2-13:キャラバン
馬国の狼退治と、労働の提供。
岩塩は、七日ほどで必要な量が切り出せた。
いよいよ始まる。馬国へ向けての、最初の出荷だ。
「行って参ります」
市門では、遊牧の男達が着々と準備を進めていた。
馬国との玄関口――剣の高原へと向かう、キャラバンだ。
ラクダ達は西を向いて一列に座り、その背には、左右に吊られるようにして塩の板が載っている。朝日に照らされ鈍く光る板。それこそが彼らが何よりも求めた、フランツィアの岩塩だった。
今日の荒野はよく冷えた。
吐く息は白い。
氷のように冷たい板を嫌がって、ラクダが首を振っている。雇われたラクダ使いが、馬国と一緒になってなだめていた。
重圧に負けて、俺は口を開いてしまう。
「百デール、確かに売ったぞ」
岩塩の板一つで、一デール(三十キログラム)になる。
大人のラクダは、左右にそれを二枚ずつ積む。すると、ラクダ一頭当たり四デール(百二十キログラム)、この商隊全体で百デール(三トン)の重さになる。
口に入れるだけならば、この量で一部族が何ヶ月も生きられる。人間の摂取量は、一日のほんのひとつまみで十分なのだ。
塩のとれない場所で、塩が高価になる理由はここだろう。
毎日のわずかな塩が、命をつなぎ、病魔を遠ざける。
「馬とラクダの口に気をつけてな」
不安がべったりとへばりついて、しなくてもいい忠告をしてしまう。
馬国の男達は、笑った。一緒に働いたせいか、荒々しい笑顔も、ちょっとは直視できるようになった。
「分かっております」
「婿殿は心配性だ。のう?」
汗をかいた時に塩をなめてみると分かるが、なぜかこいつはてきめんに元気になる。動物はその効果を知っている。
他のラクダが背負う岩塩を、かじろうとするのだ。
「苦労して削った塩をかじられては、この手が泣く」
馬国の、かなりの数が手に怪我をしていた。かくいう俺も、腕の皮が少しすりむけている。
年嵩の男が声を張った。
「さぁ、最後の確認だ!」
一団はラクダを確認する。
左右に塩を吊ったロープは、緩んでいないか。背に縛り付けた荷物は、落ちないか。
三〇頭は一列になり、ラクダ同士の頭と尻尾はロープで結ばれている。前が歩くと、後ろも引っ張られるという仕掛けだ。
ちなみに、このロープが解けると、後ろのラクダはそこで歩くのをやめてしまう。気づかず進むと、ひどい時には千切れた先を置き去りにしてしまうこともあり、連れ戻すのに大幅な時間を食うことになる。このロープも重要な確認項目だ。
隊列には自衛用の馬もいる。その馬が、いなないた。
門の内側が、騒がしい。
人混みを割って、サーシャがやってきた。
「みな……無事に運べ」
俺よりもどっしり構えて、様になっていた。
塩を運ぶ十名の男達は、力強く頷いた。
「命にかえても、届けましょう」
「なに、来た道を戻るだけです」
彼らは笑顔で言うが、道のりは容易ではない。
何年も、ひょっとしたら何百年もろくに人が通らなかった道もあろう。
サーシャは一人一人の名を呼んだ。
「セオ、ユル、アジイ、エネク、コユン、エルケチ」
「はっ」
「ムサ、アフメット、ダワル、デリ、チュワレウ」
姫君の目線が男達を一撫でした。
別れは、それで終わりだ。
列の先頭が、声を張った。
「ホーッ!」
次々にラクダが身を起こす。追従する騎兵も、続々と隊列へ加わった。
「進発します」
手を上げて、彼らは去った。
塩の道の最初は、わずか十余名とラクダ三十頭、そして騎兵のキャラバンである。
いつの間にか、貼り付けた笑みが解けていた。
「胸を張れ」
サーシャは、俺の腕をつついた。
「お前の塩が、確かに、われらを救おうというのだ」
胸がじんわりと熱くなった。姉弟に背を向けて、引きこもるために岩塩の街を作った。
それでも塩は、誰かの暮らしに向かって旅立っていく。
「さぁ、行くぞ」
サーシャは乾いた風のように笑った。
「次の見送りがある」
急ぐのは、逆側の見送りがあるからだ。
交易とは、塩を売るだけではない。塩の対価として得た財貨を、売りさばく必要がある。
金、銀、絹、白磁にガラス器、それに書物。
こちらにもプロがいた。
「今日は、大人数ですな」
隊商の長は、でかい体で、にっかりと笑った。
狼退治に同行してもらったあの隊商に、今度は交易で世話になる。
こちらは少しばかり安堵して見送ることができる。よく使う交易路を行くからだ。
フランツィアの西には河があり、沿うように街道が伸びている。道の先には、大きな都があった。
「北までいくらだ」
「ふむ。ま、雨でもなきゃ六日でしょう」
こちらにはラクダの大群が控えていた。市場に卸す岩塩も積んでいるので、その数は百五十頭にも上る。
