4-3:馬蹄
剣の高原への到着は、翌々の朝になった。
俺達は二人並んで、サーシャの父を待つ。
まずやってきたのは、霊幡を掲げた一団だ。青染めの旗が、風になびいている。
先触れだろうか。サーシャがまず反応した。
「あの旗は……兄上?」
聞けば、彼女の領地の北に位置する、兄だという。婚姻の宴以来の再会だった。
高原の朝は、荒野よりもさらに冷える。俺達は裏地に毛皮を張ったマントを羽織り、分厚い靴をはいていた。ごわごわとした着心地に耐えていても、寒風は忍び込んでくる。
「フランツ。こうなると、暑さも恋しい」
「はっ。それは言える」
サーシャは王冠型の帽子に、白絹のベールをつけていた。風になびいて、白が頼りなく揺れている。
やがて馬と人の息が、一団となって近づいてきた。
先頭の一人には、なるほど確かに覚えがある。サーシャの兄、カイドゥだ。
「久しいですな、商国王子フランツ殿」
ざわり、と肌が粟立った。
違和感がある。悪い予感がある。
ふと気付いた。馬国の人は、俺を『婿殿』と呼ぶことが多い。なぜ、名前で呼んだのだろう。
「息災の由、なにより」
兄は言った。
褐色の肌を持つ、細面の男だ。サーシャと同じ切れ長の目で、口の左右に髭を蓄えている。優しい印象なのだが、哀れむような雰囲気が不穏だ。
「念のため問います」
不気味なほど静かな声だ。
「結婚を……完成させては、おりませんね?」
ザザにも前に同じことを聞かれた。混乱せずには済んだのは、ただならぬ雰囲気だからだ。
馬国の馬は、激しくいなないていた。
まるで戦闘でもあったかのようだ。
「はい」
俺が認めると、兄カイドゥは手綱を引いた。サーシャに向き直る。
「妹よ、心せよ」
隣で、サーシャが顔を上げた。
「父上が、大族長会議を招集なされた」
サーシャは眉をひそめる。
「どういう、ことです」
「今まで我等に塩を売っていた、科国が手向かった」
話が見えない。鞭で打たれたように呆ける俺に代わって、言葉を継いだのはサーシャだった。
「……戦いを」
「そうだ。馬国は、仕掛けられた」
冬越えになる、とサーシャは小さく呟いた。何か、深い穴を見たような顔をしている。白い頬に朱が差していく。
「誰です」
話がどんどん進んでいく。頭の巡りがこんなに違うのだと、改めて思い知らされた。
「さすがだ、妹よ」
カイドゥは馬上で小さく頷いた。俺に対するためだろう、兄カイドゥは説明する。
「冬越えの出戦は大変なものだ。糧食、武器、地図、その他もろもろを敵に保証する裏切り者が出たからだ」
一呼吸置いて、カイドゥは細面を歪めた。
「叔父だ」
サーシャの顔が青くなっていく。
「叔父上が……?」
「そうだ。馬国の北が、調略された」
呟きは、かつてないほど震えていた。
頭が痺れて、会話についていけない。馬国の、北?
