4-12:雪原
タムスから教えてもらった、剣の高原について話そう。
決闘の舞台となり、俺が向かわなければならない場所のことだ。
この高原に住む遊牧民は、何度となく戦乱に巻き込まれてきた。
名前自体、いかにも物騒ではないか。遠い伝承では、神々も女神を巡って決闘をしたという。
ここの住人のたくましさは、戦火が迫った時の言葉に表れていた。
――えっ。またやんの?
彼らはただ顔をしかめ、首を振り、長居しすぎた野営地を引き払うように、家畜を連れて山間部へと逃げていったという。
避難さえ、生活の一部。
たくましいものだ。
◆
再び、時間は過ぎる。
速駆けの練習と、塩の補充を終えて、フランツィアを出発する。馬を慣らす意味を込め、ゆるゆると進んだ。三五日を、かけた。
やってきた剣の高原は、さらに寒くなっていた。
一面を雪が覆い、牧草地など跡形もない。
俺達も、厚着を余儀なくされる。裏地に毛皮を張ったマント。さらに帽子を被り、耳当てをつけた。こんな重装備は、初めてだ。
「耳が落ちる」
馬上で、顔をしかめる。悪態さえも、白くなる。
厳冬期は過ぎたはずだが、今年の冷えは予想以上だ。
先導する男が手を振る。わんわんと犬が吠えて、丘の向こうへ駆けていった。
「みんな、がんばれ!」
隊を励まし、最後の丘を越えた。
巻い上がる雪煙。その先に、点々と幕舎が見えた。
剣の高原は今や最前線であり、商国との境目でもある。故にここが、大族長会議の開催場所に選ばれていた。
「到着です」
先導する遊牧民が、ついに足を止めた。
隊列からは、歓声よりもため息が聞こえる。唯一、愛馬ゲイルの息だけが、白く、荒々しかった。
一気に体が重くなる。
「やっとかっ」
朝日が、山の向こうから照らしてきた。世界が一瞬、白く染まる。
眩しい。
視界が戻ると、遠い谷と谷の間に、陽を背負った砦が霞んでいた。サーシャが籠城したという砦かもしれない。聞いたとおり、断崖の際だ。
到着の安堵は、すぐに消えた。
――わたしが守る。
窮地なのは、やっぱりお前の方じゃないか。
文を思い出して、首を振った。
今、考えることじゃない。
「雪はどうだ」
問うと、後ろから血色悪い顔が歩いてきた。
「キヒヒヒ。このくらいの雪であれば、デモンストレーションに丁度よいでしょう」
技師エリクは、着ぶくれした体から、ぬぅっと吸血鬼じみた顔だけを出している。俺は、誰も夜にこの男とすれ違わずに済むよう、切なる祈りを捧げた。
「ふん。うまくいけば、な」
下馬し、雪を蹴ってみた。ぱっと舞い散り、風に吹かれていく。
一面の雪原は、真っ白だ。
気を抜くと、圧倒され、迷ってしまいそうになる。
不安が、胸にへばっていた。
策を、知識としては知っていても、実際に試せたのは、この北上する旅に出てからだ。本物の雪は、さすがに高原にしかない。足を止めては、雪を集め、試す。
旅程に長くかかったのは、実験に足を止めたからでもある。
「時間を無駄にできん。各自で、荷物を確認してくれ」
「はい」
「へーい」
エリク達は、ラクダや馬の荷を確認する。
気安い返事は、門番のレッドなど、いつもの仲間も結局はついてきたからだ。これに兄上から借りた護衛や、通訳などが混ざる。
総勢は三〇名。
荒事では心許ないが、人が増えるほど旅が遅いのもまた鉄則だ。
「おっと」
エリクが荷袋から、何かをこぼした。
拳くらいの玉である。拾ってやるとずしりと重く、なんだかすえた臭いがした。
「……なんだ、それは」
「ふふ。秘密」
怪しい。悪魔の尻尾が出てきた。
「妙な真似するなよ」
「ぐふふ、決闘こそ妙な真似でしょうに。再会の言葉は決めましたか?」
ぐぬと唸ってしまう。
言い返しあぐねていると、幸いにも、遠くから俺を呼ぶ声がした。
「お待ちしておりました」
サーシャの兄カイドゥが、出迎えにやってきてくれた。
細面の顔が、口元だけで笑っている。目は疲れていた。
