2-4:塩漬け
階段を上る。
荒野の春は、一年で最も過ごしやすい。朝の空気は適度に冷え乾いて快適だ。段を蹴る足取りも、軽くなろうというものだ。
「若様、お戻りですか」
庭師のロブじいさんが出迎えた。日焼けした顔をほころばせて、手には赤い花を持っている。剪定の途中だったらしい。
「こんなにお早く。見回りですか?」
「ああ」
大きく息を吸った。花が香る。
荒野でここまでの花壇を作るのだから、このじいさんの腕は大したものだ。
「いつもより、ちょっと早めに起きたものでな」
「ほほ。それはよろしゅうございます」
笑って、ロブじいさんは剪定挟みをぱちんと走らせた。
「花も朝が元気です。朝にしか咲かない花もありますでな」
肩をすくめておいた。
「花に顔を忘れられないよう、これからも早起きしてみるか」
館に戻っても、まだどこかよい香りがした。朝しか見れない花があるというのも、本当なのだろう。
「仕事前に、湯を浴びておく」
そう声を張って、奥へ向かった。ばあやに聞こえなかったのか、返事がない。まあ待つこともなかろう。
荒野暮らしは埃との付き合いだ。ここで暮らして五年も経てば、誰でも風呂が好きになる。
外套を脱ぐと、さっそくぱらぱらと土埃が舞った。外で落としてくるんだった。
浴室に近づいても、花の香りがする。
はて。ロブじいさんは、水場にも花を活けたのだろうか?
風呂場を覗きこむ。
俺は間抜けだった。香りに誘われるなど、まるで虫も同然ではないか。
「あ」
白い背中に、目を奪われた。
タイル張りの浴室にうっすらと陽が差し込み、自宅だというのに、神秘的な雰囲気である。
照らされるのは、白磁のような肌。張りと艶があり、うなじの向こうには頬が見える。長い黒髪は今や解かれて、体の前側に流されているようだ。
すっと背の真ん中に通った筋がある。
そいつを追っていくと、胴のくびれから、ふっくらとした腰まで見えるのだった。
俺の口は、空気を求めるように開閉しただろう。
目の錯覚でないか確かめるために、さらに数秒の間を要した。
「だれだ」
ようやく思い出した。
同居人がいるのだ。
ぴちょん、と髪から水滴が垂れた。
背中の主は、こちらを見た。自らの肌を確かめるように、肩を抱いている。
「す、すまん! ききき、気づかなかった!」
「フランツか」
すまない、少し使っている。
サーシャは動じることもなく、細い背中にそのまま指を這わせた。
……いや、気にしろよ。
床には、木の筒が置かれていた。サーシャは指で中身を掬うと、それを腕の先や、首筋に塗っていく。
白い肌に、クリームに似た何かが溶けた。
俺の頭の中でも、何かが猛烈な勢いで溶けていく。「直ちに回れ右すべし」という意見と、「動揺を見せればなけなしの誇りも吹き飛ぶ」という意見が、頭脳の内で激しく戦わされた。これは専門家の判断を必要とする。
サーシャは黒髪を流す向きを変えた。指でクリームをすくい、反対の腕に塗っていく。
「これはな」
俺の視線など、サーシャは気にも留めていないようだ。その証拠に、いつにも増して雄弁だ。
紳士らしく退散しようとした俺の足は、会話によって縫い止められた。
「日焼けを止めるものだ」
一緒に暮らして知ったが、サーシャは肌が焼けやすい。
浴室の外にあった香りは、彼女が肌に塗る乳液のものだったのだ。
「こいつを塗らないと、肌が痛くなる」
「そんなに、ひどいのか」
「何もつけない肌では、茹でられたように赤くなってしまう」
彼女の手袋や、口元の覆いは見せかけだけのものではないらしい。そんな体質ならば、遊牧の生活など無理してやらないでもよい気はするが。
考えることで、俺は精神の均衡を保った。
大丈夫だ。まだ赤面もしていない。うろたえてもいない。
ボロを出さずに脱出できれば、記念碑を建ててもいい。
「そ、そうか」
何が「そうか」なのか。
「……邪魔をした」
逃げようとした時、サーシャの声がした。
「少し待ってくれ」
