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ブルーラグーン

作者:鯨井あめ
「おまえさぁ……」

隣の席で、新太がグラスを傾けた。
溶けかけた氷がカラン、と崩れ、緑の水面が揺れた。アラウンド・ザ・ワールドだ。

「そんな些末なことで言い合いになるってどうよ?」

新太の言いたいことは、よくわかる。俺自身、しょうもないなぁと思っているのだ。
けれど。
うなだれると、ため息が聞こえた。

「恵梨香ちゃんだって、本気なわけじゃないだろ」
「たぶん」
「たぶんって」

カウンター席のいいところは、正面に話し相手の顔が見えないところだ。
目の前にはずらりとボトルが並んでいる。下から照らされた淡い明かりのなかで、魅惑的に輝いている。

「もう終わりかもしれない」
「はぁ?」

抑え気味だが、決して弱くない語尾で、新太がこちらを見たのがわかった。

「必死になってアプローチしてやっと付き合えたのはどこのどいつだよ」

俺だよ。
俺だけど。

「『他の女のところに行っちゃえ』って言われた」
「それもう聞いた」
「言ったっけ」
「3回目だぞ」

うなりながら額をカウンターにつけた。
俺がいちばんわかってる。
恵梨香は最高だ。大学のなかでもひときわ美人で人がいい。ファンクラブがあるのも、男子学生には周知の事実であって、高嶺の花なのだ。俺なんかと付き合ってくれてるのは、ほんと、奇跡に近い。
新太が「マスター、こいつにラムコーク」と言う。

「そもそも恵梨香ちゃんなんて天使がおまえと一緒にいてくれてるだけでさ、もうなんか、いろいろ満喫してるだろ」
「してる」
「同じ空気吸ってるだけでいいってやつもいるんだからな」
「気持ち悪」
「喜べ。おまえの彼女が神格化してるってことだ。アイドルも顔負けだろ」

俺が黙ったので、新太が「まあ、なんだ」と取り繕うように続ける。

「おまえは贅沢なんだよ」
「知ってる」
「そんでもってわがままだな」
「わかってる」
「これ以上何を望むんだよ」
「別に何かを望んだわけじゃない」
「話を聞く限りじゃ」
「強制はしねぇよ」
「なら仲直りすればいいだろ」
「……」

でも、恵梨香のあの言い方は酷い。

「酒の席での喧嘩なんだし、恵梨香ちゃんだって完璧なロボットじゃないんだから、遅刻だってするだろうし」
「でも俺と飲む約束だった」
「まあ、それは、難しいところで」

ゆっくりと顔を上げると、初老のマスターが俺の前にラムコークを置いた。

「お悩みですね」

新太が代わりに「そうなんですよ」と言う。
俺も新太も、アルコールにはかなり強い。このバーは行きつけだった。もちろんマスターとも顔見知りだ。
新太がアラウンド・ザ・ワールドを一口飲んで、「こいつがね」

「彼女と宅飲みする約束してて、でもレポートで帰るのが遅れたんですよ。その間に彼女が女友達とちょっと飲んでから、」
待て。訂正。「かなり」
「かなり飲んでから、しかも遅れて来たもんだからって、怒ってるんです」

マスターが「そうですか」とだけ言う。さすが年の功というか、うなずかれるだけでも妙に安心した。

言葉の羅列だけで考えると、俺に非があるように聞こえるが、実際はもっと複雑だ。
恵梨香は随分遅刻した。
俺が送った「1時間遅くなる」というメッセージに既読はついていなかったから、本来の時間から見るとさらに遅刻していることになる。友達とさぞかし盛り上がったのだろう。仲良く飲みながら!
それに、彼女の遅刻はこの頃頻発していたのだ。
そう愚痴をこぼすと、新太が苦笑した。

「かわいいもんだろ」
「かわいくねぇよ」
「『ごめーん、遅れちゃった!』『いいよ。ほら、行こう』までが待ち合わせのお楽しみだろうが」
「おまえのな」
「寛容さをアピールできるし」
「おまえがな」

恵梨香は最近ずっとイライラしていた。理由はわからない。「本当に、単に苛立ってるの。いろいろうまくいかなくて」だそうだ。実際、彼女は忙しそうで煩わしそうだった。それが時間にルーズだった原因だったのかもしれない。
俺にも理解が足りなかったのか?
いや、それとこれとは話が別だ。
そもそも、相手が天使だからといって、俺は甘くしたりしないし、嫌なことはちゃんと伝える。それは恵梨香も同じだ。
空になったグラスを傾けた新太は、マスターにアンジェロを注文する。相変わらずの笊め。

