2-9:狼の夜
サーシャ達がフランツィアを出たという話は、すぐに広まった。
屋敷にどやどやと人が尋ねてくる。飲み友達のブルーとメリッサが肩をぽんと叩いてきた。
「……やはり、今回は残念でございました」
「やはり、こういう気もしておりました」
やはり、やはり。
謎の慰めが続く。
ブルーは既婚であり、ある意味で俺の先輩である。酒場の二代目で、がっしりとした茶髪の男だ。
メリッサはちょっとキザっぽい雰囲気の優男である。こちらは羨ましくも独身を謳歌しており、豊かな金髪をかきあげた。
ブルーは優しく言った。
「若様。妻を一度も怒らせないということは、原理的に不可能です。謝れば、いいのですよ……」
集まった面々が、うんうんと頷いた。
さすがに気付いた。
失礼な勘違いをされている。
「喧嘩じゃないぞ」
意外そうな顔をされた。なんという連中か。
「若様。素直になりなさいませ」
「そうですそうです」
既婚者の『こちらの世界へようこそ』みたいな顔が腹立たしい。
がりがりと赤髪をかく。顛末を話さないわけにはいくまい。
「――というわけで、サーシャが街を出たということなんだ」
しばし、間があった。
「……狼退治に?」
「ああ」
「……奥様達、だけで?」
俺は沈黙した。反応は、一致を見た。
「「「「「あんたも行け」」」」」
ぐっと言葉に詰まる。
一度は心の奥に押し込めた情けなさが、むくむくと立ち上ってきた。
「あんた」という部分が、「フランツ様」だったり、「あなた」だったりしたが、口々に同じことを言う。
確かに状況だけ見れば、狼退治を馬国に押し付けたと見えなくもない。
「嫁に危険なことをやらせて、家にいる男がいますか!」
彼らは人としての怒りを叩きつけた。特にブルーは、この辺りうるさい。
「そりゃ誰だって怖いでしょう!」
「なんで嫁を行かせるんですか?」
「引き留めなかったのが信じられない!」
仲間という仲間が説教した。
俺は白状した。
「く、来るなと言われたんだ! はっきりと。巻き狩りに素人は邪魔だと。それに、狼は馬国の責任だと」
そこで、ようやく説教が止まった。
「……責任?」
「サーシャ達は、自分達がやってきたから、狼が住処を変えたのだと思ってる。だから――サーシャ達だけで、対処するつもりなのだ」
場がしんとなった。
咳払いをしてみたが、音はよそよそしく転がった。
馬国とフランツィア。二つの民。この一件は、根が深い。
手を取り合う機会で、逆に手を払われたのだ。
「フランツ様の、仰る通りですじゃ」
退役騎士のロブ爺さんと、門番のレッドが顔を出した。狼退治とあれば、本来は二人の出番だが、頭越しに仕事をとられた格好だ。
レッドが嘆息する。
「そりゃ、俺らは頼りにならないかもですけどねぇ」
「ちょいと性急ですじゃ。二、三人、伝令に後を追わせましたが……土地を知る人間がいないと、かえって状況を悪くするかも知れません」
よくない雰囲気だ。
ここには、馬国のプライドが絡んでいる。
薄々察しているが、彼らは気高い。颯爽と走る馬のようだ。確かに恰好いいが、まっすぐ駆ける彼らはきっと小回りが利かない。
サーシャは『責任』という言葉を使った。確かに、羊を大量に連れてきた馬国が、狼を刺激した可能性はある。
だから馬国だけで対処する。
筋は通っているが、フランツィアをないがしろにしすぎではないか。思えば塩鉱でも、彼らは製塩への従事を拒んだ。
「……確かに、俺もまずかったよ」
「別に、若様が悪いというわけじゃないですけど。酒飲んで寝てればいいんで楽ですし」
レッドが慌てて手を振った。
その発言はさすがに暢気すぎる。とはいえ肩の力は抜けた。
「実際、どうしたもんかな」
言葉が漏れるが、もう遅い。彼女はもう荒野の彼方にいる。
いつの間にか視線が集まっていた。
「ま、今さらどうしようもない」
肩をすくめた。
すでに窓の外は暗くなっていた。皆を帰そうとしたが、視界の端を不気味な顔が過ぎる。
「悪魔の末裔っ!」
「心外な。若様、それでよろしいのですかね」
エリクだった。青白い顔が、ランプに照らされている。
「な、なに」
「理屈はそれとして。あなたのこと。心配なはずです」
「…………」
「嫁一人行かせて泰然としていられる心臓とは思えませんな」
ゴシップの錬金術師は、男を煽るのが上手い。
「フランツ様。いっそお前が心配だと、助けにいくのはいかがです?」
どきりとした。
だが、あそこまで明確に『来るな』と言われて、のこのこ出て行くのも気が引ける。
「ふむ。どうやら、フランツ様の中にも狼がいるようですな」
「なに」
「意地っ張りという獣」
ここで反応しては、調子に乗らせるばかりだ。
口元を歪め、煙に巻いた。
「夜だ。みんな、心配はありがたいが、明日に備えて帰りたまえ」
紳士らしく言って、仲間を帰した。
久しぶりに、夕食は一人だ。
屋敷には湯を浴びるためのタイル張りの部屋がある。そこでは地下水をくみ上げられるようになっていた。
