4-15:襲歩
決闘を前に、雪原には観戦台が設けられていた。
段々に高くなるよう組まれており、最上段には、貴人席が据えられる。サーシャの父など、主要人物が決闘を観戦するための場所だろう。
椅子が二つあるのは、サーシャの父と、叔父の分か。
一つ下の段には、簡素な椅子が一つ。人質はそこに座るそうだ。つまりは、サーシャのための席だった。
よく陽が出ていた。
青空で、太陽が真南にさしかかっている。
気温も、ここ何日かでは一番高いだろう。人がいない方へ耳を澄ますと、雪が溶けていく音が聞こえた。
「仕上げをお願いします」
俺は周りに、合図を出した。
男達がコースに出て行く。溶け残った雪を除いたり、石を取ったりしていく。
俺は、彼らの作業を見つつ、走るべきコースをとっくりと調べた。
「草が、ほとんどないな」
沈黙が心細くて、ついつい独りごちてしまった。
足先で砂を確かめる。
コースの半分以上は、砂地だった。乾いたところもあれば、ぬかるんだところもある。丘が影になって、所によって日当たりが違うのだ。
「冬枯れといいます」
隣に、サーシャの兄カイドゥがやってきた。
冷え込みがマシとはいえ、俺達の息は白い。
「冬を前にすると、牧草は枯れていきます。雪を剥いだので、まだ芽がない地面が剥き出しになったのでしょう」
「なるほど……」
「ただ、これほど草がないのであれば、ヤギのせいでもありますね」
ヤギ、と問いかける。
カイドゥは地面を指し、微かに笑った。
「ヤギは何でも腹に入れます。馬や牛と違って、草の根さえ食べる。そこまでやられてしまうと、その土地は砂漠のようになる。だから、私達は移動するのですが……戦争で、そうも言っていられなかったようですね」
そういえば、フランツィアのご年配も、草の長さで通った生き物が分かると言っていた。牛、馬、羊、ヤギで、どの高さまで草を食べるかが違うのだ。
遊牧とは、一カ所の植生を破壊し尽くさないためなのだろう。次の牧草地が戦場となり、うまく移動できなかった一家がここにいたのかもしれない。
勝手な想像だが。
「……こちらとしては、助かるな」
なにせ砂地の走りには慣れている。
きらり、とコースで馬体が輝いた。
勝負相手、テオルだ。
「はぁっ」
気合、一閃。
鞭が飛び、手綱がうねる。
練習だというのに、凄まじい迫力だった。力強い四本の足が、コースを駆け抜ける。飛ぶようだ。
「相手が慣れた草の上じゃ、きっと勝てない」
それが本音だ。
勝算は、薄い。だからこそ、塩の道を宣伝した。
「いいでしょう!」
テオルが声を張った。
不正を防止するため、決闘を前にそれぞれがコースを下見する決まりになっていた。
俺が造営をしたので、こちらに否やがあるはずもない。テオルよりも前に、ゲイルでコースを走ってもいた。
貴賓席から、遠雷のように声がやってくる。
「では、始めるとしよう」
サーシャの父が、言った。観戦席の最上段には、サーシャの父と叔父がすでに座っている。
馬国の面々はすでに整列していた。
俺もコースの前に呼ばれる。少し間隔を置いて、テオルも近くに立った。
「作法に則る」
観客席の最上段から、低い声。
草原を一瞬で静かにする。
虫の羽音さえ、聞こえそうだった。
「決闘の、対価を」
丘の上に、白い服を着た娘が立った。
一瞬で分かった。
サーシャだ。
彼女は丘の上から、辺りを見まわす。山間に目をやったのは、そこに彼女の仲間が囚われたままだからだろう。
歩くように指示されたのか、一歩ずつ歩んでくる。
久しぶりに、彼女を見た。
ほんの少しの動作が、ひどくゆっくりと感じられる。
声をかけたかった。が、それはできない。
彼女は、俺とテオルの前を通る。白い頬は、最後に見たときよりも、日に焼けて赤くなっているように見えた。目線はまっすぐで、足取りは淀みない。
観客席の壇へ登った。立たされたのは、最上段の一つ下。彼女の父と、叔父、それぞれの間である。
宙ぶらりんの立ち位置ということだろうか。
微かに首を振ったようだ。どうやら、座ることを拒否したらしい。
「そろそろか」
テオルがうっそりと笑った。
俺は顎を引いた。見上げると、本当に大きな男だ。
兵士が、俺達の馬を引いてきた。
赤銅色の愛馬ゲイルと、銀色のテオルの馬だ。二人の男と、二頭の馬。決闘に必要なのは、これで全てだ。
「神官に、一時を与える」
長の声が響き、観客席から風変わりな男がやってきた。動物の革と、鳥の羽でけばけばしく飾っている。
決闘にはうるさい作法が付きものだ。これはどこでも同じらしい。
馬国の神官は、俺達に礼をし、願掛けし、馬や装備を調べた。まずは、テオルへ口を開く。
「久遠の蒼穹の下、青き狼の子よ」
しわがれた声で、神官は言った。
「牙を剥き出し、尾を刃のようにして、地を駆ける前に、問う。和解の意思はないかえ?」
テオルが言った。
「ありませぬ」
神官は、俺へ向き直る。
「西の砂漠の子よ。怒りどんなに熱くとも、鉄は打てまい。和解の意思はいかに?」
俺も首を振った。
「ありません」
神官は重々しく頷く。