「おまえのそれは、たぶん一般世間から見たら正しいんだよ」

唐突な褒め言葉に、「なんだよ」と若干距離を取る。

「常識的で正義的だ。間違っちゃいない。相手の非を指摘して正そうとしている」
「そうだよ」
「でもな」

新太は俺の鼻先に、ビッと人差し指を突きつけた。

「普通なら、男が折れる。おまえは特にそうすべきだ。おまえから言い寄ったんだぞ」

たしかに俺から交際を申し込んだが、そのとき恵梨香は、「わたしから言っちゃってもよかったのに」と照れながら承諾してくれたのだ。

「せっかく成就した恋をおまえ」
「両思いだよバーカ」
「……ならなおさら、謝って早く仲直りすべきだ」
「俺が謝るのかよ」
「男が折れる」

今回ばかりは納得が行かない。

「何日、口きいてないんだ?」
「7日」

すぐ答えられるのは、数えているからだ。

「考えてみろよ」
「なにを」
「おまえが彼女と話さない間に、彼女は別の男と飲みに行ってるかもしれない」
「やめろよ」
「知らない男の家で飲んでいるかもしれない」
「やめろ」
「新しい男と」
「やめろって」

グラスを持っていた手に力が入った。
新太は「落ち着け」と焚き付けておきながら平然と言う。

「やめろって思うなら、謝ってこい」
「でも」
「なんだよ」
「今まで俺が折れてきた」
「今回も折れとけよ」
「今回ばかりは」

あのとき、恵梨香の言葉には、明らかな棘があった。
そんなにわたしが嫌なら、別の女性と付き合えばいい。あんたはいつもそうやって正しいことばかり言って、わたしのことを考えてくれない。
こんな類のことを、もっと汚い言葉で強く叫んだ。そして俺を罵った。
それは彼女に溜まっていた鬱憤が手助けしたに違いないのだが、それでもやはり、言葉は俺に向かっていたし、深く刺さった。誰が聞いても酷いと感じる内容を、彼女は言い放ったのだ。

「早くしないと、別の男に取られるぜ、ほんとに」

新太の意見は最もだ。恵梨香は、本当にかわいい。フリーになったら引く手数多。相手に困るわけがない。

「恵梨香ちゃんは、美人だろ?」
「美人」
「そんな彼女がいるんだから、大切にしなきゃだろ?」
「……」

大切にしたつもりだった。
ただ、許せなかった。

「大切に、できてなかったのかな」
「おまえは、自分の気持ちも恵梨香ちゃんの気持ちも大切にしてるよ」
「してる」
「けどな、昔の捻くれた気持ちだけを大切にするんじゃなくて、今の素直な気持ちを優先すべきだってことだ」
「いまの、すなおな」
「おまえ、今どうしたいんだよ。こんな野郎に愚痴聞いてもらいたいのか? 慰めてほしいのか? 違うだろ?」
「……」

違う。
俺は。

「ほら、わかっただろ?」

新太がグラスを置いた。コトン、と音がする。

「ここは、1週間前だ」
「え?」

脈略のない意味不明な宣言に、新太を見る。

「俺たちは今、1週間前にいる」
「はあ」
「1杯奢ってやるから。おまえがそれ飲んだら、今日は遅いし、解散としようぜ」

腕時計の短針は、まだ9時を回ったところだ。

「今日が終わるまでにな、彼氏さん」

新太は、カウンターの端でグラスを拭いていたマスターに、優しく声をかける。

「マスター、こいつにモスコミュール」

   ○

小走りでバーを飛び出していった親友を見送り、新太はスマホの画面を見た。

『今行った』
『ありがとう』
『おまえらさ、似たもの同士でお似合いなんだから、仲良くやれよ』
『だって、ああいうのはわたしじゃだめなんだよ。似たもの同士だから。それに、』
『ああ、たしかにあいつも最近ストレス溜まってたけど』
『でしょ?』
『でもここまでケンカしなくても』
『ほんとありがと。今度奢る』
『礼が欲しいわけじゃなくてな、俺はただ親友が穏やかに過ごしてほしいだけなんだよ。その彼女も』
『優しいね』
『ま、おまえの指示通りにしたらころっと素直になるあいつもあいつだけど』
『(笑)』
『結局あいつはおまえの掌の上なんだから、うまく終息させろよな』
『がんばってみる』
『それから、元カノとはいえど女の子に奢ってもらうのはかっこ悪いから、気にすんな』
『ありがとう』

「な、マスター」

画面をタップしながら、新太は苦笑いする。

「ほんと、女って怖いわ」
「そうですかね」
「それに比べてあれだ、男ってのは、ほんと誠実だな」

マスターがグラスを逆さにして並べる。

「でも、カクテルだって美味いんだよな」

つぶやいた新太は、カウンターの隅にひとりで座っている女性を見止めた。「マスター」と小声で言う。

「彼女にキスインザダークを」
「怖いのではなかったのですか」

含みのある笑みを浮かべるマスターに向かい、彼は片眉を上げる。

「カクテルはきれいで美味いけど、アルコールが強い。女はきれいで美しいけど、怖ろしい。それくらいでいいんだよ」

アラウンド・ザ・ワールド
冒険

ラムコーク
もっと貪欲に

アンジェロ
好奇心

モスコミュール
喧嘩をしたら、その日のうちに仲直り

キスインザダーク
刺激的な恋

ブルーラグーン
誠実な愛

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