「……え?」
「手伝ってほしいことがある」
サーシャは黒髪を、背の反対側へ流した。
◆
柔らかく、弾力がある。思ったよりもいい肉付きに、ごくりとのどが鳴った。
無心で手を動かす。
「どうした」
サーシャの声は熱で濡れていた。
「手が止まっているぞ」
こんな作業、簡単にできると思うのか。
しかし腹をくくる。
手を動かす。
隅から隅まで、俺の指が触れないところがないように。
ほう、と嫁の吐息が熱を持つ。
指先を進める度に、肉は赤くなり、艶める。このままでもむしゃぶりつきたいほどだが、その情動は抑えた。
「よい手つきだ」
「あ、ああ」
生返事で、俺は目を閉じた。
先ほど目にした白い背中。瞼の裏から、離れない。
あの背中を、あの空気を、そのまま絵画にできたなら。それだけで絶世の画家間違いない。
俺は画家でないので、生唾を飲み込むしかできなかったが。
「も、もういいか?」
「もっとだ」
「だが……」
くすりとした笑いが、耳をくすぐった。
だめだ。明らかに一線を超えてしまう。
「大丈夫だ。さぁ……」
そうだ。あの背。
あんなものを見た後に――俺は何をやっているのだ!?
「うん」
サーシャは頷いた。
「いい塩加減だ」
サーシャは監督者の目線で、俺の作業を覗き込んでいた。
俺は横を睨む。じゃりじゃりと手を動かしながら。
「お前も手伝え」
「手が荒れる」
どこの姫君かと思ったが、実際に姫とは誤算であった。
サーシャは笑った。
「冗談だ。どれ、手本を見せて進ぜるぞ」
白い腕が伸びてきて、俺と代わった。このために、日焼け止めは指の方までは控えていたらしい。
「揉むというよりは、こうやって、すり込むのだ」
言うだけあって、サーシャの手つきは慣れたものだ。
手がべたべたになることも構わず、時折、力加減や角度を変える。白い頬が紅潮し、小さく息が漏れる。
こんな作業に不必要な色気を振りまくのはやめていただきたい。
それとも、さっきの後ろ姿が記憶から消えない俺が悪いのだろうか。
「これで、よし!」
サーシャは手を叩いた。
「ふふ。塩があって、これを試さないのはもったいない」
サーシャは樽の上に載った、瑞々しい羊肉を見つめた。フランツィアの岩塩が、これでもかというほど、びっしりとまぶされている。
「……なぁ、塩が強すぎないか?」
「大事ない。これくらいのはずだ」
ドアがノックされた。
入ってきたのは、ばあやだ。
「フランツ様……ひぇっ?」
ばあやが目を丸くしたのも道理だろう。
俺もサーシャも腕まくりをして、樽に置かれた肉と向かい合っているのだ。
「……あの。お、お二人は何を?」
サーシャが応えた。
「メリンダ殿」
「ばあや、で結構でございます」
「む……では、ばあや殿」
俺を二〇年以上世話してくれたばあやには、メリンダという名前がある。
彼女は「ばあやで結構でございます」と言ったが、サーシャは一々名前の後ろに殿をつけた。年上の女性ということで、彼女なりに敬意を払っているらしい。
「丁度いい。工程を説明しよう」
サーシャは羊肉を指した。軍義でも始めそうな凛々しさだが、そこにあるのは食材である。
「これは塩漬けにした後、乾燥させ、油を塗り、燻す」
「……は、はぁ」
「塩を大量に使うのは、より美味に、長く保存するためだ。交易の道は、家畜を伴うわけにはいかぬからな」
ばあやはまだ話が見えぬ様子だった。
俺はため息をついて、言った。
「つまり、ハムのことだよ」
ふふんと上機嫌な姫君は、いつもより年下に見えた。しかし体つきは十分に大人のそれであったと、いらんことを考えた。
キーワード解説
〔塩漬け〕
最もありふれた保存法の一つ。食材を塩で保存する。
塩(塩化ナトリウム)の塩素には殺菌効果があるため、腐敗を防ぎ、肉の熟成を助ける。
ただし塩加減には気を付けること。
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