2-11:眼帯の遊牧民ザザ
びゅおおおお、と荒野の風が吹いていた。
テントの中で空気が動くはずもない。それでも、ことさらに風当たりを感じるのは、目の前の男のせいだろう。
「こうして話すのは初めてですな」
ぎろり、と一つきりの目が俺を見つめた。
視線を泳がせる。
テントの中には異国の調度がひしめいて、これまた落ち着かない。目の細い、俺が知る神像とは顔つきのずいぶん違う木の像が、責めるような視線をこっちへ注いでいた。
「私は、ザザと申します」
俺はこの眼帯の老人に、テントまで連れ去られていた。
街のご婦人方は、さっそくこの老人にあだ名を付けている。トリクロプス。確かに常に馬に乗っており、老人の片眼は眼帯で塞がっている。
ゆえに、目が三つ。
神話にある、三つ目の巨人と言えなくもない。
「少し、ここでお休みくだされ」
「……足止めになりませんか」
「われらは今日は戻りません。狼を殺しました。彼らを久遠の蒼穹に贈らねばなりませんから」
しばし間があった。
「どうですかな」
「どう、とは」
「姫様です」
じろり、と一つきりの目が俺を見つめた。
「もう七日になりますか」
じんわりと汗が滲んだ。何を問い詰められるのだろうか。
この隻眼の老戦士には、なんというか、こう、時たま必要以上の殺気を叩きつけられる気がするのだが。
「……時に」
びくっ。
「正式な婚姻前とはいえ、男女のことです。仲がよろしいのは結構ですが、節度というものが大切だと思います」
「え。は、はぁ……」
「よもや、結婚を完成させてはおりませんでしょうな」
慌てて首を振った。
「まさか」
「以前、お二人は部屋でなにやら」
思い出した。多分、塩の道の地図を見ていた時だろう。
「あ、あれは話していただけです」
「………………ほう」
一つ目ですごい見られている。太陽に焼き尽くされているみたいだ。
「肌を合わせたことはないのですね?」
「む、無論のこと」
瞬間、白い裸身の背中が頭を過ぎった。これは言うと面倒そうだ。
誤魔化すように、出されたお茶を、口に含む。
「昨夜、姫様が異なことを仰せでしてな。『餌をぶらさげてやった』とか、なんとか」
「ぶふ――!」
咳き込んだ。ごほごほと。あいつ、なんて真似を。
ザザは俺を見ていたが、やがて首を振った。この調子なら大丈夫だろうと思ったのかもしれない。それはそれで、心外だが。
ザザは、咳払いを一つ入れた。
「薬は、塗っておられますか?」
「……薬?」
「あのお方は肌が弱い。日光に当たると、すぐに赤くなってしまうのです」
また何かの誘導尋問かと思ったが、真剣な目で気付いた。
この人は、サーシャのことが心配なのだ。色々と怖いのも、彼女を案じてこそだ。
「塗っています」
「そうですか」
ザザは安心したようだった。
「どうぞ、口調を改まる必要はありません」
ザザはそう言った。妻だという女性が、新しい茶を出してくれる。
白くて甘い、お茶だ。少しバターの匂いに似ているかもしれない。口に、茶の香りと滋味溢れる甘みが広がる。
「乳茶です」
「……やはり、うまいな」
「姫様は、こいつがお嫌いでした。塩辛いのが好きなのでしょうな」
俺は気になっていたことを、尋ねた。
「……あなたは、サーシャの」
「守り役、といったところです」
失礼、と断ってザザは煙草に火を付けた。複雑な文様が彫り込まれた、赤銅色のパイプである。
紫煙がゆっくりとテントを回る。沈黙だが、この老遊牧民のそれは不思議と落ち着いた。
「変わったお方なのです」
ザザは言った。
「本来なら、姫様はもっとよい暮らしができたでしょう。傷む肌をおして遊牧の生活をせずとも、本当の姫君として暮らせたはずなのです」
ザザは一つきりの目で、遠い雲を追うように紫煙を見つめた。
