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間章:豆チーズ

 壺が置かれていた。

 一抱えほどの大きさの、なんの変哲もない壺である。しかし緊張を強いられるのはなにゆえか。


「やるか?」


 俺が問うと、サーシャは木のスプーンを取った。

 壺の蓋を開く。

 白い液体が半分ほど満たされていた。


「ふむ。固まっているな」

「…………」


 俺は沈黙した。

 工程は単純だった。

 ヤギと羊の乳を、壺に入れ、固めるための(もと)を入れる。技師エリクによれば、『ある種の凝固剤』とのことだ。

 サーシャ達は凝固剤をマヤスと呼ぶ。今回はそのマヤスに代わって、製塩の副産物を用いていた。

 塩水を干した時に残る、『にがり』である。白い液体を固める効果があるとは、これまたエリクの言だ。


「味は、やっぱりみるのか」


 俺の問いに、サーシャは頷いた。


「当然だ」


 やっぱりか。

 入れた乳には、まだ水気があった。が、上澄み部分はしっかりと固まっている。サーシャは匙で切るようにして、少しだけ皿に盛った。

 サーシャは香りを確かめ、色を確かめ、いざ実食といく。


「…………うむ」


 姫君は睫毛を伏せ、白い手で口を隠した。


「五と五」


 彼女はすぐに水を飲んだ。


「いや……私が二、あなたが八だ」

「待て。それは食べる分担の話か」


 慌てて皿を奪った。


「貸せ! さては、また(、、)不味かったな?」


 切れ長の目で睨まれる。俺も大分耐性がついた。この件では一歩も引かんぞ。


「……未完成ではある」

「まずいってことだろそれは。俺もみる――まっず……!」


 苦い。魚の一番苦いところみたいな味だ。苦労して吐き出すのを堪えて、なんとか飲み込んだ。


「いいかげん、諦めたらどうだ」


 俺は赤髪をかいた。


「やっぱり、にがりで美味いチーズを作るのは、難しいんだろう」


 俺達が問答しているのは、地下の食料庫である。

 目の前にある壺は、彼女が新チーズを実験するためのものだった。

 遊牧民のチーズは、乳を固めるために家畜の内臓を使う。凝固剤マヤスは、母乳だけを飲み、まだ草を食べている子羊や子ヤギの胃袋から作るのだ。

 不足するわけではないが、姫君はとにかく積極的に新しいやり方を試す。


 挑戦はよい。

 荒野の多い商国では、いつでも子羊や子ヤギを潰せる場所ばかりではないのだ。

 もっとも、それで味がよければの話だ。


「技師エリクの言うことは、間違っていなかった」


 サーシャは口を曲げた。意地を張ると、思いの外に頑固だ。


「あなたの街で得られるにがりは、白いものを固める。羊や牛の乳もそうだ」

「固まっても、食べられないほど苦ければ意味がないだろ?」


 実を言うと、それなりに美味く作れたチーズもあった。

 だが安定しない。

 今回は、上澄みのチーズさえ苦かった。


「もう七度目だぞ」

「……諦めるには惜しい。次は、温度を変えてみるか」


 サーシャは納得いかなそうに、匙でちびちびと失敗チーズを皿に取り分けていた。

 皿は二つ。俺も食うのか。

 どうしたものかと悩んでいると、ばあやが呼びに来た。


「フランツ様!」


 給仕の途中だったのだろう。ばあやは布きんを持ったままだった。


「キャラバンが、帰って参りました。それと、今回はお客様もお連れしたとか」

「客だと?」

「はい、なんでも――剣の高原のお方、とか」


 俺とサーシャは、顔を見合わせた。



     ◆



「久遠の蒼穹に」


 そう言って、二人の男は礼をした。

 跪いて、俺達の手を取り、額につける。遊牧の挨拶である。


「サカ族のタムスと申します。こちらは、弟のオルム」


 タムスは日焼けした顔で笑った。髭を生やした、俺よりも一回り歳上の兄弟だった。どちらもよく似ていて、目を離したら分からなくなりそうだ。顎髭が兄タムス、口髭が弟オルムで覚えよう。


