4-6:砂に煙る
大柄な使者シラは、意気揚々と帰っていった。俺は蒼白で立ち尽くし、呆然と見送ったことと思う。
このまま、倒れ込んでしまいたい。全て夢であるように。
だが、使者はもう一人いる。
「よろしいですか」
ああ、と曖昧に返す。
サーシャの兄、カイドゥからの使者だった。応接に戻り、冷めてしまった茶を淹れ直してもらう。まだ午前中だというのに、日暮れ時のように疲れ切っていた。
「衝撃を受けられたことと思います」
衝撃で済むか、と口を歪める。
茶をあおった。香りが鼻に抜けて、ちょっとは気分がマシになった。
「大丈夫だ。話をしてくれ」
「はい!」
四十代くらいの使者は、背筋を正した。薄汚れて気づかなかったが、この男の顔立ちも、服装も、気品があるものだ。
「巻き込まれた、とお思いでしょうが……今般の決闘は、まずは遊牧の民について説明しなければなりません」
使者は決闘について説明した。
「馬国は、遊牧の民。もともと、境目だとか、土地だとか、そういう意識に乏しい国なのです」
そのことは俺にも理解できた。遊牧民は、家畜を連れて、点々と移動する。
フランツィアのご年配に聞いても、この街のことを単に『集落』と言ったりする。都市や壁さえ、必要としてこなかったということだ。
「では、なにをもって、国をまとめるか。それは人望なのです」
「……王が気に入らなければ、テントを引き払って別の土地へ行ってしまうということか」
「はい。定住を選んだ者はそうはいきませんが」
決闘の申し出は、馬国特有の問題――男は、そう言いたいらしい。
「つまり、名誉で民をまとめるということです」
使者は言った。
「叔父は、家族への裏切りと、他国に頼ったこと、二重の不名誉を抱えています。サーシャ様との婚姻こそ、後への不安の表れ。この縁は、絶対に譲らないでしょう」
知れば知る分だけ、自分の馬鹿さ加減に嫌になる。俺はまさに、彼らが望む踊り方をしたのだ。
「名誉ということは」
口に出すのも辛いが、これは認めるしかない。
「サーシャとの婚姻は、名誉にかけて行われた正当なものだと、吹聴するわけか」
略奪ではなく。そう言いたいのは、辛うじて堪えた。
「おっしゃる通り。まずは、サーシャ様の身分を決闘の賭けものにするのが、先の使者の目的であったでしょう」
決闘で敗北するにせよ、逃げ出すにしろ、後は商国の決断だ。
恐らく、敵は俺が逃げ出すと思っている。
その上で、「あの王子は取るに足らない男だった」という風評を流す。名誉を重んじる、かの国のことだ。情けない男から奪い取ったということなら、行為の不評も少しはマシになるという打算か。
「……馬鹿な。なにが名誉だ」
この程度の小手先など、商国の小さな貴族でもやらない。
サーシャの叔父は、言っちゃ悪いがよほど小さい男なのだろう。
「くそっ」
悪態を、もはや取り繕う余裕さえない。
「なぜ、サーシャなんだ?」
あまりにも情けない台詞だが、こんな泣き言だって言いたくなる。
「他に娘や息子はいなかったのか?」
「戦において、サーシャ様は強く戦いました。もはや姫君ではなく、英雄です。彼女を身内に引き入れることは、今や草原の誰もが狙っています」
顎を落としそうになった。
あいつそんなに凄かったのか。
「しかし、最も大きなものとして……」
使者は指を立てた。
「従兄弟、テオル様の意思もあると聞きます」
テオル。
結婚式にも来ていた、大柄な男だ。握手をした時の、握りつぶされそうなほど大きな手を覚えている。
「テオル様は、サーシャ様の従兄弟。幼い頃を共に過ごしました。一族の手前、想いを口に出しませんでしたが、秘めたものがあったのではないかと……」
頭に手を当てた。
なんということだ。やはりこの婚姻は、最初から敵を作っていたらしい。
しばらく沈黙が降りた。窓から塩水を焚き上げる黒煙が見える。まるで、この街が雲を作り出しているみたいだ。
「サーシャの父君も、婚姻の破棄に賛成なのか?」
その質問には、さすがに声が震えた。
俺が会い、結婚の許しをもらうはずだった人。答えが是なら、婚姻は完全に破談だ。
「賛成ではありませんが……」
使者は言いよどんだ。慎重に言葉を選んでいるのが分かる。
「意見は、二つに割れています」
「二つ?」
「率直に申せば、馬国の中でも意見が定まっていないのです」
使者は勢い込んできた。
「一つは! 叔父側とサーシャ様の婚姻を成立させ、和睦とする。婚姻を丸呑みする案。もう一つは……」
男の目に光が宿る。
「冬の間に準備を整え、雪解けと共に再戦」
負けを認める派と、抗戦する派ということか。この態度を見れば、使者がどっちの立場か分かる。
サーシャの兄カイドゥも考え方は同じ、抗戦派だろう。
「冬のため、今は戦を停めています。その間、大族長会議を招集する予定です」
「前も聞いたが、それはなんなのだ?」