「この地にも遊牧の民がいたと聞いています。その数は減り、ついにはいなくなったとも」
少し言葉を切ってから、ザザは続けた。
「馬国も、同じです」
意外に思った。
「……草原の国がか」
「分捕った国の城や、村に居着いて暮らす者は、年々増えています。追い出した者達の服や、調度を今になって集める――なんとも皮肉で、馬鹿げたことですが、私は思います。なんといっても、それが欲しいからこそ、私達は分捕ったのです」
遊牧の暮らしは大変だ。それは想像がつく。
毎日のように羊を追い、獣を遠ざけ、壁がないため略奪からは自衛を求められる。気候も厳しい。草原とは、豊かな畑や森にできないからこそ草原なのである。
「姫様は」
ザザは懐かしんだ。
「仰られたものです。いつかみんなが忘れてしまう前に、わたしが思い出させて見せる、と。豪奢な調度品も、暮らしも、見せかけだ、と。未踏に乗り出している限り、我等は騎馬の民でいることができると」
そこまで言って、ザザは首を振った。
「私は武将として、多く戦いました。奪い、燃やし、脅し、版図を広げてきました。しかし何かが産み出されるのを、目にしたことはありません。持ち主が変わっただけ……」
老遊牧民は目を閉じた。
「姫様は、それができる方でしょう。少々危なっかしいと、あなたもお感じでしょうが」
頷くこともできなくて、俺はあいまいに微笑した。
サーシャの交易路に賭ける想いが、少し見えた気がした。かつての交易路を復活させることで、消えゆく暮らしを元に戻そうとしているのか。
俺でいいのだろうか、と思うけど。
わざわざ言わないが、かつての塩税での失敗は、馬国も聞き及んでいるはずだ。
「あのお方の目を、信じています」
肩が落ちたのに、気付いたのだろう。ザザは言った。
「エリクワルドという貴国の技師が、あなたを推したと聞いています」
めざとくゴシップを聞きつけて、首を突っ込む悪友。
この結婚にも噛んでいたらしい。
むかむかと怒りがこみ上げた。
「……やはり。では紅蓮の髪だの、偉丈夫だの言ったのは」
「お察しの通りです」
「あいつめ……!」
自慢の長広舌で、引きこもり王子を推したようだ。
商国の宮でか、それともサーシャに助けられた途上でだろうか。
おのれゴシップの錬金術師。
なぜそこまで俺に構う。
何かを思い出して欲しい、とあいつは言った。それは何だ。
俺はもう、何も要らないのに。
「よい友をお持ちです」
「まさか……悪友だ」
吸血鬼のような顔が過ぎった。
失敗をして、捨てられるように俺は荒野にやってきた。塩の都。そこを、歯を食いしばりながら無双の活躍で、岩塩の産地へ育て上げたのに。
もちろん、そこには技師はじめ仲間の活躍があればこそ、だが。
「老骨の身から言わせてもらえれば、結束こそどんな才にも勝る。城壁も、武具も、結束があればこそ」
巨体から、青い目が見つめてくる。反論する気は、なぜか起きない。
「狼は、減ったのか」
問うていた。
「しばらく街道には寄らぬでしょう」
「そうか、ありがとう」
身を正し、頭を下げた。彼らはフランツィアの暮らしを、確かに守ってくれたのだ。
「こちらこそ」
ザザは一つきりの目を細めた。
厳しい岩山がつかの間に見せた晴れ間のように、それは一瞬のものだった。
「姫様を、お頼みいたします」
老遊牧民は、地に拳をついて俺へ頭を下げた。
俺は、交易路の話からは逃げられないのだと悟った。逃げる気がだんだんとなくなっているのだから。
懸念の一つを、口に出すことにした。
「その前に、一つ、解決しておきたい課題があります」
指を一つ立ててみた。今回のような、馬国とフランツィアのすれ違いが、起こらぬようにせねばならぬ。
お読みいただきありがとうございます。
次回は、4月7日(日)投稿予定です。