「あなた方が剣の高原と呼ぶ場所に、住む者です」

「今は塩が通る道の、草原への入り口と呼ぶべきでしょうか」


 兄弟は交互に話す。

 俺とサーシャも名乗り、椅子を勧めた。


「どうぞ、かけてください」

「かたじけない」


 タムスとオルムは、出されたお茶に目を細める。口火を切ったのは、顎髭のタムスだ。


「馬国の方々から、交易路のお話をお聞きいたしまして。ぜひとも、一度、剣の高原の者としてご挨拶に伺おうと考えておりました」


 咄嗟に言葉が継げなかった。交易路は、遊牧の世界では相当に大きなことらしい。

 兄弟はニコニコ笑っている。


「我々も、高原の民として、よい塩が手に入って助かっております。なぁオルム?」

「はい、兄上。山を降りずとも、良質の塩が手に入るのは素晴らしいことです」


 便利になったということか。

 ここは、胸を張ってもいいよな。


「そうか、いい塩か」


 街の仲間の塩なのだ。彼らの仕事が誉められるのはいい。


「もちろんでございます。馬国の富には遠く及びませぬが、私共も交易路に加わりたく、そのご挨拶にうかがいました」

「そうか! それは、ありがた――」


 隣にいるサーシャの目が、ちょっと細められた。諫められた気がして、俺も言葉を止めた。

 この辺りは微妙なところだ。品物が増えるのもいい。剣の高原も、当然、通らねばならない。しかし儲かる話になってくると、最初は謙虚だった人間も、だんだんと声がでかくなるものだ。

