表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/50

2-4:塩漬け

 階段を上る。

 荒野の春は、一年で最も過ごしやすい。朝の空気は適度に冷え乾いて快適だ。段を蹴る足取りも、軽くなろうというものだ。


「若様、お戻りですか」


 庭師のロブじいさんが出迎えた。日焼けした顔をほころばせて、手には赤い花を持っている。剪定の途中だったらしい。


「こんなにお早く。見回りですか?」

「ああ」


 大きく息を吸った。花が香る。

 荒野でここまでの花壇を作るのだから、このじいさんの腕は大したものだ。


「いつもより、ちょっと早めに起きたものでな」

「ほほ。それはよろしゅうございます」


 笑って、ロブじいさんは剪定挟みをぱちんと走らせた。


「花も朝が元気です。朝にしか咲かない花もありますでな」


 肩をすくめておいた。


「花に顔を忘れられないよう、これからも早起きしてみるか」


 館に戻っても、まだどこかよい香りがした。朝しか見れない花があるというのも、本当なのだろう。


「仕事前に、湯を浴びておく」


 そう声を張って、奥へ向かった。ばあやに聞こえなかったのか、返事がない。まあ待つこともなかろう。

 荒野暮らしは埃との付き合いだ。ここで暮らして五年も経てば、誰でも風呂が好きになる。

 外套を脱ぐと、さっそくぱらぱらと土埃が舞った。外で落としてくるんだった。

 浴室に近づいても、花の香りがする。

 はて。ロブじいさんは、水場にも花を活けたのだろうか?

 風呂場を覗きこむ。

 俺は間抜けだった。香りに誘われるなど、まるで虫も同然ではないか。


「あ」


 白い背中に、目を奪われた。

 タイル張りの浴室にうっすらと陽が差し込み、自宅だというのに、神秘的な雰囲気である。

 照らされるのは、白磁のような肌。張りと艶があり、うなじの向こうには頬が見える。長い黒髪は今や解かれて、体の前側に流されているようだ。

 すっと背の真ん中に通った筋がある。

 そいつを追っていくと、胴のくびれから、ふっくらとした腰まで見えるのだった。

 俺の口は、空気を求めるように開閉しただろう。

 目の錯覚でないか確かめるために、さらに数秒の間を要した。


「だれだ」


 ようやく思い出した。

 同居人がいるのだ。

 ぴちょん、と髪から水滴が垂れた。

 背中の主は、こちらを見た。自らの肌を確かめるように、肩を抱いている。


「す、すまん! ききき、気づかなかった!」

「フランツか」


 すまない、少し使っている。

 サーシャは動じることもなく、細い背中にそのまま指を這わせた。


 ……いや、気にしろよ。


 床には、木の筒が置かれていた。サーシャは指で中身を掬うと、それを腕の先や、首筋に塗っていく。

 白い肌に、クリームに似た何かが溶けた。

 俺の頭の中でも、何かが猛烈な勢いで溶けていく。「直ちに回れ右すべし」という意見と、「動揺を見せればなけなしの誇りも吹き飛ぶ」という意見が、頭脳の内で激しく戦わされた。これは専門家の判断を必要とする。

