2-19:ジルヴィア
サーシャの馬が前を颯爽と駆けていく。陽の光が馬体を輝かせた。
その遙か先には、俺達から逃げる馬車。土埃を立てて、全力逃走の構えである。
西日のせいか、どちらもひどく眩しかった。
「はっはっ」
愛馬と共に、息が上がる。
「くそっ」
みんな、なんであんなに速いんだ。
サーシャも。この高騰を仕掛けた、姉上も。他の家族も。
本当に速い者には、才能なくば追いつけないのだ。こっちも必死に走っているのに。
「フランツ!」
前から声が飛んできた。
「はみを無理に引っぱるな」
「な、なに」
「荒れ地、不整地に強い、よい馬だ。信じて任せ、飛んでみろ!」
飛ぶ、と首をひねる。
力を抜いた瞬間、愛馬ゲイルはぐんと加速した。
本当に飛んだようだ。
鐙に足を据え、腰を落とす。しがみつくような騎乗だが、かえって速い。
今までの小刻みな足捌きではない。初めて見るような、伸び伸びとした歩幅になった。
「見たか」
サーシャは笑っていた。手綱から手を離し、前を指す。
「すぐに追いつくぞ!」
周りを見てぎょっとした。いつの間にか、俺達の周囲には馬蹄の音が満ちていた。
馬賊――いや、馬国の大群が、逃げ去る馬車を一緒に追撃しているのだ。なお俺もその一味と化している。
「さ、サーシャ! 馬車を止めてどうする気だ?」
「事情を聞く! 交易路を邪魔した理由をな!」
馬車の一団から、御者の悲鳴が聞こえる。
「穏便にやるさ!」
穏便とは?
「わたしは、説得の作法も学んだ!」
「と、というとっ」
「まず包囲する! しかる後、抵抗を止め話し合うよう告げるのだ!」
俺は論理的に考えた。
それは包囲殲滅前の降伏勧告ではないのか。
「そういうところが、馬賊なのだ!」
哀れな馬車は、ついに馬賊に囲まれた。
「止まれ!」
「止まれ!」
馬車が次々と道ばたに停止した。
多勢に無勢と観念したのだろう。元々、馬車が騎兵から逃げること自体に無理がある。
商会に持ちかけられれば、大問題に発展する案件だった。
こちらも塩の値段をつり上げられては、民の生活が成り立たない。やくざなやり方をした同士、これは手打ちにしてもらうよう計らうしかないだろう。
「来るなっ来るなぁっ」
停まった馬車からは、女の声が聞こえてくる。
……女?
「ふぎゃっ」
ついに運からも見放されたか。女が間抜けな悲鳴をあげて、荷台から転げ落ちた。
馬で囲いを押しのけ、近寄ると、正体が露わになっていく。
なぜだか寒気がした。
「ま、まさか」
「フランツ、気をつけろ」
サーシャが警戒したのは、遠目にも、危険物特有の緊張を感じたからだろう。俺もそうだ。
地面でうつぶせに伸びた、見覚えのある姿。
「フランツ。これは?」
「……あー」
なるほど。
想定しておくべきだった。買い占めだの、逃走だの、この人が人任せにするはずはない。自分で何でも確認する、商売の鬼なのだ。
「……塩、塩、塩」
ぽつり。地面に伏した顔から、そんな言葉が漏れてくる。
「雪のように白くて、砂漠の砂よりもさらさらな、私の塩……」
ぐすっ、と涙をすする音。
「黒いルビーみたいな卵が、私の卵の塩漬けが……! やだやだやだぁ……!」
端的に言う。
見るに堪えない。実の姉であれば、なおさらのことだ。
「あー。ジルヴィア、姉上?」
問うと、俯せから顔が上向いた。
「……あれ」
小柄な影が立ち上がった。
目を見張るような、鮮やかな金髪。
それが内側にくるくると丸まり、見た目は愛らしい人形のようだ。大きな水色の目は何度か瞬き、俺を認めると、くりっと動いた。
埃を払って立ち上がり、精一杯に背を伸ばす。それでも身長は、サーシャや俺の肩にも満たないだろう。
涙を拭い、落ちたときに赤くなったおでこをさすった。
「奇遇ね、フランツちゃん」
ため息が落ちそうだ。一応、下馬する。姉を前にして馬を降りるくらいの分別はある。
「待て、フランツ」
サーシャが馬上で眉をひそめた。
「姉上? では、この方が」
「うん? ん、ん~?」
サーシャに、姉上は目を細めた。楽しげで、少し意地が悪い、大人の表情である。
「あなたが、サーシャね」
「そのとおりだが」
「ふふ~ん? なるほど」
彼女は今度こそ絶無の胸を張り、一礼した。
「初めまして。私がジルヴィアよ」
仰々しい前置きがないところが、この人らしい。
青い瞳が俺を見る。
「あなたの夫の、姉」
あね、とサーシャの口が動いた。
俺を見やる。頷く。妹の間違いではない。