キャラバンを大きくするのは、この地の交易では基本的なことだ。規模が大きいほど、夜盗のリスクは低くなる。
馬国に売ったせいで塩が足りないなどと言われないように、こちらも疎かにはできない。品不足は高騰を生む。二度と、ごめんだ。
「天候を祈る」
俺は言った。
製塩都市の合い言葉だ。
雨は製品を溶かす。製塩には、乾燥が必要なのである。
「では、参ります。夢を膨らませておいてくださいね」
隊商達の目は、ぎらついていた。儲かるのだな、と俺は呑気に構えていた。
◆
剣の高原について、話さねばなるまい。
馬国の男達が向かった、高原地帯のことだ。商国と馬国の境目でもある。
牧畜が営まれている場所で、大きな塩の需要があるとされていた。
しかし、高原とフランツィアの間に、安定した交易路はない。
大規模な街道をしく計画が幾度となく持ち上がり、その度に頓挫した。結局のところ、立派な街道をしいたところで、誰も危険な荒野など歩きたがらないのだ。
なにより、剣の高原自体が、草原と商国の結節点である。
歴史を見れば、遊牧民同士の領土争いに巻き込まれたり、略奪にあったり。
苦労して交易路を引き、高原の牧畜を育てても、灰燼に帰しては意味がない。
サーシャの嫁入りには、馬国側も平和を望んでいるという意思が透けて見えるのは、俺だけではあるまい。
川沿いに北上した隊商は、十四日で帰った。
大もうけです、と隊商の長は目をぎらつかせて笑う。帳簿を見せてもらうと、確かに驚くほどの利益だった。
馬国の置いていった商品は、言うまでもなく馬。そして、金糸や絹といった、東方由来の交易品だ。割れるし重いので数は少ないが、青や白の磁器もある。
いずれも貴族が土産にするような貴重品だ。
執務室でソロバンを弾くと、まるで金貨を数えているような気になった。
「ば、馬国に売った塩百デールが、いくつになった計算だ」
「そうですね……」
隊商の長は、肉を見つけた獣のように、目を光らせた。
「百デール分の交易品で、塩を五百デール売った時と同じ利益が出ました」
「つまり……塩の価値が、一気に五倍になったわけか」
喉が鳴った。
ありふれた塩が、貴重な交易品に替わる。まるで魔法だ。交易路は触れるものを黄金に変える。
「取引の規模がでかくなれば、こんなもんじゃないですよ? 百が五百になるのなら、千は五千に、一万は五万……」
「気が遠くなってきた」
元手がでかければ、稼ぎもでかい。しかし話が大きすぎる。巨木を見上げても、頂の姿が分からないようなものだ。
「小麦も、オリーブも、肉も、山ほど積んで帰りましたよ。運びきらなかった分は、商会に為替でおいてあります」
小麦と聞くと、嬉しくなってしまう。練って塩を入れて、後はパンの妖精に任せれば、また美味くて白いパンが味わえる。
荒野では、雲のごときふわふわのパンは、いつでも味わえるものではないのだ。
その日の夕食は、かつてないほど豪華だった。サーシャも、鳶色の目を細めた。
「これはいい」
彼女がありがたがったのは、魚だった。
船の上で内臓を抜かれ、塩で保存された魚は、海沿いの都市で今度はオリーブの油に付けられる。そして川を遡るように、商国で流通していくのだ。姫君は濃い味付けがお好みである。
「魚は好きだ」
喜んでいるようだが、目は荒野の方へ向かう。この瞬間にも、馬国の男達は塩を運んでいる。
「ここまで保存を利かせれば、隊商にも持たせてやれるだろう」
「魚をか? 砂漠越えに? わざわざ?」
塩漬けの魚など、商国の都市なら嫌と言うほど食べさせられる。
「われらには、ぜいたく品だ」
確かに、彼女らは魚をありがたそうに塩で保存していた。あのぐずぐずの塩漬けよりは、商国の干物や塩漬けの方がいくらかマシである。
「フランツよ。これを安定して手に入れる伝手はあるか」
「あるには、あるが――」
俺は渋った。脳裏を家族の姿がちらつき、胸が締め付けられた。
食事が終わると、サーシャは例の地図を広げた。
『塩の道』の地図。
この地図を見る時だけは、他の馬国の人間も、俺の仲間も、誰も立ち入らせない。今のところ、サーシャと俺だけの秘密だった。
ランプがサーシャの横顔を照らす。
「今は、ここだ」
フランツィアから商国内部に伸びる道が、東西の交易路に組み込まれた。
かつての塩の道が、息を吹き返したのだ。
稼げる。俺でも。
その予感に震えたが、警戒するべきだった。
成功するほど、やっかまれるものなのだということを。伝承によれば、触れるものを黄金に変える魔法は、愛娘を黄金の像にする不幸の呼び水ともなったのだ。