 サーシャは黒髪を流す向きを変えた。指でクリームをすくい、反対の腕に塗っていく。


「これはな」


 俺の視線など、サーシャは気にも留めていないようだ。その証拠に、いつにも増して雄弁だ。

 紳士らしく退散しようとした俺の足は、会話によって縫い止められた。


「日焼けを止めるものだ」


 一緒に暮らして知ったが、サーシャは肌が焼けやすい。

 浴室の外にあった香りは、彼女が肌に塗る乳液のものだったのだ。


「こいつを塗らないと、肌が痛くなる」

「そんなに、ひどいのか」

「何もつけない肌では、茹でられたように赤くなってしまう」


 彼女の手袋や、口元の覆いは見せかけだけのものではないらしい。そんな体質ならば、遊牧の生活など無理してやらないでもよい気はするが。

 考えることで、俺は精神の均衡を保った。

 大丈夫だ。まだ赤面もしていない。うろたえてもいない。

 ボロを出さずに脱出できれば、記念碑を建ててもいい。


「そ、そうか」


 何が「そうか」なのか。


「……邪魔をした」


 逃げようとした時、サーシャの声がした。


「少し待ってくれ」

「……え?」

「手伝ってほしいことがある」


 サーシャは黒髪を、背の反対側へ流した。



     ◆



 柔らかく、弾力がある。思ったよりもいい肉付きに、ごくりとのどが鳴った。

 無心で手を動かす。


「どうした」


 サーシャの声は熱で濡れていた。


「手が止まっているぞ」


 こんな作業、簡単にできると思うのか。

 しかし腹をくくる。

 手を動かす。

 隅から隅まで、俺の指が触れないところがないように。

 ほう、と嫁の吐息が熱を持つ。

 指先を進める度に、肉は赤くなり、艶める。このままでもむしゃぶりつきたいほどだが、その情動は抑えた。


「よい手つきだ」

「あ、ああ」


 生返事で、俺は目を閉じた。

 先ほど目にした白い背中。瞼の裏から、離れない。

 あの背中を、あの空気を、そのまま絵画にできたなら。それだけで絶世の画家間違いない。

 俺は画家でないので、生唾を飲み込むしかできなかったが。


「も、もういいか?」

「もっとだ」

「だが……」


 くすりとした笑いが、耳をくすぐった。

 だめだ。明らかに一線を超えてしまう。


「大丈夫だ。さぁ……」


 そうだ。あの背。

 あんなものを見た後に――俺は何をやっているのだ!?


「うん」


 サーシャは頷いた。


「いい塩加減だ」


 サーシャは監督者の目線で、俺の作業を覗き込んでいた。

 俺は横を睨む。じゃりじゃりと手を動かしながら。


「お前も手伝え」

「手が荒れる」


 どこの姫君かと思ったが、実際に姫とは誤算であった。

 サーシャは笑った。


「冗談だ。どれ、手本を見せて進ぜるぞ」


 白い腕が伸びてきて、俺と代わった。このために、日焼け止めは指の方までは控えていたらしい。


「揉むというよりは、こうやって、すり込むのだ」


 言うだけあって、サーシャの手つきは慣れたものだ。

 手がべたべたになることも構わず、時折、力加減や角度を変える。白い頬が紅潮し、小さく息が漏れる。

 こんな作業に不必要な色気を振りまくのはやめていただきたい。

 それとも、さっきの後ろ姿が記憶から消えない俺が悪いのだろうか。


「これで、よし!」


 サーシャは手を叩いた。


「ふふ。塩があって、これを試さないのはもったいない」


 サーシャは樽の上に載った、瑞々しい羊肉(、、)を見つめた。フランツィアの岩塩が、これでもかというほど、びっしりとまぶされている。


「……なぁ、塩が強すぎないか?」

「大事ない。これくらいのはずだ」


 ドアがノックされた。

 入ってきたのは、ばあやだ。


「フランツ様……ひぇっ?」


 ばあやが目を丸くしたのも道理だろう。

 俺もサーシャも腕まくりをして、樽に置かれた肉と向かい合っているのだ。


「……あの。お、お二人は何を?」


 サーシャが応えた。


「メリンダ殿」

「ばあや、で結構でございます」

「む……では、ばあや殿」


 俺を二〇年以上世話してくれたばあやには、メリンダという名前がある。

 彼女は「ばあやで結構でございます」と言ったが、サーシャは一々名前の後ろに殿をつけた。年上の女性ということで、彼女なりに敬意を払っているらしい。


「丁度いい。工程を説明しよう」


 サーシャは羊肉を指した。軍義でも始めそうな凛々しさだが、そこにあるのは食材である。


「これは塩漬けにした後、乾燥させ、油を塗り、(いぶ)す」

「……は、はぁ」

「塩を大量に使うのは、より美味に、長く保存するためだ。交易の道は、家畜を伴うわけにはいかぬからな」


 ばあやはまだ話が見えぬ様子だった。

 俺はため息をついて、言った。


「つまり、ハムのことだよ」


 ふふんと上機嫌な姫君は、いつもより年下に見えた。しかし体つきは十分に大人のそれであったと、いらんことを考えた。


キーワード解説


〔塩漬け〕


 最もありふれた保存法の一つ。食材を塩で保存する。

 塩(塩化ナトリウム)の塩素には殺菌効果があるため、腐敗を防ぎ、肉の熟成を助ける。

 ただし塩加減には気を付けること。


――――――――――


お読みいただきありがとうございます。


ここまででブックマーク、評価、感想など頂けましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新作始めました! 本作が好きな方なら、お勧めです。
追放から始まる、内政・経営ファンタジーです!
追放令嬢の孤島経営 ~流刑された令嬢は、漁場の島から『株式会社』で運命を切り開くようです~

小説家になろう 勝手にランキング

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