2-8:ラクダ市場
塩税の失敗以降、「まるで籠城だ」と言われんばかりに引きこもってきた。しかしフランツィアに我慢できないことがないわけではない。
その一つが、目の前の生き物だ。
「ガアア!」
「ガアア!」
街壁の外には、時ならぬ市場が立っていた。
ラクダ達の怒声。売り買いの声。
百戦錬磨の商人と、馬国の男達、そして品物であるラクダ。耳を塞ぎたいほどやかましいのは、叫ぶような売買交渉に、ラクダ同士の喧嘩が混ざるからだ。
「コブが一つのラクダは、気性が荒い!」
俺は隣にいた商人へ怒鳴った。そうしないと聞こえないのだ。
ラクダには二種類あり、背中のコブが一つのやつと、二つのやつに分かれる。この騒がしさは、気性が荒いヒトコブラクダが混ざっていやがるな。
「しかし、種類を問わず、とにかく集めるとのことでして」
商人は俺を見上げた。
大商いを立ち上げた当の姫君は、くるりと辺りを見まわし、白い頬で笑う。
フランツィアの外に突如出現したラクダの大群は、馬国が集めたものだった。彼女らは、ここで交易路の輸送手段を購う。
「さよう。見事な数だ」
姫君は、紅い王冠型の帽子に、黒地に赤の刺繍をした装束を合わせている。日焼け止めを念入りに塗ったせいか、それとも取引で侮られぬためか、日傘や口元の布はない。
日差しが一番きつい時刻は過ぎたからな。
「よく集めてくれた」
「もったいなきお言葉でございます」
眼帯の老人が腰を折った。大きな背に隠れるようにして、ラクダ商人らが愛想笑いをしている。
「ザザよ。今買えるのは、何頭いる?」
眼帯の老人は言った。
「百ほどであります、姫様」
「ふむ。まだ足りない。いずれ、もう三百は必要だ」
俺は絶句した。
「さ、さんびゃく?」
「古来、ラクダは荒野の船と呼ばれたそうだな」
サーシャは集まったラクダを示した。コブのある背中が、市壁の外に延々と続いている。
唾を吐きかけられないように、誰もが足早に歩いていた。
「われらの馬は、人を乗せるには適しているが、荷を運ぶならラクダが望ましい。倍も積めるし、なんといっても粗食に耐える。その点、馬は草に贅沢だ」
あちこちで鈴が鳴っている。ラクダはこの音色を好むという。迷信かもしれないが、確かに喧嘩は次第に止んだ。
俺は声を潜めた。
「……失礼な質問かもしれんが、そんなに買えるのか」
「大事ない。われらは馬と交換する」
あ、と気付いた。彼らは馬や羊を連れている。
「同じ草を食ませるなら、交易に使えるラクダがいい」
思わず口ごもってしまった。
馬国にとって、馬とは特別なものだと聞いた。売るのを恥とする遊牧民は、多いという。
「街に入れば、街に従う」
気取らない笑みに、引き込まれた。
「ここではラクダの方がよいのだろう?」
サーシャの覚悟を感じた。
必要とあれば、彼女は愛馬すら売るかもしれない。故郷に塩を運ぶ重責は、姫君の肩にある。
俺は首を振り、赤髪をかいた。
「……そうだな。ここでは確かに、ラクダが多い」
不意に遠くが騒がしくなった。地平線から砂塵が近づいてくる。
「あれもラクダだな」
サーシャは目がいい。
しかし、売るためのラクダではないだろう。
「ありゃ塩鉱の方角だ。隊商が戻ってきたのだと思うが」
フランツィアと塩鉱の間には、馬で半日ほどの距離がある。
ゆえに真水や食料を持って行き来する隊商は、不可欠な存在だ。もちろんそれを運ぶのは、一週間水を飲まなくても生きていけるラクダである。
市場のラクダが、また興奮し始めた。なだめる声が、怒声のように続く。
「様子が変だ」
サーシャが呟いた。そのとおりだ。
なんであんなに駆けている?
「わ、若様!」
走ってきたラクダは、やはりフランツィアと塩鉱を結ぶ隊商だった。
だが、服が砂まみれだ。顔は真っ青で、まるで地獄から逃げてきたようだ。
「どうした」
「お、お、狼です」
隊商達は慌てて、コブの間から降りた。足がもつれて、周りに助け起こされた。
「誰か水を!」
水を飲ませてやると、ようやく落ち着いた。
「話してくれ」
「フランツ様。塩鉱から帰る途中に、狼に襲われました。積み荷もなにも、全部放って逃げてきて……」
どよめきが起こった。
狼だと?
