2-5:好奇心と猫
塩鉱の帰り道でもらった羊は、屋敷で捌かれて、新鮮な肉となった。
ここで姫君の好奇心が動いた。
サーシャは、新鮮な肉と、ふんだんにある塩で、交易路のための保存食を試みたというわけだった。
「さて、塩をすり込んだら、次の行程だ」
サーシャと塩をすり込んだ肉が、樽の上にどどんと積まれている。我ながらよく頑張ったと思う。一抱えで持てるほどの量だが、十分に塩を刷り込むのは大変だ。
手がひりひりする。
「壺か桶を使って、この肉を保存する。わたしが読んだ文献には、時間と塩が、肉をさらにうまくするとあった」
サーシャは樽に寄りかかるように開かれた、塩の袋を見やった。臼で砕かれた岩塩が覗いている。
今日のサーシャは黒地の衣装だ。汚れが目立たないようにだろうが、それでも細かい刺繍があるのは、やはり姫君である。
彼女らの衣服は、袖口のボタンを外していくと、袖が肩の辺りまで開くようになっている。乳絞りなどで邪魔にならないようにするためだろう。
作業のため、俺もローブを脱いで、シャツに腕まくりである。
「初めてってわけじゃないんだろう?」
問うと、サーシャは難しい顔をした。
「干し肉は経験がある。が、これほど多くの塩で漬けるのは久しぶりだ」
大丈夫かと思ったが、そもそも干し肉の経験がある姫君というのも珍しい。
サーシャは床の塩袋を指した。
「この保存法には塩を多く使う。塩が足りなければ、肉は途中で腐ってしまう。塩不足のわれらでは、なかなか手が出なかった」
ばあやが慌てて言った。
「と、といいますか! このような仕事、私どもがやりますが」
ばあやはそう食い下がった。当然だろう。
手が荒れた姫君など、ばあやの沽券にかけて許せないはずだ。
その辺りのことは、サーシャにも分かったようだ。
「では覚えてくれ。次からはお願いする。まずはわたしがやってみる」
ばあやは俺を見る。頷きを返した。
ああ、やってみたいんだな。
「サーシャ。手順は、合っているんだな?」
「それは間違いない。この作り方は、色々な文献で目にする。おそらく最もありふれたやり方なのだと思う」
サーシャは粗く砕かれた岩塩の袋から、手で塩をすくい、用意した樽へ入れた。ワインが入るような、猫くらいの大きさの可愛い樽だ。
中を覗くと、たちまち白い塩の層ができる。
「……今さらだが。もっと目が細かい、いい塩もあるぞ?」
「うん。それなのだが、わたしはこの細かさが丁度いいように思う。目が細かい塩は溶けやすい。ゆえに、長く寝かせるやり方では、辛くなりすぎるように思うのだ」
「左様か。まぁ、任せるが……」
そこで、俺ははたと気づいた。今まで命じられるままに、大粒、小粒と塩を作り分けていたが、その理由がやっと分かった。
「そうか」
「どうした」
「いや。塩の粗さにも、細かい注文がつくことがある。用途が違うとは知っていたが、なるほど、溶ける速度によって塩漬けの時間が違うからか」
そんなことか、とサーシャは笑った。
「不思議な人達だ。わたし達よりよほど塩がありながら、塩漬けをしたことがないとは」
肩をすくめておいた。
「……そもそも、街中に肉にできる家畜が少ないんだ」
しかし、羊が増えたなら、今後は香草も一緒に栽培しても悪くないかもしれない。
香草は肉の臭いを消す。料理や薬には欠かせないもので、都市には香草だけを扱う店があったりするものだ。棚には何百という種類の香草が、効用、使い方付きで詰まっている。
そしてこの屋敷には、ロブじいさんの花壇がある。
「では助け合いといこう。フランツ、塩をすり込んだ肉を、この塩の層の上に敷いてくれ」
「はいよ」
羊肉は、心なしか赤さ増したように見える。塩がすり込まれて、身が締まり始めているのかも知れない。なんとなく美味そうに感じるのは、自分で苦労したからか。
「次は、また塩だ。肉の上にかぶせる」
サーシャは肉の上に塩をまいた。蓋をするように――というより、塩で肉を生き埋めにするようだ。
俺は舌を出した。
「こいつは塩辛そうだぞ?」
「燻す前に塩抜きをする。が、確かに食べる前にも塩抜きが要るかも知れないな」
ばあやが、ぽんと手を叩いた。
「でしたら……お野菜と一緒に召し上がるのがよいと思います」
「野菜?」
「塩気のあるものと食べると、お野菜の甘さが引き立つのです」
「なるほど。ばあや殿、覚えておく」
サーシャは礼を言って、作業を続けた。俺も手伝う。
基本は同じことの繰り返しだ。
塩の上に肉を敷き、さらに塩で封印する。これで一段。小さめの樽には、同じ組み合わせが五段までできた。
「終わりである」
サーシャは最後に樽の蓋を閉める。ぽんぽんと手で押さえて、満足そうに息をついた。
「この後はどうするんだ?」
「放っておく。五日ほどかな。時たまひっくり返し、底に肉の汁が溜まらないようにすればよい」
