2-10:心配
隊商の案内で、北の塩鉱へ向かう。サーシャ達がいるであろう狩り場も、塩鉱の見張り台からなら見えるだろう。
会いに行く、現実的な理由もできた。
サーシャが向かった狩り場と、フランツィアを挟んで反対側。そちらでも、狼の群れが目撃された。それだけの話だが、狼を追って深入りすれば、深刻なことになる。この辺りの情報整理も、本当は出発前にやるべきだったのだ。
だからこそ、次やる時は、フランツィアの人間も改めて混ざればいいと思う。
俺と隊商の長は、塩鉱の見張り台に上った。
「確か、東だったな」
呟いて、朝日の方を見る。眩しい。
赤く色づいた空に、雲のように白い線が、すうっと登っていた。
「あれは……狼煙か?」
隊商の長が教えてくれた。
「狼の糞を、燃しているのかもしれません」
「あの煙がか」
「ええ。聞いたことがあります。ある獣の糞には、よく燃えるものが含まれていると」
隊商は付け加えた。
「臭いもしますしね。狼に、警告をしているのかもしれません。そういうやり方をする一族もあると、聞いたことがありますから」
この長の経歴を思い出した。
かつてサーシャと同じように、羊を連れて暮らす遊牧民だった。それが立ちゆかなくなり、フランツィアでの塩商売に切り替えた。
「あっ」
長が呻いた。この人も目がいい。
「見えました。馬です。駆けてます」
喉を捕まれたような、緊張が走った。
「もう始めているようです」
「どこだ」
「あの丘の周りです。丘の頂に追い込んだのでしょう」
親指ほどの大きさで、遠くに丘が霞んでいた。
俺は見張り台から降りると、馬に鞭をくれた。
「行きますか」
「ああ。丘の離れに、幕舎が見えただろ。あそこには誰かいるはずだ」
急ごう、と誰ともなく言った。
荒野を行くフランツィアの馬が、真価を発揮した。
彼らは速くはないが、駄馬ではない。砂の上を歩くため、いちいち足に力を入れる。そのため遅い。が、砂漠の上でもラクダと同じように歩める。
隊商の長と俺は、荒野を突っ切るように駆けた。砂地を進むことは、街道を外れることだが、距離を短縮できる。
わずかな間で、草地まで走破した。さらに延々と駆ければ、川が見えてくるはずだ。
「フランツ様、あれを!」
伴の誰かが言う。
朝日に照らされた丘に、馬の影が見えた。
なぜか瞬時に分かった。
「サーシャ……!」
遊牧の姫君は、馬で颯爽と草の上を駆けていた。狼をもう追っているのかも知れない。
「フランツ様、どうされます」
隊商の長が尋ねた。
ここまで来た以上、意地を振り絞るほかない。
「行くぞ。旗を掲げろ。狼退治への伝令なら、皆もやったことがあるだろう」
俺はさらに近づくことに決めた。震えるほど怖いが、このまま見ているよりはマシだ。
少し馬足を押さえる。伝令だが、あまり近づくと流れ矢の懸念もある。
サーシャ達がこちらの旗に気づいた。彼女たちの一団は馬首を返して、近づいてくる。
「フランツ!」
サーシャが声を発した。
俺はそこで気づいた。馬がいななく。
進む先、草が濃い場所が、不自然に揺れていた。
まさか、と口があえいだ。
朝日を浴びて、逆光。一匹の狼が飛び出してきた。
「しまっ……」
うめくより、驚きが早かった。
狼が近づく。俺に向かって飛びかかる。その背中に、矢が刺さった。
獣は宙に縫い止められたようになり、やがて地面に落ちた。
どっと力が抜けた。
馬国の者達がわらわらと集まってきた。
サーシャの手に弓が握られていたことで、俺は徒労を覚る。伝令の任務があってよかった。
「……なぜここに」
サーシャの伴から、眼帯の男が不審げに進み出た。
「あやうく、死ぬところでしたぞ」
震える声で、俺は伝令の内容を伝えた。
「狼が、他にもいる。深入りは避け、一度戻り、地図を睨んで語らうべきだ」
眼帯の男は少し目を閉じた。
「そうでしたか」
静かな呟きに、こちらの方が驚いた。怖い怖いとあまりよく見なかった一つ目だが、理知的な、青い目であることに今さらに気付いた。
「……互いに、拙速でありましたな」
「え」
「深入りをせぬよう、気をつけ、聞かせましょう。土地には土地のやり方があるというのを、姫様は少し忘れすぎる」
入れ違うようにサーシャがやってきた。伝令の内容は伝わっているらしいが、おそらくは彼女は機を見て切り上げただろうという気はした。
「来てくれたのか」
言葉だけ聞くと嬉しそうだが、表情は不審げである。
うん、と頷く。
「これを」
「わたしの弓か」
サーシャは驚いた顔をした。
「……置いていったのだが」
「ああ、そうだろうとは思った」
俺は取り繕うことにした。
「草原と荒野は違う。その……伝令もあるし、様子を見に来たのだ」
サーシャは計りかねるように俺を見る。顔から火が出そうだ。心配だというのは、これほど恥ずかしいことだったろうか。
「そうか」
「邪魔をしたなら」
「いい。伝令は聞いた。それにもう、彼らとの話はおおよそ済んだところだよ」
サーシャは馬上で笑った。
「心配をかけたようだな」
「それは」
「次からは、もう少し子細を話して出かけるとする」
サーシャが手を振ると、遊牧の民がいっせいに引き揚げた。草に馬と共に伏せていたものもいたらしい。
改めてみると、あっけにとられるほどの大勢だった。狼の亡骸を掲げている者も多い。
ようやく気付いた。俺達が狼狩りの外周だと思ったここは、実は狼をおびき寄せ、狩るための中心部だったのだ。
「狼は、牧草を分かち合うべき隣人が増えたことを知っただろう。しばらくは、街道には現れまい。割に合わぬということを、知っただろうから」
「……そ、そうか」
サーシャは苦笑した。手で口を押さえていやがる。
「わざわざ来てくれるとはな」
「う」
「いい。弓の刺繍は、お守りでもある。出てから、実は持ってくるべきだったと思うておったところだよ」
見え透いた慰めに、かえってこちらをからかう意図を感じるのはなぜなのか。
俺はどこかで彼女を出し抜く必要性を感じた。なんだか尻にしかれそうな気がするぞ。
『もう手遅れだ』と頭のどこかが叫んでいたが、この一件について異論はことごとく却下する。
「婿殿」
その言葉で、俺はよびとめられた。
眼帯の遊牧民が、俺とサーシャに馬を寄せた。
「……少し、よろしいですかな。婿殿に話がございます」
ぎらんと一つ目が輝いた。
難題は、去っていないようである。
キーワード解説
〔駱駝〕
背中のコブに水分をため込むという、天然の貯蔵庫を備えた生き物。
酷暑・極寒どちらにも強く、幅広い地域で人の役に立って来た。
特に砂漠での運搬は、彼らがいなければ立ち行かない。そのため砂漠の船とも呼ばれる。
なお、背中のコブが一つの『ヒトコブラクダ』と、二つの『フタコブラクダ』がおり、一つコブの方が気性が荒いとされる。
〔狼〕
ネコ目でイヌ科というややこしい生き物(イエイヌも同じだが)。
地域、気候的には狼というよりジャッカルやコヨーテに近いかもしれない。危険なのは同じ。
古来、狼の糞を用いたことが、『狼煙』の語源と言われる。
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次回は4月4日(木)に投稿予定です。