「叔父の一族が、丸ごと敵になったということだ。叔父の息子も娘も、その一族も」
はっとして、サーシャは名前を呟いた。
「テオル、もか」
結婚式の時に来ていた、従兄弟の名だった。穏やかな、貴公子然とした男だ。
豪奢な装束が印象に残っている。
サーシャとは、兄姉同然に育ったという。そうか。叔父が敵になったということは、その一族が丸ごと寝返ったということだ。
「……ならば」
俺も口を開いた。
「戦となれば、商国も力になる」
カイドゥが俺を見つめる。言葉はそこで止まった。
婚姻を通じ、援軍を送る――俺でも思いつくことだが、果たして現実的か。商国にとっては、荒野を通じた遠征となる。
父王は、果たしてそれを是とするか。冬を越えた戦いとなるのである。
そもそも馬国と商国に信頼がなかったからこそ、この度の縁談となったのではなかったか。
「サーシャよ」
カイドゥは、俺達を見つめる。
「婚姻は、延ばす」
巨大な扉が、閉じる音がした。
「長の決定は、絶対だ」
サーシャは、すぐには応えなかった。
「お前を知る者、お前が知る者。それが、我々の土地を守るために戦うのだ」
サーシャの目が細められた。さすが兄だけあって、気質をよく知っている。
「……はい」
「分かれ。名誉を失えば、我々は草原の全てを失うのだ」
兄の目が俺へと向いた。
俺はいったいどんな顔をしていたのだろう。細面の顔は、俺から目をそらした。
「貴殿も王族なら、分かるだろう。互いに背負うものがある」
久遠の蒼穹に。
そう言って、兄は戻っていく。
俺達は表情をなくして、見つめ合った。周りにいた馬国の男達や、フランツィアの仲間も集まってくる。
先に立ち直ったのは、サーシャの方だった。
「いかねば」
どんなに待て、と言おうと思ったか。だが喉は焼き付いたように動かない。
「宮に……」
辛うじて、小さな言葉が出た。
しかしその言葉は、俺自身の無力を吐露したも同然だ。
「宮に、掛け合う。助けを、必ず」
サーシャは頷き、笑みを見せた。
気遣うような笑みだが、ひどく胸の内が冷えた。打算的な家族を説得できるかどうか、未知数なのを彼女は知っている。
無理をするな。そう言っているのだ。
「案ずるな。別に戦うためにだけ、行くわけではない」
「な、なに」
「……わたしも硝石の話を聞いた時、もしやと思っていた。考えがある」
硝石は火薬の原料だ。
サーシャは滑らかに続けた。
「叔父上と科国のことは、驚いたが――」
鳶色の目が、鋭くなった。
「それは本物の結束ではないと思う。馬国は勝負を受けるべきではない。われらに土地など、いずれ移動するものだ。拘るほどのことではない。下がり、下がり、下がりきり、誘い込んで冬を待つ。われらに草原の移動は当たり前でも、科国にとっては砲を引いての遠征だ。半年もすれば、科国の兵はきっと戦を厭う」
俺は息をのんだ。語りはよどみがない。彼女がどんなに考えていたか、よく分かった。
サーシャの目はきらりと閃く。宝石のようだ。
「時間をかければかけるほど、われらは有利になる。遅滞が正しい。戦うな。それを、一族に伝えに行く」
そうだ、と口では同意する。
彼女には自信があるのだ。口伝を通じた、祖父譲りの軍略だ。間違いはあるまい。
だが、俺は不安だった。
正しいことが、正しく行われるのが最上だが、現実はそんなに甘くない。
失敗が多いせいか、俺は嫌というほど知っていた。
つまるところこうだ。
そんなに上手くいくだろうか――?
「兄上と共に進言すれば、父は止まるかも知れない」
サーシャの声は、そこで震えた。
俺は叫ぶように言った。サーシャの肩を掴んでいた。
「止まらなかったら、どうするんだ!」
「その時は……」
サーシャは言いよどんだ。
体がかっと熱くなった。彼女を離すな。そんな気持ちが、嵐みたいに激しい気持ちが、沸き上がる。
「我が君よ」
それでも、彼女は首を振る。
「だめだ」
手袋をした指が俺を押しやった。
「戦えなくなる」
凜々しい馬賊の姫君がそこにいた。
「ザザよ」
「はっ」
眼帯の男が立ち上がった。
「ここにいる三百騎で、まずは馬国の所領へ戻る」
手を伸ばしても、サーシャはそれをすり抜けた。
騎馬が草原に帰っていく。
さらってでも、止めるべきだったのだろう。ただでさえやっかまれる、つまりは邪魔が入りやすい結婚であったのだから。
キーワード解説
〔霊幡〕
遊牧の民は、馬に乗り手の魂が宿ると考え、馬の毛で旗のような飾りを編むことがある。
これは故人であれ、当代の人であれ、一族をアピールする時に用いられた。
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次回は、5月25日(土)更新予定です。