軽く湯を浴びる。ここで見た白い背中に、狼の爪と牙が襲いかかるのを思い、慌てて首を振った。
寝室に戻る。
酒は控えた。なんとなく、深酒をしそうだ。
「フランツ様」
寝る前に、ダンタリオンが呼びに来た。
「どうした?」
「奥様の寝室に、その……気になりますものが」
サーシャの臣下にも、この結婚を危ぶむものがいた。当然だ。誰でも釣り合いがとれないと思う。寝室を分けることは、彼らの主張を容れた形だった。
『夫婦』など、遠く、現実感がない。どのみち半年経たねば、本当の意味での許しは出ないのだし。
サーシャの部屋で、ばあやがあたふたしていた。
「ああ、フランツ様!」
知らない香りがした。俺の屋敷だというのに、彼女の香がもう残っている。
「これです」
ばあやが指したのは、刺繍がついた、三日月型の袋だった。
何かを包むような形をしている。おそるおそる触れると、からんと弓が現れた。
弦を張っていないため、少し大きく開いている。
「ばっ……」
声が漏れる。ダンタリオンは首を振っていた。
「狩りに弓を忘れるとは、普通は考えられません。置いていったと考えてはいるのですが」
「あ、あああ」
声が震えた。
「当たり前だろう」
「だといいのですが」
ダンタリオンは、顔をしかめている。
はっとした。
「ま、まさか届けに行けというのか」
老執事は、窓の外を見る。
「早朝、馬を飛ばせば、まぁ……」
「嫌だぞ今さら! というか、どう考えてもこれは置いていったのだろうっ」
狼は怖い。それに、俺がこいつを届けに行ったとしても、どうなるというのだ。
――来たのか、フランツ。別にお前が来なくとも大丈夫だったものを。
多分、そうなる。絶対、そうなる。
思えば宮でも、そんな感じだったし。下手に動いて、選択を間違えたくはない。
苦笑を貼り付けて、言った。
「みんな、寝ろ」
が、しかし。
眠れないのは、むしろ俺であった。
知らなかったら、きっと熟睡できた。
だが、気になる。
一度気になりだしたら、もう気になって仕方がない!
あの弓の装飾、置き方。細かい傷を考えるに、実用品だろう。初めて会った時も、彼女の背にあった。
もし、俺があれを届けなかったせいで、彼女が実力を発揮でなかったら? それは、俺のせいということにならないか?
弓入れには、丁寧な刺繍がされていた。遊牧の民は、刺繍に願掛けをするという。気になって調べたが、あれは狩りの成功と、安全を祈る刺繍だった。
それを置いていって、もし怪我などしたら……
「それは、届けにいかなかった俺のせいにならないか」
悶々と悩む。
考えすぎだろうか。
フランツィアの人は迷信深い。お守りのような弓入れを届けにいかなかったとあっては、俺の勇気と良識を疑うこと間違いない。
「いやいや待て」
脳内会議は紛糾した。
弓を届けるべきか、否か。
無駄かもしれないが、サーシャに弓を届けにいく。届けなくて周りから後ろ指を指される。
どっちだ。
どっちがマシだ。
前者の場合、『自分達だけでやる』という馬国の言葉を反故にする。会いに行くには、弓以外の理論武装が必要だ。
なんだこれは。
何も植えてない畑をひたすら耕している気がする。人はそれを不毛という。
いつの間にか夜も白んでいた。どれほどの時間、無為に過ごしたのか。
「俺はいっつも、こうだな」
そもそもサーシャは、なぜ早々と出たのだろう。眼帯の老人は、諫めていたのに。
ここ数日で見た姿が、頭に浮かぶ。
完璧な姫君かと思えば、そんなことはない。
部族を抜け出すおてんばぶり。他愛ない仕掛けで喜ぶ様。俺より二つ下の、一九歳の娘なのだ。
どこかで、無理をしていなければいいが。
塩の道は、紛れもない重責だ。
狼に責任を感じ、性急な判断をしていないと言い切れるのか。
「心配である」
なぜこんなに眠れないのか。なぜこんなに気にかかるのか。
「意地か」
それは国同士に限らないのかもしれない。
引きこもり王子と、馬賊の姫君。
意地を捨てるのが簡単なのはどちらか。そう考えると、遺憾ながら、結論はするりと出た。
旅装の準備をし、夜明けを待つ。
◆
朝一番。
狼についての情報と地図を、俺は用意するように命じた。が、ダンタリオンは一礼するだけ。必要なものはすべて、執務室の机に載っていた。
「……これは」
午前中に確認する予定だった話がすべて片づいている。
入口から青白い顔が現れた。
「狼を見た隊商が、現場まで先導をしてくださいます。その他もろもろ、整い済みです」
「用意がいいな」
「なんの」
徹夜明けの親友は、より一際に顔色悪く、不気味な笑みを見せつけた。
「百発百中でございます」
さぁさぁ恋路を走りなさい。
せっつかれて表へ出る。荒野の朝だ。息は白い。
「ゲイル」
赤銅色の愛馬が、ぶふんと熱くいなないた。
お読みいただきありがとうございます。
ここまででブックマーク、評価、感想など頂けましたら幸いです。
なお、次回は3月31日に投稿予定です。