喉を震わせて、経文のような、不思議な歌を送った。草原の民は、同時に二つの音色を吟じることができるという。
倍音唱法というそうだ。
「では、そうなさるがよい」
神官が去る。
騎乗、と兵が短く告げた。
勝負はコースを二周。俺とテオルは、並んで合図を待つ。
一瞬が、引き延ばされて感じる。サーシャと共に過ごした半年と、これからの全部を、この速駆けで決めるのだ。
「頼むぞ」
ゲイルがいなないた。速駆けというものを、こいつはもうよく知っている。
静寂。
のんびりとした鳥の声が、場違いなほどよく聞こえた。胸が、心臓が、熱くなっていく。
「始めっ」
俺とテオルのスタートは同時だった。
前のめりになり、手綱をしごく。途端、顔に真っ黒い何かが飛んできた。
泥だ。
周囲からの哄笑に耐え、前を睨む。
銀色の馬体が、前にいた。やっぱり、速い。
顔に当たったのは、敵が蹴り上げた泥だ。
「くそっ」
落ち着け、と自分に言い聞かせる。いきなり優位に立てるわけがない。
ゲイルが体を傾けた。最初の、大回り。
明るくなった。
丘が生んだ陰から出る。光。前をゆく銀の馬体が、ぱっと輝く。
眩しい。コース外の雪も、きらめいている。
差は、馬身一つ分だ。
まだ追いつける。応じるように、ゲイルが足に力を込めた。前を行く敵の、足並みが微かに乱れている。それを見て、こいつもチャンスに気づいたのだろう。
地面が変わっていた。
「砂地だっ」
鐙から、衝撃が突き上げた。荒野の馬は、がつん、がつん、と歩き慣れた砂地を蹴り固める。
前からの飛沫は、泥ではなく、ぱっと跳ね散る乾き砂になっていた。
コースを微修正し、テオルと並ぶ。
どうだ、と隣を見る。大男は涼しい顔だ。
またも足から伝わる感覚が変わった。
地面が急激に固くなる。日陰に入った。溶けた雪が、砂を重くし、固めている。
確かな大地を得て、テオルの馬が息を吹き返した。
「ははっ」
横から声が聞こえた。
ぎりと口を噛む。
再びテオルの馬は速くなり、俺の横から消えていった。
客席の前を、駆け抜ける。
走れ、走れ、と声が聞こえた。エリクや、メリッサとブルー、門番のレッドなど、はるばるやってきた連中が声を張っている。
「くそっ」
声が漏れた。
勝ちたい。勝ちたいのだ。
直線は一瞬だ。そう感じるだけか。
最後の周が始まる。
横目に、サーシャの姿が過ぎった。
こちらを見つめ、左手を挙げる。微かに、何かを囁くように、口を動かしていた。
――信じろ。
共に駆けたとき、何度も言われた言葉だ。
なにを、と口があえいだ。
その間にも、次のカーブだ。
慌てて手綱に縋る。不慣れな騎乗が面白いのだろう。客席からはみ出して、手を叩いて笑う観客さえ見えた。
無我夢中で馬にしがみつく。
その時、手綱が左に引かれた。ゲイルが頭を振っている。
「……そういうことか」
必死に握っていた手綱を、楽にした。
道が開かれたように、ゲイルが左へ跳んだ。
どよっと会場が沸いた。
丘の陰を抜け、再び砂地へ。
残り、半周の位置でゲイルが仕掛けた。砂を巻き上げながら、猛然と足を回転させる。
手綱を、繰った。操るためではなく、励ますために。
明確な言葉を込めて。
「駆けろ!」
連れてきた愛馬も、彼女の馬も、同じ意味を持っている。
強き風となって、駆け抜けろ。
勝ちたい。
歯を食いしばった。
辺りが暗くなる。
丘の陰に入ったのだ。最後の大回りで、俺とテオルは並んでいる。
並んでいるのだ。
ゲイルが必死に駆けても、前に出ることは敵わなかった。
横目にある巨体は、俺を見下ろした。
――惜しかった。
そう言われているようだ。
ここまでやった。やれた。
諦めが心に吹き込む。歯を食いしばり、それでも手綱を振った。
差が、生まれ出す。
ゲイルが得意な砂地は、もうない。
離される。差が生まれる。
挽回不可能な、決定的な差が。
化け物のような怪力で、銀色の馬が足を回転させている。並んでいた差は、カーブの終わりには、馬身一つ分になっていた。
「勝ちたい」
呻いていた。
こんなに願ったことはなかった。
踏みとどまれ。粘れ。勝ち残れ。
どんな言葉も、現実には無意味だ。
差は埋まらない。まったく同じ、一馬身だ。手加減してくれてもいいのに、と情けない気持ちさえ起こる。
荒い息遣いが聞こえた。
右前に不思議なものが見える。白だ。蒸気か。
いや――これは、吐息か?
客席がわっと沸いた。
「そうか」
呟いていた。俺はなんという間抜けだ。
こんなことにも、気付かなかったとは。
キーワード解説
〔襲歩〕
馬の歩法の一つ。英語ではギャロップ。
全速力で駆けると、この歩法になる。
〔砂漠化〕
過剰な放牧によって、草原が砂漠化することがある。
ヤギなどは草を根こそぎ食べることもあるが、そもそもの頭数管理や、移動の失敗などで起こる場合が多い。羊の先導役として、ヤギは遊牧に不可欠な動物でもある。
――――――――――
お読みいただきありがとうございます。
次回は、明日6月30日に更新します。
最終日は、全3話での投稿予定です。
長らくのお付き合い、ありがとうございます。