1-4:じゃじゃ馬
服の裾を引かれた。
エリクかと思ったが、あいつは反対側にいる。振り返ると、俺の服を引いたのは、怪しい人影だった。フード付きのマントに、白いチュニック。編みカゴを持ち、肩掛けのカバンは黒革だ。
荒野を歩く、行商人のような恰好である。
「入り用はないぞ」
さっさと行こうとしたが、涼やかな声が呼び止めた。
「我が君よ」
ぎくりと身が強ばった。ギギギ、と油の切れた動きで顔を向ける。
女は俯き気味だ。
白い顎と、笑みを結んだ口元。顔を上げると、鳶色の目と、日焼け知らずの頬が目に飛び込んだ。
馬賊の姫君、サーシャに似ている。うり二つである。むしろ本人である。
サーシャが俺の後ろに立っていた。
「な、なぜここに」
あんぐりと口を開けた様は、さぞや滑稽だったろう。
サーシャはおかしそうに囁いた。
「驚いたか?」
「あ、当たり前だっ」
周りはまだ気づいていない。
サーシャは、まるで変装だ。酔いが残る頭が、なおのこと痛んだ。
「まさか、こっそり入ってきたのか? 市門の番は何をやって……」
「あのレッドとかいう男は、二日酔いで寝ていたぞ」
「……あのやろう」
馬国の旗はまだ城壁の外にあったから、彼女もまだそこにいると思っていた。
「今来ても、何もないぞ」
なにせ屋敷の準備がまだできていない。
体裁というものもある。日を改めて顔を合わせるにも、屋敷を片付けねばならん。
そうしたあれやこれやで、再び彼女と会うのは明後日の夜にしようと、昨日の内に取り決めてあった。
いずれ家族から『これで宴を開け』と言わんばかりの物資も、どっさりと贈られてくるだろう。父王からの結婚報告と一緒に、家族からそんな文も届いていた。
「ふむ」
サーシャは、周囲を見渡した。
「面白い。ここが市場なのだな」
塩の袋を乗せた荷車がやってくる。サーシャは身軽に跳ねて、それを避けた。
値段交渉の声がやかましいが、サーシャの声はよく通った。
「ここで塩を選り分けているのだな? 粗さか? 白さか?」
放っておくと、方々の店を覗きかねない。
俺は声を届けるのに、顔を近づけねばならなかった。
「……粒の粗さで分ける。色は白いほど高級だ」
「あの、ラクダが運ぶ白い板。あれが岩塩だな?」
「ん」
ラクダの列が、市場の喧噪を横切っていく。我が物顔で人混みを割る様は、まるで街の主だ。実際、人の数よりもラクダが多いかも知れぬ。
「そうだ。遠くの塩鉱から、切り出した岩塩を……」
説明しそうになって、慌てて首を振った。乗せられるな。
王子フランツ、今こそ馬賊から主導権を取り戻せ。
「いや、それよりも、だ!」
「フランツ様?」
周りが不審がり始めた。それはそうだろう。去って行った男が、なぜか立ち止まっているのだから。
心臓が跳ねる。
「おや。そのお方は?」
興味の対象がサーシャに移った。
どう隠すか。
サーシャは、さっとフードを取った。
現れた白い顔に、多くの目が釘付けになる。日差しの強い、荒野の土地だ。サーシャの肌は、眩しいほどだろう。
「遙か東の草原より、この地へ越してきた」
騒がしい市場の中でも、声はよく届く。
「青き狼と牝鹿の裔として、これほどの土地を目にできたことを誇りと思う。草原の先に、これほど豊かで、活気ある街が開けているとは目にするまで現のものと思えなかった」
静かになったのは、誰もが息を呑んだからだ。なお、俺もその一人である。
「サーシャという。この地に、世話になる」
俺よりも断然目だったのは、言うまでもない。
あれほど騒がしかったご婦人方も、すっかり静かになっている。鳶色の目を細めて、笑いかけると、ご婦人さえ頬を染めた。
遠くから声がしなければ、彼女の気配は市場を呑んだままだったろう。
「いたぞ!」
「姫様だ!」
土煙の先が騒がしくなった。耳慣れない、馬国の言語。
「わたしを探しに来たようだ」
「なに」
向こうは姫君がいなくて大変だろう。
ひとつまみの親切心と、まだ整理のつかない結婚話から逃れたい気持ちで、俺は彼らにサーシャの居場所を伝えようとした。
が、彼女は上手である。
「我が君よ」
震えた声。
周りがざわっとした。主にご婦人方が俺を見ていた。
サーシャは濡れた瞳でこちらを見上げる。まるで特別な事情があって逃げてきたように。
「少し隠してもらえまいか?」
製塩都市のご婦人方が、誰よりも反応した。
「なんだいなんだい」
「二人で、もうすっかり会っていたのかい!」
「フランツ様はやる男だって思っていたよぉ」
見当外れの善意。
この瞬間、奥様方の頭に既成事実が爆発的に産み出されたのを直感した。
俺は震撼した。
「ま、待ってっ」
「さぁさぁ! ここはいいから、早く奥へっ」
俺たちは路地の奥へ押し込められた。
途中、サーシャはからからと笑い出す。
邪推する。
かの国はこのじゃじゃ馬を俺に押しつけたのではないか?
口元を歪めてしまう。
裏路地に入り、馬国の一団をやり過ごした。昨日見た眼帯の大男もいる。血走った一つ目を見て、俺は出て行くことをしめやかに断念した。
「フランツ様、これはこれは」
エリクのやつは、ニヤニヤしていた。おのれ、あくまで俺で楽しむ気か。
声を荒げた。
「急に来るとはっ」
「前もって言っておけば、言っておいたとして」
サーシャは手のひらの先を俺へ向けた。
「のらりくらりと逃げるのでは?」
ぐっと言葉に詰まる。その話を持ち出されては、勝ち目がない。
「もちろん、ただでとは言わない」
サーシャは、肩から提げた鞄を俺に見せた。仮にも姫君なら下女に持たせそうなものだが、彼女の場合は自分で持っている。
「こちらも、見せたいものがあるから来た」
「……なんだ、それは」
「価値があるものだ」
ちらり、と助けを求めてエリクを見やる。が、悪友はすでに俺に背を向けていた。
「後はお二人でどうぞ。街と機材の見回りは、私が責任をもってやっておきますので」
「ぐふふ」と笑い声を残して、エリクは去った。コウモリにでも変身して飛んでいけば真実の吸血鬼だったが、意外にも普通に歩き去っただけだった。
待てというのも情けなくて、俺は脱出の機会を逸してしまう。
天を仰ぐと、建物で区切られた空が見えた。
さっきまで、あんなに広かったのに。
「……あー、所望は何だね」
結局、俺は押し負けた。