御年二三才の、立派な姉である。
この醜態をどうしてなかったことにできるのか。瞬間的に記憶喪失にでもなっているのだろうか。
「失礼を」
サーシャも馬を下り、腰を折った。貴婦人のお辞儀は幾通りかあるが、サーシャが失敗したことはなかった。
紹介が済んだところで、俺は問わねばならない。
「……姉上。なぜ、塩の買い占めなど?」
「べつに」
姉上は苦笑した。愛らしい顔が、才に相応しい酷薄な色を帯びる。
「できそうだったから、試してみたのよ」
拘らない口調に、胸の辺りが締め付けられる。
なんでもないことなのだ。
少なくとも、彼女達、本物の王族にとっては。
引きこもり王子とは違う、才能溢れる者達だから。
時に商いは、互いに足を引っ張り、出し抜き合う。
類い希なる才能で行われる姉弟の戦いは、俺には理解できない。宮から逃げ出したのは、彼らの戦いについていけなかったからだ。
「姉上」
俺は勇気を奮い起こした。
「塩は必需品です。買い占めは、民の恨みを買いますよ」
「別の理由もあるわ」
「別の?」
「私は、いくらでも塩を使う。だから、買いだめしておこうと思ったのよ。使うから買うのは、正当な理由でしょう」
「それは……」
口ごもってしまった。
姉上ジルヴィアは、主に魚を交易品として取り扱っている。
「軍港や、教会は、商国に魚を勧めている。漁師はそのまま水夫になれるし、坊主は肉が嫌いだからね」
ね、フランツちゃん。
姉上は言った。
「この要請が私達をどれだけ利してきたか、分からないあなたじゃないでしょう。私達をないがしろにして、外に塩を売るなんて、そんなのってないわ?」
魚の保存には塩がいる。また、毎日の食品については、美味ければ美味いほどいいというのが人間というものだ。
うろこと一緒に魚を漬けるか。塩の量は。魚の産地は。肉の切り方は。
千差万別の料理法が生まれ、いずれにもとにかく塩を使う。
姉上はふわふわの髪をいじり、口を曲げた。
「まだはっきりとはしないけど、今年は大群が来る気がするのよね~」
豊漁になれば、塩を使う量は増える。
姉上が塩を買い占めた理由の一つは、値をつり上げての儲けもあるが、実際に必要だったのだろう。
「……塩はわたしたちも使います」
サーシャが俺の前に出た。
「買い占めは、われらの交易にも影響します。手仕舞いし、今後は控えるのがよいでしょう」
「あるところから奪うなんてのは、あなたの国もやってきたじゃない? 商いは、奪い合いでもあるのよ」
かつて、俺は逃げ出した。
己の失敗から。責任から。
しかし、今は逃げられない。いや、逃げないと決めたのだ。
少なくとも、しばらくは。
俺は、さらにサーシャの前に立った。
「姉上に、迷惑はかけません」
出てきた俺に、姉上は驚いた顔をした。
「増産も、馬国へ売る量も、きちんと考えています。サーシャに、塩を売らせてください」
「あら、なに? フランツちゃんが私に意見するなんて――」
「姉上」
怖じけずに、見つめ返す。ここで退くな。顎を引いて、姉を見た。
「……ふん」
姉上は小さい鼻を鳴らした。
「分かってるわよ。こんなに脅しつけられたら、もう誰もやりたがらないだろうしね」
姉は笑った。ドングリを隠した、性の悪いリスのようだ。
「でも私を恨むのは筋違いよ? 誰でも、きっとやったから。できたから。私が元締めで、むしろよかったわね?」
それは痛いところだった。姉上がやらなくても、誰かがやっただろうという気はしていた。
案外、姉上が一番マシだったかもしれない。昔から、どこか俺には甘い人だった。
「馬国の姫」
「はい」
「この王子、頼りなくて苦労するでしょう」
サーシャはちょっと黙る。そこは嘘でも反論して欲しい。
彼女は、口元に白い手を当てた。
「はい。しかし、味の濃い男です」
姉上はくくっと笑った。
「……へぇ、あのフランツちゃんがねぇ」
思い出した。いや、思い出さぬようにしていた。
俺は、今回と同じ塩の高騰を起こして、宮から逃げ出した。俺の無能を責めた中には、姉上もいた。思えばそれが一番堪えたかもしれない。
「姉上」
「ん」
「あ、あの時は、申し訳ありませんでした」
姉上は、表情を消した。愛くるしい顔の無表情ほど恐ろしいものはない。
きゅうと胃が縮み上がったが、五年越しの謝罪にやってきたのは、
「えいっ」
砂糖菓子のような拳であった。ぽこん、と腹に小さな痛み。
「正式な結婚式には、呼びなさいよねっ」
姉上は、次いで小声で言った。