ばあやが不安げに声をかけた。
「お疲れさまでございます。ただ、あの、そんな樽に入れて、腐りませんか?」
「大事ない。塩が肉の中の悪いものを殺す。だから、肉は腐らない。それに、余計な水が出て、身も柔らかくなるだろう」
「……まぁ、ここはいつも涼しいしな」
俺もサーシャの意見には同意だった。
屋敷の地下は、いつでも気温が変わらずに涼しい。そもそもの野菜や小麦の貯蔵庫である。
「でもネズミには注意すべきだぜ」
「ふむ。あの小さいやつか……」
応えるように、にゃおんと背後で声がした。
「……猫?」
サーシャが振り向く。その足下をすり抜けて、灰ぶちの猫が貯蔵庫にやってきた。
「アルフレッド!」
俺が名前を呼ぶと、猫は壁際で尻尾を立てる。「聞いてるよ」とでも言うように、片方の耳をぴこぴこ揺らした。
サーシャは驚いたようだ。
「……この屋敷には、猫がいたか」
「フランツィア中をうろついてるから、三日に一度くらいしか帰ってこないがな」
我が猫アルフレッドは、塩漬け肉の樽に興味を示したようだ。が、サーシャが首を振ると諦めたように鼻を鳴らし、貯蔵庫の入口に移動した。前足をなめて、そこでくつろぐようである。
「ふふ。これは頼りになる門番だ」
それにしても、とサーシャは言った。
「まるで人のような名前だな」
「だろう」
俺が笑うと、ばあやも小さく苦笑した。
「で、今日の作業はもういいのか?」
「ああ。ありがとう」
サーシャは満足げに樽をなでた。
「われらの草原で、塩は金のように貴重だ。これを持たせれば、みな喜ぼう」
俺は、彼女の準備の、本当の意味を思い出した。
「……旅路の、保存食か」
サーシャは切れ長の目でこちらを見た。
「そうだ。馬国に塩を運ぶ道は、長い。美味いものを持たせて行かせたい。暑い道であれば、塩の効いた食べ物の方がいい」
本当に、やれるのだろうか。この俺が交易など。
一度は観念したとはいえ、その思いは拭いがたい。準備が進んで、交易の話がどんどん動いている。
頭を振った。不安を忘れたくて、せめて笑ってみる。
「しかし、五日待つのは長いなぁ」
「なんだ。すぐに食べたいのか?」
「え」
「しばし待て」
嫌な予感がした。
サーシャは部屋の隅から、大小様々な壺を持ってきた。ばあやが慌てて手伝う。手のひらほどの瓶から、一抱えほどの壺まで、俺の前に並んだ。
「……いったい、なんだ?」
ばあやが口に手を当てた。
「先日、奥様のご指示で運び入れておきましたものでございますね」
サーシャは得意げに解説した。
「ものを交換するだけが、交易ではない」
「……話が見えない」
「よい塩の他に、色々なものがこの地にはある」
サーシャは小さな壺を手に取った。蓋を開けると、白い液体が揺れている。
「これは羊の乳に、あなた達の街で採れる、にがりを入れたものだ」
「……にがり?」
天日製塩では、塩をさらった後の水は非常に苦くなる。これを『にがり』と呼び、基本的に利用価値がない。
ただ悪友エリクが好奇心の赴くまま、利用法を研究しているのは知っていた。
「技師エリクが提案をしてな。製塩の副産物は、ひどく苦いが、白い食べ物を固める効果があるという」
気づいた。
乳を固める――姫君は、チーズを作ろうとしているのだ。
「そんなの使えるのか? 苦いだけの水だぞ」
「この世にある以上、なんらかの使い道はあるはずだ。無駄なものはない」
サーシャは続けた。
「乳はただでは固まらぬ。わたし達は殺した子羊の胃を入れる。製塩の副産物でできるなら、試す価値はあると思う。味もいいかもしれぬしな」
サーシャは面白そうに言って、壺を床に戻した。
「民の数ほど、食物の保存方法はあるものだ。民同士が出会って、新しい食べ物が産まれることも多い」
好奇心が強いというか、なんというか。
婚姻だの塩鉱だので忙しかったというのに、いつの間に考えていたのだろう。
赤髪をかく間にも、サーシャは別の壺を取る。
「他にもある。この壺は、旅路で手に入れた。川魚を漬けたものだな」
「さ、魚っ? 大丈夫なのかっ?」
「魚は遊牧の民には高級品だ。塩漬けにしてでも、奥地へ運び、味わってみたいというわけだ」
ずい、とサーシャは桶を突き出した。
艶のある唇が、悪戯好きな弧を描いた。
「さて。試してみよう、我が君よ」
結論からいえば、彼女の魚肉は飛び上がるほど塩辛かった。こいつよりもさらに味がきつく、臭いも強烈、さらには身もグズグズになっている果たして保存する必要があるのか不明なニシンの漬け物もあるらしい。
エリクが入ってこなければ、俺は中毒で倒れていただろう。
キーワード解説
〔苦汁〕
製塩の副産物。
飲み物の白い部分(タンパク質)を凝固させる効果がある。サーシャの試みは、果たして……?
東の方では、別の使い方をするとか。