3-1:遠乗り
「明日の朝、少し遠出しないか」
サーシャにそう言われたのは、夕食の時だった。
だいぶ陽が長くなり、ランプの灯りを少なくしても、互いの顔がはっきり見える。
サーシャは食器で肉を切りながら、俺にそう持ちかけた。
「遠出?」
俺はつまみかけた塩辛いチーズを、皿に戻した。サーシャはくすりと笑う。
「そうだ」
「どこまでだ?」
「それは明かせない。だが距離は――そうだな、馬で六ユル……鐘が二つ鳴るほどで足りるだろう」
俺は目を瞬かせた。朝に出れば、到着すると昼頃ということか。
葡萄酒を飲みかけて、やめる。朝が早いとすれば、控えるが得策だろう。本来、あまり強い方ではないのだ。
「構わないが、少し急だな」
「見せたいものができたのでな」
どうしたのだろう。
悪い話ではなさそうなのは、どこか得意げな面持ちで分かるのだが。
「明日はおそらく晴れる。気温も高くはなるまい」
遊牧の民というせいか、サーシャはよく天気の話をした。めったにない雨を言い当てたことがあり、民の中では謎めいた魅力がますます高まっているという。
サーシャは続けた。
「明日を逃せば、見せる機会はずっと遠くになる」
「ああ。夏の荒野は、暑いしな」
炎天下での外出は極力控えた方がいい。太陽の恵みも過剰だと、人間には酷すぎる。
塩水を干上がらせる天日製塩は、暑い季節だと干す時間が減ってよいのだが。
「なら、伴をつけようか」
「ん」
肉を切り取る白い手が、止まった。
食事の時にはいつも思うが、遊牧の民というわりに、彼女は食器の使い方が上手い。おそらくはどこかで手ほどきを受けたはずだが、それはまだ聞けずにいた。
「……必要か?」
「そりゃ」
「わたし達の調べでは、近くには狼もおらぬし、いざとなれば、われらの一族も住んでいる。危険はないのだが」
あ、と思った。ここまで言われて気づかぬほど、俺も馬鹿ではない。
姉上にもこの辺りに釘を刺されたのではなかったか。
にやける口元を押さえて、慌てて取り繕った。
「いや、二人で出よう」
◆
翌朝、馬房でサーシャと合流した。
サーシャは、赤土色の長衣を帯で締め、頭には王冠型の帽子。日差し避けのためか、薄手の布で後頭部を隠している。
手袋や、口元の布も備えた、実用一点張りの装いである。
俺も土色のローブに、埃避けの布を顔に巻くので、似たようなものだが。
「フランツよ。水と食料は十分にな」
しかし逢い引きというよりは、遠征である。
給仕に用向きを伝えると、すぐに簡単な食事を用意してくれた。
カリッと焼いたパンにオリーブオイルを塗り、豚肉や羊肉、そして魚を挟んだもの。剣の高原から、塩水に漬けて運んできたチーズも、ついでとばかりに持たされた。水はレモンを垂らして、水筒にたっぷりと。
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
意気揚々とした給仕と執事に見送られ、俺達は馬を走らせた。
砂避けの市壁を抜け、荒野へ。
振り返れば、製塩の煙が夏の青空へ登っていく。心なしか勢いがいいのは、まさに街全体が上り調子だからか。
朝日に照らされながら、俺達は馬を急がせる。
「速くなった」
サーシャは並走しつつ、そう褒めてくれた。
「ふん。俺もあれだけ速駆けを仕込まれればな」
もうちょっとやそっとで、遅れることはない。今までも馬で移動することはあったが、どうやら遅い俺に合わせてくれていたようなのだ。
「そろそろ目的地を言おう」
街の丘が霞んできた頃、サーシャは手綱を引いた。
「この先に遺跡を見つけた」
さすがに驚いた。
「遺跡?」
「詳しくはそこで話す」
さらに駆けると、地平線が緑がかってきた。川が近くなった証だ。
心なしか、空気の熱さとほこりっぽさが、和らいだ気がする。
「あの辺りの牧草地を調べている時に、見つけた」
サーシャは手袋をした手で、緑を指す。
遊牧の民がかつていた場所だろう。
商国には各地に遊牧民がいた。が、商国は交易の国だ。季節と共に住居を転々とする生活から、財をなした者ほど、都市に居を移す。
フランツィアにも遊牧生活は僅かに残っていたが、製塩が始まると、みんなやめてしまった。
「こっちだ」
サーシャは手綱を操り、川沿いに北上するルートを通る。
何かを目印にしたのかと思ったら、地面に石像が倒れていた。半分土に埋もれているが、目の細い人の像だ。
「そいつの正体も、行けば分かる」
サーシャに呼ばれて、慌てて追った。
ペースが上がる。
駆ける。馬に乗って、駆ける。
黒い後ろ髪が、馬の尾のように弾んでいた。
久しぶりに街から離れると、気づくことがある。空が広いのだ。城壁も壁もなく、人と馬があるだけだ。
「サーシャ! 地面の穴に、気をつけろよ!」
そんな忠告など無用だろう。現に彼女は目で笑い、無言で前を指した。
心配より、まずは追いついてみろということか。
「ついたぞ」
姫君が口元の布を取ると、艶やかな唇は笑っていた。
なお、俺は最終的に汗びっしょりになった。
「……よく考えたら」
俺は赤髪をかきあげ、むっつりとした。
「俺が荷物を持っているのだから、お前は手加減をするべきだったのでは」
「ふぅん? そうだったか?」
悪戯っぽく笑われると、それ以上押せないのが弱みである。
「見よ」
サーシャは、一帯の窪地を示すように手を広げた。
どうだ、とでも言いたげである。尻尾があったら、馬のように振っているだろう。
「……すごいな、これは」
遠目から見れば、それは荒野の岩場としか見えない。川沿いの、短い草に囲まれた場所だ。何もかもが、砂と岩でできている。
だが馬から降り、手で触れてみれば。紛れもなく、砕けた柱であり、壁であり、放棄された石像だった。
ここに街があったのだ。
「本当に、遺跡だ」
「この辺りを、わたしの仲間が見て回っていた。その時、この場所を見つけた。川も近いし、かつての交易路の――そうだな、荷揚げのための街だったのだろう」
俺は呆けたような顔をしていただろう。街からほんの少しの場所に、こんな遺跡があったとは。
慌てて持ってきた地図を開いた。
「……地図にもない」
「感動は地図にのらない。かつて土地にいたものは、ここを忘れたか、見つけても、載せる価値がないと思ったのだろうさ」
静かだけれど、耳を澄ませば太古の喧噪が聞こえてきそうだ。
柱の陰から、当時の人がひょっこりと顔を出しそうな気がする。
「以前、話をしただろう? ここは、太古の交易路の一部だった」
「あ。じゃ、ここが……」
「そうだ」
ようやく気付いた。サーシャは得意げに胸を張った。
彼女は、自分の話の、証を見せたかったのだろう。
「側女や乳母から、さまざまな物語を聞いた。この塩の道の物語も、祖父の話も」
彼女の言葉に興味を惹かれた。騒がしい時期が長すぎて、そういえば互いの昔の話など、詳しくできていない。
「君の話を聞かせてくれないか」
いいとも、とサーシャは白い頬で笑んだ。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、5月1日(水)に投稿予定です。