「フランツちゃん」
「へ」
「あまり嫁さんを放っておいちゃダメよ?」
まったく嵐のような人だ。
俺達をさんざん冷やめかして、姉は去って行った。
礼なのか詫びなのか、交易路に魚の塩漬けが流れてくるようになったことは、特記しておくべきだろう。夏に流れる汗を、塩漬け魚の塩分が大分助けてくれた。
買い占めた塩は、姉の手仕舞いと共に瞬く間に値が戻り、塩漬けの魚はむしろ安くなった。
人々も、美味い魚が安いとあっては、むしろ「相場で面白いものが見れた」と手を打って喜ぶ。多少の損を被らせても、その後の立ち回りが上手ければ、劇団に講演料を払ったようなものになるということだ。
塩の高騰劇は、あの姉にとって豊漁と安売りの宣伝になったということでもある。
この辺をうまくやることもまた――才能なのだろう。
才ない身としては、せめて地道にやるしかない。
◆
フランツィアを出発し、剣の高原へ行った男達が帰ってきたのは、それから日付が四十も入れ替わった後だ。
十余名のキャラバンは、すっかり日に焼け、さらに精悍な顔つきになっていた。途中でラクダが潰れたらしく、馬の数が増えている。それでも、全員の帰還であった。
「これを持ち帰りました」
サーシャと俺が座るテーブルに、交易による財物が示される。
彼らは塩を無事に運び終わっていた。方々に点在している遊牧民に頼りながらの旅だっただろう。
「塩百デール。うち、二〇デールを道中で捌き、剣の高原の先で、交易をいたしました」
俺は震える手を伸ばす。
サーシャと俺の前に積まれたのは、宮でさえ見たことがないような名品の数々だ。この机一つで、価値は宝物庫一つに匹敵する。
「これは?」
「麝香です」
馬国の男は節くれた指で、黒い樹脂のようなものを摘まんだ。
「東方ではよく交換をしとります。寒い土地の鹿から剥げる香料でして、素晴らしい香りのうえ、薬にもなります。どのような手を尽くしても欲しがる方もいますでしょう」
直接嗅ぐと、楽園の香りがした。
ほかにも、東方からの、金、銀、陶器に絹。一般に奢侈品と呼ばれるものは、商国だけでなく、周辺国の金持ちがこぞって金を出す逸品ばかりだ。
「商国銀貨の換算で、千リュート」
ダンタリオンも、銀縁眼鏡を直す手が震えていた。
「たった百デールの塩で、これほどの儲けとは」
塩は産地の近くであれば、だいたい一デールで一リュートになる。交易で、価値がついに十倍以上になったということだ。
実際には、交易の利益は運び手である馬国が半分取り、残りがフランツィアの取り分となる。
最も危険の大きい『運ぶ』という作業に、対価が払われるのは当然のことだ。
「……よくやってくれた」
俺は絞り出すように言った。
「さっそく、明日、市場へ出そう」
心地よい重圧を感じながら、俺は傍らのサーシャを見た。
「よくぞ帰った」
サーシャの言葉に、はっとした。彼女は無事に帰った男達をまず喜んだのた。
「草原も、塩で潤うだろう」
馬国の男達には、それが全てに勝る報酬だろう。埃で汚れた顔に笑顔が戻る。何人かは、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「俺からも、礼を言わせてくれ」
俺も言った。不覚である。金に目が眩み、当然ねぎらうべき彼らを忘れるとは。
彼らも、もうフランツィアの仲間だ。
「夜だが、街の浴場を開けさせる。旅の汚れを落とし、今はゆっくり休んでくれ」
海からは魚、ここで塩、草原からは金銀絹。サーシャの地図を思い出す。無限の荒野に、また新しい道が見えた気がする。
夜風は、もう温かい。夏が近づいていた。
キーワード解説
〔高騰〕
欲しがる人に対して、モノが圧倒的に少ないと、オークションのようにどんどん値が上がる。買い占めをすれば、実際にはそんなに不足していないのに、あたかも不足しているように見せかけることができるだろう。もちろん、買い占めには多大な財力か信用が要る。
〔流言〕
敵の都市に対して、噂を流し、内側から混乱させることで戦いを有利に進める方法。
古来、モンゴルも自身の恐ろしい噂を、敵の士気を挫くために大いに利用したという。イスラム圏は識字率が高かったため、情報が伝わるのも早かったという説も。
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お読みいただきありがとうございます。
第二章は、これで終わりです。次回は、第三章でお会いしましょう。