「これだけか? 他には?」
「後から来ます。ですが、怪我人もいて……」
鐘だ、鐘を鳴らせ。鐘と声が連鎖する。
怪我人が出たことを知らせ、医者を門に集めるのだ。
「狼の数と、襲ってきた方向は、覚えているか」
サーシャが声をかけた。
隊商達は、突然話に入ってきたサーシャに、面食らったようだ。代表して、長が口を開く。日焼けし、がっしりとした男だ。四十くらいに見えるが、ラクダ並みに頑丈そうだ。
「……だんな、この方は?」
俺は、狼とは違う意味で苦った。
「嫁だ」
あ、と長は気づいた顔になった。おそらく街の外にいて、五日前の宴には出損ねたのだろう。
髭を整えて、遊牧の礼をしようとする。
「いい。それより報告だ」
「ですが……」
女は外してほしいに違いない。
鉛を飲んだように胸が重くなった。怪我人の話になる。
「わたしは訊きたい」
隊商の面々は驚いただろう。長も、変わった夫婦だと上がった眉で言っていた。
サーシャは落ち着いた声音で、尋ねる。
「襲われた場所は?」
「ここから北にいったところです」
「方角は?」
「多分、南西からでした。太陽で見にくかったので」
サーシャは顎に手を当てて、考え込んだ。俺も頷いておく。
「フランツ……」
「ああ。俺達が、気配を感じた辺りからは遠い」
塩鉱の帰り道でも、俺達は狼に会っている。正確には、気配を感じただけだが。
街には、狼のことは告げてあった。だが向こうが生息域を広げては意味がない。いずれ、ぶつかる。
「危険だな……とても」
サーシャは深刻そうだ。
姫君は、遊牧の民を引き連れている。彼らは草場で放牧をしているが、狼の場所もさほど離れてはいないのだろう。
そして――狼は羊を襲う。
「昔は、この辺りにも遊牧の民がいたでしょう」
長は目を伏せさせた。頭に巻いた白布が、風に吹かれる。
「フランツ様。なにもあなたを責めるわけじゃありません。塩のおかげで暮らしはよくなりました。私も遊牧から、製塩に切り替えたクチですからね。しかし……やはり狩る者がいなければ、獣が増えすぎます」
「そのとおりだ」
サーシャが引き取った。鳶色の目が、冷たく光る。
「わたし達にも、責任があるな」
サーシャの言葉に、俺達は驚いた。
眼帯の老人が歩み出る。
「姫様」
声は大きくないが、思わず振り向いてしまうほどの迫力だった。
しかしサーシャは挑むように続ける。
「われらがやってきて、牧草をはんだ。獣も追う。押し出されるように、狼の一部が道に出てきた……どうだ?」
「姫様。責任とは、少々お言葉が強すぎますぞ」
サーシャは応えなかった。
「フランツ」
急に水を向けられた。刃のような笑み。
「この国では『隣人を大切にせよ』との教えがあるそうだな」
「あ、ああ……」
「わたし達もないがしろにはすまい」
鳶色の目が、周囲を圧した。ラクダも、人も、静かになる。
「牙のある隣人と、話をつけてくる」
商談をしていた遊牧民も、今や口を線にしてサーシャを見ていた。目に見えないはずの戦意が、馬国の男達からゆらりと立ち上った気がした。
「……まるで鷹だ」
隊商の長が、ここらの言葉で呟いた。
慌てて口を開く。
「待て待て」
疾走する馬の前に立つような、万感の勇気を必要としたのは言うまでもない。
「フランツ。あなたはここに」
「だがな……フランツィアにも狼への用意はある。もっと慎重に」
俺のひと言に、彼女は十も返す。
「急を要するかもしれん。すでに述べたが、わたし達の問題でもある」
「いやでも」
「大勢では動きが遅くなる。狼も感づく。何よりあなたが離れては、誰が街の指揮を執る?」
ぐうの音も出ない。
何かが――何かが胸に引っかかる。しかしそれを言葉にできない。周りの目もあり、口論するのも、立ち尽くすのも、情けなさを増すだけだった。
「……分かった」
結局、引き下がってしまった。
この『やってしまった』感はなんだろう。
「連絡用に、何騎か置きます」
眼帯の遊牧民が、無表情にそう付け加えた。