「族長を集めた、会議です。馬国は多くの一族が集まって、集団をなしています。合議を経て、最終的に降伏か抗戦か、決まります」
「ふむ……」
商国にも同じような場がある。
国中の貴族に手紙を出して、王都に集めて、新たなる税などの重要なことを決めるのだ。参加者が集まるのに半年くらいかかるから、滅多にやらないが。
それを思うと、さすがに馬国の会議は動きが早い。
「抱き込み合いってことかな」
「そうです。最後は長の決定になりますが、各族長の意思もまた、無視できないのです」
話が見えてきた。使者は何も言わないが、さすがに粘つくような目を見れば分かる。
その婚姻、待った――そう言って商国が介入してくる展開を、俺に望んでいるのだ。
恐ろしく危険で、損な役回りを。
同盟の参戦となれば、会議の流れが交戦に傾くのは必定である。テオルは名誉のため、決闘を俺に挑んだ。裏を返せば、俺が会議に首を突っ込む口実を与えたともいえるのだ。
「サーシャ様の婚姻は、もはや戦そのものです。サーシャ様に集まった人望が、あの方を自由にさせません」
我が嫁はずいぶんと勇ましく戦ったようである。
「カイドゥ様ですら、目を見張っておりました。祖父時代の将を見るようだ、と」
「そんなにか」
「はい。科国の主だった砲は、サーシャ様が引きつけていたのです」
「……なに?」
思わず、眼を見開いてしまった。
「おや。初耳ですか」
「話してくれ」
使者は意外そうにしたが、ちょっと笑みも浮かべた。
これだけで分かる。嫁は、確かに馬国の心を掴んだのだ。
「見事でした。サーシャ様は大いに戦い、己に注目させ、砲が追いつく程度の速さで砦に籠もりました。城壁の破壊は、砲の得意とするところ。つまり目の前に戦功をぶら下げて、砲を山間まで誘い込んだのです。そこで……」
俺は壁のカレンダーを見た。
フランツィアも秋が過ぎ、日が短くなっている。北で、冬と言えば、一つしかない。
「雪か」
「はい。例年より早く来ました。サーシャ様は高原の民から、事前に今年の気候を聞いていたようです」
雪が積もった山道を、重たい砲を運びながら動くのは厳しかろう。立ち往生したに違いない。
さすがに口を開けてしまった。
「ははっ」
笑えて、俺自身でも驚いた。
砦に追い詰められたのではない。彼女は体勢を立て直すため、囮になり、冬まで時間を稼いだのだ。
雪の停戦で、流れが変わると信じて。
「まさか、自分が求婚されるとは思わなかったかもな」
その辺りも、彼女らしい。ザザ辺りは「言わんこっちゃない」と首を振って嘆いているだろう。
なんというか――時々、鈍い。
笑ってしまうほどに。
婚姻の宴の時、俺はテオルから握りつぶされそうなくらい強く、握手された。そこには秘めたる想いがあった。
サーシャ自身は、多分、そんな自分の大きさに気づいていまい。
他方で、俺は今になって、サーシャに会いたいと願っている。
俺達は、互いにちょっと鈍すぎる。
一緒にいた半年の間に、もう少し何かしていたら、今も胸を張れたのだろうか。サーシャは、俺の嫁だと。
「いかが、されましたか」
使者は突然笑った俺を、気の毒そうに見つめた。絶望した末の、空虚な笑いに見えただろう。
だんだん頭が冷えてきた。
これから失うものを思うほど、心が、体が、冷えていく。
「……交易路。塩の道は、どうなる」
使者は辛そうに言った。
「なくなるか、あってもとても細いものになるでしょう」
「……そうか」
だからか、と呻いた。
「だから戦線が、商国に向かって下がったんだな」
塩の道を北から圧迫するように、戦線は下がっていた。科国の目的は、裏付けられた。塩の道への妨害だ。
「お言づてが、あるのです」
使者は目線を彷徨わせた。言うべきか言うまいか、迷っている。
「サーシャ様、からです」
「なに」
男は黙った。口に出したことを後悔しているみたいだ。
「言ってくれ」
求めて、ようやく使者は頷いた。
「『決闘を受けてはならん』、と」
体が、さらに重くなった。今さら遅い。
なにより――恐ろしい想像だが――サーシャは、俺ではなくテオルを選ぼうとしているとも読み取れる。
別れて、そろそろ二ヶ月だ。共にいたのは、半年。
信じたい。そうするべきだ。
しかし俺の身を案じてくれていると、希望的にだけ考えることはできなかった。
「私の、使者としての役目は以上です」
しばらく休むと、カイドゥの使者はフランツィアを発った。父王にも、同じことを伝えるという。
俺の窮地も遠からず宮の噂となるに違いない。
安易に決闘騒ぎに巻き込まれた馬鹿王子が、どんな批判、失笑を浴びるか。今度こそ、完全な失脚となるかもしれない。
風が強くなってきた。
丘から見えるフランツィアが、砂煙に霞んでいく。
なにゆえに俺がこのような目に遭わなければならないのか。
説明が必要だ。
だが、誰が答えてくれるというのか。
お読みいただきありがとうございます。
下げ展開は、ここで終わり。
次回は、6月3日(月)に投稿します。