革の帽子と、羊毛と毛皮を組み合わせた温かそうな服を着ている。さすがに遊牧の民だ。着ぶくれしてしまうフランツィアの男達より、よほど動きやすそうだ。
「遅れずに済んで、ほっとしています」
打ち明けると、カイドゥはひっそりと笑った。
「確かに。長旅の馬を休ませるにも、時が必要ですからね」
愛馬ゲイルは、白い息を吐いた。
荒野の馬は、環境の変化に強い。たとえば砂漠は、朝は凍死しかねないほどの寒さになる。
それでも、いざとなれば、カイドゥが替え馬を用意してくれる手はずだった。
「……ですが」
カイドゥは不安そうに言う。
「よかったのですか? まだ、特段にコースを造営してはいませんが」
草原はまだ雪に覆われている。馬で駆けるなら、雪を除ける必要があった。
「構いません」
俺は意識して、強い笑みを浮かべてやった。
「むしろ、この方がいい」
カイドゥは眉をひそめる。
とはいえ、大体の位置くらいは確認しなければならない。エリク達に調査を命じる。
ガチャガチャという金属音が近づいてきた。
「ようこそ」
振り返ると、大男がいた。
カイドゥが呻く。
「……テオル様」
「テオル、で構いません。あなたは義兄となるかもしれないのですから」
そう言って、従兄弟は俺達に笑みを向けた。
瞳の色は、サーシャと同じ鳶色だ。金板をあしらった帽子が、雪の中でも光って見える。この装束に負けないのだから、やはり相当にぶ厚い男だ。
ふと、寂しさを感じた。
この三人が顔を揃えるのは、婚姻の宴以来だ。
あの時とは、何もかも違う。
テオルと俺は、サーシャを取り合う。そして、サーシャもまた砦で囲まれている。
カイドゥは、辛いだろう。
「少し、よろしいか」
テオルは俺へ向き直った。
直裁な性格でもあるのだろう。王族同士の、堅苦しい礼などない。
「……なんでしょう」
テオルは笑みを深めた。切れ長の目が、まっすぐに俺を見る。
薪のような指を、俺に向けた。
「勝負の後では、何を言っても正しくは伝わらない。どちらかは敗者で、どちらかは勝者。だから、今のうちに伝えたい」
テオルは胸を張った。
「政略もあるが――婚姻は、なにより私の望みだ」
婚姻の宴で、手を握られた痛みを思い出す。
思えば、俺もサーシャも、鈍すぎるな。
「……妻が奪われるのは、よくあること。強いものが、すべて取っていく」
だから諦めろ。そう言われているようで、声が荒くなった。
「他国に頼ることもか?」
テオルは痛いところを突かれたようだ。細い目を歪めて、苦笑する。
「そう。それが、我等の弱み。弱みを消そうと策を弄し――あなたを、ここへ呼び寄せた」
少し意外に思った。
馬国の使者、シラのような尊大さを、この男からは感じなかった。金属をじゃらつかせて、テオルは言う。
「砦が、見えるか」
頷きを返す。
遠く、険しい山の上に、尖塔が霞んでいた。
「あそこに?」
「ああ。彼女は、いる」
テオルは腕を組み、首を振った。
「先日、あの崖の下で、馬が走っているのが見つかった」
「……馬が?」
「ああ。鞍のない、裸馬だ」
妙に思った。馬が出てくるとすれば、それはサーシャが放ったということだろうか。
「飼い葉が尽きたということだ。急峻な崖でも、馬だけなら降れる。それを見込んで、逃がしたのだ。馬を養えない惨めさは、お前には分かるまい」
テオルは俺に向き直った。
「俺は、奪回する。あの人は、野を駆けることも、戦うことも必要ない。俺ならそうしてやれる。本物の、姫君に」
そう言うと、テオルは去った。
雪原に、じゃらじゃらとした金属音と、無数の伴の足音がいつまでも残っているようだった。
「……手ごわそうですな」
エリクがひょっこり顔を出す。
霞む砦に、俺もまた奪還を誓った。
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次回は、6月23日(日)投稿予定です。
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