3-3:悪魔の井戸
フランツィアへ馬を駆けさせる。その内、空にすうと黒っぽい煙が上がってきた。
緊急事態の狼煙である。
鐘の音に気づけたのは僥倖だが、塩鉱はフランツィアの南側。つまり、北上してきた俺達とは反対側だ。到着に時間がかかるのは、覚悟せねばなるまい。
「フランツ様!」
街へ戻ると、技師のエリクが駆け寄ってきた。血色の悪い顔が、今はさらに青い。
どうやら俺に代わって、市門で采配を振るっていたようだ。
「すまん。まずい事態か」
「それはもう」
市門にはいつも以上に人が多い。誰も彼も、やかましく議論している。
怪我人が出たのとは、少し違う雰囲気だ。人が倒れていれば、うるさく議論する余裕などない。
エリクは手を口に当てて、声を潜める。
「悪魔の井戸です」
やはり、という気持ちが来た。
「……出たか」
「新しい鉱区を開発しておりましたので。広く区画を掘って一度も出ない、ということはないでしょう」
「ううむ」
思わず唸ってしまった。
「サーシャ」
呼びかけて、はたと彼女が側にいないことに気付く。彼女も彼女で、遊牧の民から報告を受けていた。
しかし、フランツィアの人間でなければ、事態を説明するのは難しいだろう。
馬国の人と、フランツィアの人、それぞれの言葉でわめかれて理解するのは大したものだが。
サーシャも結局腕を組み、俺達へ馬を寄せた。
「分からん。前から気になっていたが、その悪魔の井戸とは何なのだ?」
「見た方が早い」
俺は手綱を取り直した。
「来てみるか。塩鉱まで飛ばすぞ」
◆
馬を大いに駆けさせて、鐘一つ分――サーシャにとっての三ユルほどで、俺達は採掘場へ辿り着いた。
陽はだいぶ傾いていた。
塩鉱では、区画に『鉱区』という名前を付けている。悪魔の井戸が見つかったのは、五つ目の鉱区。馬国への塩を見込んで、新たに掘り返している鉱区だった。
近づくと、水が腐ったような、いやな臭いがする。
俺達が下馬すると、馬は嫌がるように鳴いた。
「すでに気分を悪くして、倒れた作業者もいるのです」
エリクの言葉に、危機感を強める。
「そいつは……強烈だな」
布で鼻を覆った。
フランツィアの労働者には、信心深い者も多い。突然の災害に、彼らがパニックを起こさないようになだめるのも、重要なことだった。
土地は神様のもの。悪いことが起こるのは、フランツィアに何か不届きがあったのだ――元からこの地に住んでいる人ほど、そのように考える。
「作業は全て中止」
指示を飛ばした。
「各自で、悪魔を吸って倒れた者がいないか、よく注意してくれ。穴の端で倒れていると、陰になって見えんぞ」
俺はすべきことを知っている。
街の長として、そういう振る舞いをせねばならん。
「はい。すでに、鉱区の長から伝達済みですが……」
エリクが尋ねてくる。技師もまた、鼻と口を布で守っていた。下がった眉が、いかにこの問題が深いかだ。
「この鉱区はどうします?」
「当面、封鎖だ」
永遠にかもしれないが。
一通り指示を確認した後、ため息が漏れた。
製塩の需要はうなぎ登りだ。採掘ができないのは痛い。
『悪魔の井戸』という名前こそ、フランツィアの労働者がいかにこれを恐れているかだった。
この問題が起きると、塩を削る鉱夫が集まりにくくなる。地面に悪魔がいると、半ば信じてしまうのだ。かくいう俺も、地面からタチの悪い何かが出たところになど、あまり近寄りたくはない。
「どうしたもんかな」
周囲を見渡す。明らかに怯えている者もいた。
地面に悪魔が棲んでいる。鼻を刺す臭いは、悪魔の吐息に他ならぬ。
そんな思い込みが、悪魔の井戸の語源だ。
「フランツ」
サーシャが尋ねた。口に布を当てているのは、今は日焼け避け以上の意味があろう。
「察しがついた。井戸の悪魔とは、採掘によって生じる悪い空気のことだな?」
言い当てられて驚いた。姫君の知識は伊達ではない。
「鉱山で同じことが起こると、聞いたことがあるぞ」
「……フランツ様。どうしましょ。説明した方がよいですよね?」
エリクに、俺は頷いた。技師は口元の布を直す。
「仰るとおり。全ては、採掘の時に発される、空気のことでございます」