 タムスは穏やかに笑っていた。


「私どもに、東の草原ほどの宝物はございません。が、山の生き物や、鉱物を売ることはできます」


 オルムも続ける。


「井戸も飼い葉も、私どもの高原でお持ちになるがよいでしょう。恐らく荒野に降る前の、最後の補給になりましょうから」


 ようやく、サーシャが口を開いた。


「可能であれば、駅も置きたい」


 駅、と兄弟は顔を見合わせる。

 サーシャは背筋を伸ばし、語りかけた。


「拠点、という程度の意味になる。伝達、伝令、そのための馬。今後は、人や物だけでなく、急ぎの文が行き交うこともあるだろう」


 しばらくして、ようやく兄弟も意図が分かったようだ。


「……急使や、飛脚のための設備ということですか。なぁ、オルム……」

「はい。いや、しかし。なるほど今後は、財物だけでなく情報も行き交うということですか」


 サーシャは頷き、付け加えた。


「わたしの知恵ではない。かつてあった、交易路の知恵だ」

「そこまで、考えておいででしたか」


 兄弟はつかの間、目を閉じた。歌うような言葉がやってくる。


「サカの高原。遙か昔、土の神と風の神が相争い、天は荒れ山削り、平原ができたとされる場所。なぁ弟よ」

「はい兄上」


 二人は揃って頭を下げた。


「青き狼と女鹿の(すえ)よ、お祝い申し上げます。両国の縁で、その場所を通じて、新たなる道ができますことを」


 ちょっと照れくさい。

 交易路についての話が一段落すると、俺達は草原の噂話を聞いた。とある国の名前が出て、つい俺も身を乗り出した。


「科国、か」

「おや。フランツ様は、この国をご存知ですか」

「当然だ。ウチの商売敵さ」


 馬国を挟んだこの国は、陸路だと遠いが、海路を取れば湾を挟んで向かい合う関係にある。ジルヴィア姉上などは、漁場を巡って激しくやりあっているだろう。


「馬国の北の方は、まだあそこから塩を買っているようです」


 兄弟は言う。サーシャは腕を組んだ。


「そうか。科国のそれは、質が悪い。もっと塩を送らねばな」


 馬国の北は、サーシャの兄や、従兄弟がいる所だったはずだ。塩の道は、まだ延びる余地があるということか。


「さて、そろそろ」


 話が途切れた頃、兄タムスは顎髭をさすり、弟になにか指示を出した。するとオルムは、外から一抱え程の袋を持って来る。


「これは?」


 兄弟は日に焼けた手で、麻袋の中身を取り出した。


「マメです。私どもには、長い縁を願い、マメを送る習わしがあります」


 初めて見るマメだった。小指の先くらいの大きさで、ちょっと青臭い匂いがする。


「私共は冬を越えるときに、よく備蓄をしております。そのまま食べてもいいですし、水をかけると一月かからず野菜になりますでな」


 思わず聞き返した。


「へ。野菜? これが?」

「水をかけ、暗所で待てば、そうなるのです。陽の光はいりません。これで冬の病が、大分に減りました」


 腕を組んで考えて込んでしまった。

 こんな植物があることなど、今の今まで知らなかった。恐らく、山間の厳しい冬に籠もるとき、このマメの色々な使い道が試されたのだろうか。


「ふむ、面白い」


 サーシャは調理法、利用法を尋ねていく。



     ◆


 サーシャは早速、実践した。

 目の前には、壺に入った白い液体がある。

 マメをすり潰し、水を加えて煮詰め、布でこす――そうして乳のごとく白い汁にして、飲むというやり方である。家畜の乳の出が悪いとき、あるいは冬場でその味が恋しいとき、高原の民はこいつで味覚を誤魔化すらしい。

 実際、滋味もあるようだ。


「ふむ。フランツよ、まるで乳のようだな」

「うん、元はマメだというのにな」

「なるほど……白いという点は、同じか」


 サーシャが何度も頷いている。

 はっとした。

 にがりは白い食べ物を固めるというではないか。


「待て、やめろよ」

「なんだフランツ」


 俺は言いつのった。

 サーシャは壺を手に持って、大事そうに抱える。これは止めねばならん。


「それで、またチーズみたいなものを作るつもりだろう」


 サーシャは首を傾げた。悪戯っぽい笑みが閃く。


「だとして、なんだ」

「ヤギの乳でもダメだったんだ。そんな偽物で、美味いものができるわけがないだろう!」


 その瞬間、姫君は口を結んだ。俺は戦略を誤ったことを悟った。

 負けず嫌いに、火を付けてしまったらしい。


「試さねばわからぬ」


 サーシャは、マメをすり潰して加水したもの――『豆乳』を持って、地下食料庫へ歩いて行く。


「やめろ!」

「今度は大丈夫だ」

「その自信はどこから来る」

「これでも食べていろ」

「不味いチーズを寄越すな」


 俺は押し切られた。


 以降、たびたび食卓に『豆チーズ』が登るようになったのは、このような経緯である。伴う試行錯誤、主として錯誤については、俺達の名誉にかけ割愛させていただきたい。


キーワード解説


豆腐とうふ


 海水の中に含まれるミネラル、とりわけマグネシウムはタンパク質を凝固させる性質がある。

 苦汁にがりの苦みは、このマグネシウムによるものである。

 そして、大豆を潰し・煮詰め・濾した液――豆乳に、この天然の凝固剤を投入すると、とても馴染み深い食品が出来上がる。

 なお、山間に住む人は、苦みのある悪質な塩を買い、軒下で寝かせて、豆腐作りのための苦汁を抽出した。

 塩は空気中の水分を集める作用(潮解)があり、質の悪い塩を寝かせておくと、苦汁の主成分であるマグネシウムが水と一緒に滴り落ちるためである。


――――――――――



お読みいただきありがとうございます。

次回から、最終章でございます。

もうしばらくお付き合いいただければ幸いです。


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