1-3:製塩都市フランツィア
宮は寒かった。実際に冷えていたのか、それとも周りの視線がそう感じさせたのかは、分からない。
確かなのは、あの時の俺は、本当に寒いと感じていたこと。そして、震えていたことだ。
――フランツ。
商国の議場は、儀式じみた形態をしている。最も高い位置に父王の座があり、その左右に息子と娘が並ぶ。席順は功と職位に準じる。
報告、進言があれば、自らの席を離れ、父王の前にでなければならない。
参加者に囲まれ、いやでも注目を浴びる位置だ。
父王は遙かな壇上から、俺を見下ろした。
――お前、失敗をしたな。
宮の天井が、揺らいだ。
頭は真っ白だった。見上げた天井も白い。
遠い失敗の記憶。
仲間に責任が及ばなかったのが、せめてもの慰めか。みな栄達しているといいが。
塩のように白い天井が、やがて同じくらい白い、女の顔になった。
――貴様の嫁だ。
女は、そう言って微笑の気配を漂わせる。
「うぬぬぬぬぬ」
うなされていると、白い顔が唐突に明確な像を結んだ。
「なにがうぬぬですか」
血色の悪い美形が、俺を覗き込んでいた。
「エリクか」
「いかにも」
手を突くと、柔らかい。ここは屋敷のベッドの上だ。
赤髪を掴むと、頭がズキリとした。
「とっくに夜が明けました」
「……頭が痛い」
「強い酒など飲むからです」
「……さ、酒?」
なにか、昨日、あった気がする。
ぼやぼやとした頭が、だんだんと巡ってきた。
「……思い出してきた」
フランツィアからの逃亡と、失敗。
門番のレッド、飲み仲間のブルーとメリッサ、そして庭師のロブじいさん。彼らが後生大事に手にしていた酒は、騎馬民族に取り上げられ、交換されていた。
馬の乳から作るという、馬乳酒である。
フランツィアに戻った後、俺は賞味を試みた。甘口で、飲みやすい。度を超してチビチビやってしまった結果、見事に報復を受けたというわけだ。
「酒で、現実は消えません。なくなるのは判断力でございます」
「た、たまには的を射たことを言う……」
「なんの。百発百中でございます」
エリクが、ばっとカーテンを開けた。
眩しい。
ベッドから体を引きはがし、窓へ向かう。
丘の上にある我が屋敷からは、街全体が見下ろせた。
フランツィアの製塩は、すでに朝一番を終えている。各所から、塩水を炊きあげる白い湯気が立ち上っていた。
塩を上等下等に分類する市場も、賑わっている。ラクダの列が、岩塩の板や、塩袋を吊って市門を出入りしているのが見えた。
そして、街の外には――。
ああ、すべて夢だったらいいのに!
市壁を囲うように、馬賊の旗が翻っている。
「朝が来てしまった……!」
新しい一日。
それは『結婚』という重すぎる現実と向かい合う日に他ならぬ。
「エリク」
俺は傍らの男に目を向けた。
「説明してもらえるのだろうな?」
宮廷技師エリク。またの名を、ゴシップの錬金術師。
俺は悪友に、事態の詳細を迫った。
◆
「意外に思われるかもしれませんが、こいつは気合いの入った縁談です」
気合いのない縁談などあるのか。
そう問いたかったが、俺は賢明にも堪えた。
身支度を調えながら、エリクの話を聞く。
「姫様の馬国は、広大な版図を誇ります。遙か東からやってきて、季節風に煽られた野火のように、大陸を征服したと」
「恐るべき国だ」
と、俺は衣装棚から土色の外套を取った。
「ですが、困ったことが一つ」
エリクは指を立てた。元が美形であるため、血色の悪いにんまり顔はなおのこと不気味だ。
たまに吸血鬼でないかと思う。
「馬国が分捕った領土で、西の側、つまり我々の近くは、とんと塩が出ないとのことです」
「それは聞いたことがある。でも別のところから買っているはずだろう」
塩がないと人間は生きてゆけない。家畜もそうだ。
食べ物を保存するにも、料理に味を付けるにも、パンを膨らませるにも、塩はいる。
仮にも半世紀は土地を運営していたのだから、どこかから塩を買っていたはずだ。
「買っているはずですが、足りなくなったと聞いています。質も十分でないと」
「質が悪い? 塩のか」