技師は身振りで、地面に穴を掘る仕草をした。
「塩鉱を探す時、地面に向けて穴を穿ちます。これを試掘といいます。地面の固さや、引っかかってくる土から、そこに塩の鉱脈があるかどうかを探るのです」
「井戸掘りのようなものか?」
「そうですね。こいつは希に、深く深く掘られた、太古の縦穴に通ずることがあるのです」
サーシャは眉をひそめる。
「地面の下に、穴?」
「はい。遙か昔に掘られて、塞がれていたものでしょう」
奇しくも、今日見てきた遺跡のようなものだった。太古の生活や製塩の跡が、この地にはある。
「そんな小さな穴から、太古の悪い空気が噴き出てくる。これが悪魔の井戸。どれほどの深さの古穴と通じているのかは、定かでありませんが」
「ふむ。話は興味深いな」
「おそらくは、太古の製塩事業の跡だと思います」
エリクは指を立てる。地獄の使者のような顔つきも、困った目で、今は迫力がマシに見えた。
「かつて、地下水を汲み上げていたのだと思うのですよ。今のフランツィアはオアシスとして湧き出てくる水を使ってますが、昔は、地中から直接地下水を汲み上げていたのでしょう。地下水を天日にさらして、乾かせば、塩が得られますからね」
サーシャは感心したようだ。
「先人は、塩水を得る井戸を掘ったのか」
「はい。深い井戸ほど、悪魔が棲みます。封ぜられている間に、有毒な空気が溜まるのです。ま、本当に『悪魔』とやらがいるのか、確かめた者はいませんが」
見張り台で乱打される鐘の音が、まだ聞こえる。
いよいよ住民も心配するだろう。
「エリク。穴は塞げそうか?」
「今、粘土と石こうを運ばせています」
「よし」
被害はなんとか収まりそうだった。ほっと安堵の息をつく。
引きこもり生活になかなか入れなかったのは、たびたびこの話が持ち上がったためでもある。緊急事態で、まさか昼寝をしていれば人格を疑われてしまう。
製塩事業を安定させるにあたり、この問題は解決しなければいけないことだった。
井戸が見つかる度、製塩は怖いというイメージが生まれてしまう。
フランツィアの人々は、迷信深いのだ。
「……なるほど」
サーシャがぽつりと言った。
「悪霊の退治はしないのか?」
「へ」
思わず声をあげてしまった。
「遠い国の話だが、似たような話がある。塩の道で運ばれてきた文献に、鉱山の話や、似たような塩鉱の話があったと思う」
鳶色の瞳はこちらを見ている。姫君は、本気のようだ。
「……退治か」
考え込んでしまった。塩鉱の作業者達は、おっかなびっくり、荷車を引いて穴を塞ぐ作業を始める。
正体も分からないし、対処の仕方もわからない。今までは、悪霊を追い払うと信じて、塩を混ぜた粘土で穴を塞ぐのがせいぜいだ。
「……この臭いの正体が分かるのか?」
「おそらく、火がつくと思う」
サーシャの言葉に、幾人かの男が慌ててつけかけた松明を消した。
「……そうか」
塩の道が運んできたのは、なにも富だけではない。遠く離れた街の技術も、フランツィアを訪れるようになっていた。
俺達が知らなくても、サーシャは知っている。
新しい人が街を訪れているのだ。
互いに知恵を出し合えば、分かることもあるかもしれない。
「もう一度、調べる価値はあるか」
悪魔退治である。
キーワード解説
〔掘削〕
掘削とは、土砂・岩石を掘り取ること。
塩水を得るための掘削は、機械がなくても、非常に深く掘り進むことができた。
木材で櫓をくみ上げ、重石を吊り上げ、それでもって掘削用のロッドを上から打ち付ける。
この打撃式掘削をとれば、数年で百メートル近く掘り進むこともできた。さらに時間をかけ、千メートル深くまで塩水を探した例もある。
かつてのフランツィアの人々は、とても高度な井戸の技術を持っていたのだろう。
しかし、そんな深くまで掘ると、何が出るかというと……。
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次回は、5月5日(日)に投稿します。
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