られた。
勝負終わりの、一瞬の隙を全員が突かれた。
テオルがそれを握る。遊牧民が用いる短弓だった。
遠くで、弦が鳴る。飛来した矢を、テオルは空中で掴み取った。そいつを己の弓に番え、俺に向ける。
「停戦は、破棄された!」
叔父は歌い上げるように言った。
雪原の空気が、張り詰める。テオルがぎりと弦を引き絞る音が聞こえた。
鳶色の目を見れば、本気と分かる。
「なっ」
間抜けな声が出た。
辺りを見まわす。
愕然とした。誰も助けに来ない。いや、来れないのだ。
もはや指の動き一つで、テオルは俺を殺せる。
サーシャを見つめる。姫君の白い顔は、ずっと俺の方を見つめていた。
――裏切った者は、何度でも裏切る。
警告を思い出すのと、叔父の声は同時だ。
「名誉が得られぬなら、もう一度、武力での君臨を目指すまでだ!」
見上げる空に、すうと狼煙が立ちのぼっていた。
なんだ、と思う間もなく、山間部から砲声が轟いてくる。
「砲が」
草原にどよめきが生まれた。
あの山では、砲が砦を囲んでいたはずだ。ザザ達を始めサーシャの仲間達が、今もそこに閉じ込められている。
将ヴィクトルが、椅子を蹴って立ち上がった。
「私じゃないぞ!」
「そうだ」
叔父は言った。ここから見ても、ヴィクトルの顔は真っ青だ。
「私の一族だ。狼煙と共に砦を撃つよう命じてあった。慰めになるかは分からぬが、盟友に対しすまぬとは思う」
ヴィクトルは、どかっと乱暴に腰掛けた。
だんだんと、絵が見えてきた。
決闘に負け、サーシャという草原の立場を保証するものを失った。科国も、塩の道に協力するかも知れない。
草原の中にも、外にも、叔父は孤立する。草原の支配など、夢のまた夢。
だから、賭けに出た。
商国の王子を殺し、停戦を破壊し、ついでに草原の争いに商国まで巻き込む。
冬開けに一転攻勢を受けるなら、この場で泥沼の戦いを始めてしまえばいい。ついでに、山間の砦で孤立したザザ達も始末できれば、敵の重要な戦力も処理できる。
しかし考えても――普通、やるか?
和平を追う道もあったのに。俺は、やはり、考え方が甘いのか。
「動くな」
テオルの弓が、俺に向けられていた。
叔父は言う。
「そうだ、テオル。息子が、父親に逆らってはならぬ」
「叔父上」
りんと鳴るような声が、雪原に転がった。
サーシャが、壇の上で声を張っていた。姫君の声はよく通る。
「あなたは最後の名誉のひとかどをも、自分の手で無になさるか」
叔父は何も応えない。
俺に向かって弦を引き絞る音が、聞こえるだけだ。
「姫君よ、座るがよい」
叔父は言う。
隣にいるサーシャの父は、沈黙したままだ。山の方を、見ているのだろうか。何を考えているのか。
「姫君の騎兵も、もはやすでに亡いのだから」
砲声は止まない。砦はぐちゃぐちゃに壊され、今頃は、叔父の兵が侵入しているのだろうか。
その時、耳を微かな音がかすめた。
視線を、向けられた矢尻から逸らし、山の方へ。
見えたのは、土煙だった。
砲によって砦が崩れたのではない。煙を上げながらも、砦はまだ立っている。
粉塵は、その下からだ。
断崖から土煙が上がっている。
まるで何かが――とんでもない勢いで駆け下りているように。
目を凝らし、耳を澄ます。砲声に混じって、馬蹄の音が確かにした。
「……馬、だ」
唖然とした。断崖を、馬群が駆け下りているのが確かに見えた。数百騎はいるかもしれない。
「馬鹿なっ」
叔父が叫んだ。
サーシャは涼しげな声で、腕を振るう。
「逆落とし」
◆
再び、又聞きで話すことをお許し願いたい。
サーシャ達が孤立していた、崖の砦。
かつては対岸の崖とを結ぶ橋があり、それが崩落して以降、崖に向いたどん詰まり。
砦に残っていたザザ達は、その斜面を駆け下りた。
テオルの話によれば、先日、鞍のない裸馬が崖下にいた。おそらく斜面から駆け下りることを見越し、無人の馬を放ったのだろう。裸馬の道筋を行けば、降りられるという理屈だ。
あの砦を建てたのは、かつての草原の長――つまり、サーシャの祖父という。
フランツィア庭師のロブ爺さんは、崖の方へ向いた出口は、崩落した橋の残骸だと言った。しかしこうして見れば、そして建設者がサーシャの祖父という騎馬の民最盛期の人であったことを鑑みれば、別の用途が見える。
崖への出口は、橋の残骸ではない。
真の騎馬の民だけが駆け下りることができる、勝手口として残されたのだ。
サーシャはこの手を見越して、谷間の砦にこもったのだろう。
馬蹄が響く前、剣の高原を囲う山には、勝ちどきが轟いたと聞く。
――行くぞぉっ!
遙か昔に絶えたはずの、馬使いの技。
崖降りの先陣を切ったのは、眼帯をした老戦士だったはずだ。
キーワード解説
〔逆落とし(さかおとし)〕
馬で急な斜面を下ると、頭が下になることから、この名がついたという。
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次回(本編最終話)は、本日19時頃に更新します。
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