「ある時から、味がおかしくなったと聞いています。まさか灰を混ぜたとは思いませんが、馬や羊に塩を舐めさせられないとあっては、一大事でございましょう」
少し妙だった。
そんな塩を売ることは、取引関係のすべてを破壊しかねない。
「馬国は、あなたの塩の都、フランツィアに目をつけました。草原に塩を持ち込み、交易をしようというわけです」
エリクは屋敷の扉を開ける。
陽光が目に痛かった。
「直接、姫様からうかがいました。真実間違いござりません」
「……エリク。そんな姫君にどう取り入った?」
振り返って笑う顔は、まさに吸血鬼だった。
「秘密です」
「俺を婿に推したな」
「ありのまま申し上げたまで」
手が伸びてきて、日よけのフードを直してくれた。
「うふふ。さぁ、午前の見回りに行きましょう? 今日はちょっと顔を隠して下さいね。ご婦人方も、ゴシップが大好きなんですから」
釈然としないものを抱えながらも、俺は屋敷を出た。
丘を降り、フランツィアを歩く。
この見回りは、俺の数少ない日課であった。
一日に一回でも街に顔を見せると、民は好印象を持つ。実際はただぐるっと歩くだけなのだが、顔を見せた方がなにかと好かれるということだ。
五年の引きこもりで、ぐうたらしながらも人望をつなぐ技術が研ぎ澄まされた。
寄生虫の極意とは駆除されないことにある。
「また下らないこと考えてますね」
「……実際、見回りはいる」
家々の出口には、重たい岩塩の板や、塩詰め袋が無造作に積まれている。十歳になろうかという子供が、今まさにその一つを持ち上げ、座ったラクダに積み始めた。
「見ろ。ああいうのが危なっかしい」
「やれやれ。あなたも素直じゃないよなぁ」
風がない日だったので、土埃も少なく、空は青く澄んでいた。
市場の方へ曲がると、喧噪とともに、気温が高まる。人が増えるせいか。
汗を拭うと、どこからか「あっ」と声がした。ご婦人が、塩の入った袋をどさりと落とす。頭に巻いた日よけの布を持ち上げて、俺を指していた。
「しまった!」
どうやら汗を払った時に、顔が見えてしまったらしい。
「フランツ様!」
ご婦人方の、無数の目。いっせいに輝いて俺を見た。
「ご結婚されたというのは、本当ですか!」
堰を切ったように人が押し寄せた。
「なんで黙っていたのですか?」
「どんな方なのですが?」
「いつお会いできるのですか?」
期待と不安が入り交じった視線。製塩都市のご婦人方は、ゴシップに飢えている。まるで水に群がるラクダだ。比喩ではない。皆さん、ラクダよりもタフである。
「落ち着け。まだ、その、正式なものじゃない」
溺れるように、逃げる。
いつもあっという間に通り抜けてしまう道も、全然動けない。
エリクが割って入った。
「はいはい、そこまで! お相手は、お隣の馬国の姫君でございます。が、かの国には慣習がございます。婚姻は夫婦揃って族長の目通りを交わすことが条件なのですが、それにはまだ半年ほどかかるのですよ」
半年、と周りはどよめく。
俺はそれに乗っかった。
「なにしろ、族長とは草原の反対側にいるそうだからな」
半年かけて、ゆっくりと牧草地を移動してくるらしい。
先日、眼帯の男が釘を刺したのも同じ意味だろう。サーシャはフランツィアで暮らすことになるが、縁はまだ仮留めにすぎず、早まった真似は許されんということだ。
親方連中が、遠くから声を張ってきた。
「なるほど! 国同士のご結婚というのは、我々には想像もできない苦労があるものですなぁ!」
男達は、親指で道の先を示した。
『女房が仕事にならんから早く行ってください』と、目で訴えている。
ありがたいので、そのままササッと場を外した。次からはフードがずれないように気をつけよう。
「……半年、逃げ道を考える猶予があるなどと、よもや考えてないでしょうな?」
エリクが追いついてきた。
早足で動きながら、口の端をいやらしく歪める。
「さてな?」
とはいえ、この場にサーシャ本人がいなくてよかった。
噂の嫁本人がいたら、騒ぎはこんなものじゃすまん。
安心していたら、つと服の袖を引かれた。