少年は胸を張って、生きたいと願う
《ならば少年。貴殿は速やかに生まれ変わるが良い。魂の大海で怠惰な生活を送ることは許されんのでな》
「了解。俺の行き先はどっち?」
「あちらの光になります」
文華様の御手が指し示す先に、蒼と緑が入り交じった力強い光を放つ星が見えた。どうやらそれが移住先の世界らしい。
ユウが一歩踏み出すと、文華様から離れて行く感覚を強く感じた。たった、僅か一歩だというのに、寂しさが溢れて心を締め付ける。
「……」
思わずユウの右の掌は胸元を抑えるように動き、そして後ろを振り返った。胸の痛みと重なるように、今にも泣きそうな彼女の顔が視界に映る。
―― あぁ、これは神様の想いだ。
繋がれた縁を辿って、文華の寂しさが逆流してきているのだとユウは理解していく。
彼女はまた、永い孤独を強いられることになるのだろう。少なくとも、ユウが彼女の名を誰かに語り聞かせる機会を得るまでは、ずっと。
大丈夫。心配しなくても良い。そんな風に、元気付けられるであろう言葉は、何故か口から出ないまま、ユウもまた泣き笑いのような表情を見せた。
「一つだけ、聞こうと思っていたんだ」
「……え?」
「文華様から貰ったユウの文字、どんな意味を当て嵌めているのかなって」
「それは、その……秘密、ですっ」
それを伝えてしまったら縁が切れてしまうような、ずっと遠くに離れて行ってしまうような、そんな気がしたから――彼女は言えなかった。
未練がましいと知りながら、心の内を灼く哀しみは消えない。彼女のそれを表情から察して、ユウは優しく微笑む。
「なら、教えて貰えるよう頑張って……また今度、聞きに来るよ。待っててくれる? 文華様」
「待ちますっ、ちゃんと待ち続けますっ」
「良かった」
そしてユウが再び光の果てに向き直ろうとした時、
「ゆ、ユウさん」
呼び止めた彼女はぎこちない、それでも精一杯の笑顔を浮かべて。ゆっくりと、その言葉を紡いだ。
―――Cari persone. …… Non vedo l'ora di onoscerti……っ.
彼の識らない言語を用いた、加護も届かない、想いも通じないかもしれない。けれど、大切な人への別れの言葉。
―――ありがとう。
なのに彼は間を置かず、輝くような笑顔で応えてしまう。それは永い時を過ごした神をして、信じ難い光景だった。
「俺も」
事実、彼は何の力も使ってはいない。彼はただ、善き神としての彼女を信じ、受け入れただけだ。
恥ずかしさで言葉を隠しつつも、勇気を以って振り絞られたであろう彼女の言葉を、短い相対の中でも善きものとして信じ、自らの魂を、己の心を委ねた。
ただ、それだけのこと。
「また貴女に遭う日まで、胸を張って生きてくるよ」
けれど、それを成せる者が一体どれだけ居ると言えるのだろう。
出会って間もなく、信用や信頼を育む時間も無く、それでもなお笑顔で信じることを選んでくれる者など。
千に、万に、億に一つ。いや、それでもまだ足りないかもしれない。これはそれほどの奇跡なのだ。だからこそ彼女は善き神として、彼を縛る手を離さなくてはならないのだと理解した。
「だから」
「……もう、大丈夫です」
彼女は目の淵に溢れた涙をその細指で拭う。再び双眸を見開いた時、空色の瞳には感謝を湛える力強い光が宿っていた。
「また、いつかお逢いしましょう」
「あぁ。また、いつか」
「はいっ」
弾けるような笑顔を背に、ユウは光に向かって走り出す。振り返ること無く、徐々に強くなっていく光の奔流へと身を投じていく。
《……一つだけ、貴殿に聞きたい》
己の意識と魂の輪郭が光に呑まれ、緩やかに崩れていく。その最中、フェアリー01の厳かな声をユウは確かに聞いた。
《貴殿がかの神に信仰を捧げると決めた時。かの神は己を証明する総てを失っていた。神として振る舞うだけの力も無く、銘も分からず、発せたのは言葉のみ。もしかしたら、善き神では無かったかもしれない。だが貴殿は信仰を捧げることを決めた。何故彼女の言葉を信じた? 何故、己の魂を賭けられたのだ?》
文華がユウを自らの信徒候補として招いたのは、優しそうだと感じたからだ。自らの感性、その一点のみ。
それをユウは素直に喜び、神に今後の在り方を問い、それを以って納得したかのように視えた。だが彼女が神だと告げただけで、盲目的に平伏す者ではないことをフェアリー01はこれまでの振る舞いから理解していた。
(なんだ、そんなことか)
何故なら――ユウが口にした『皆と共に、優しい世界を創ってくれるか?』という問い掛けも「神様の良識に期待しても良いですか?」という意味合いが強く、殆ど拘束力を持たないからだ。精々が神に我慢を強いる程度の約束であり、その神をして我慢ならぬ出来事が起きた時は反故にされてしまうと考えていた。同時に、それで良いとも。
《答えられよ。……いや、我が知りたいのだ》
だからフェアリー01はユウに問い尋ねた。文華が彼に認められた本当の理由を知りたいと願ったが為に。
(……彼女は、チャンスを与えられていた)
《? 誰にだ》
(貴方にだ)
《貴殿は、識って――?》
(俺は、後押しをしただけだ)
フェアリー01と名乗る存在は文華の存在に気にかけていた。ただ喪うには惜しいと思っていたのだろう。それを確信したのは約束の後になってからの事だが、此処に至っては疑う余地が無い。
(彼女はきっと、大きな失敗をしたんだろう?)
《……ああ》
(でも、誰だって初めての時がある。誰だって失敗する)
《……そうだな》
(なら、挽回のチャンスが来た時。誰かが信じて、背中を押してやらなきゃ……なにも始まらないし、なにも変わらない)
ユウが文華を信仰の対象として認めた理由に、真も裏も無い。
文華の『一生懸命頑張る』というたった一言。その言葉を彼女が絞り出したという、ただ一度の実績が全てだったのだから。
神が人の善性を信じ、善き世を迎えるための力を揮うように。
人もまた神の良識を信じ、善き世を存続させるために奮起するもの。
天に縋るように祈り、願うだけで何かが果たされるというのなら。目を覆いたくなるような地獄の如き光景など、この世に存在し得る筈が無い。同時に祈りを聞き届ける存在も無く、願いなど無力で、他者を想うことが愚かであるのなら、世は死と闇だけが真実となるだろう。
神と人が共に織りなす幸福への祈り、それがユウの望んだ未来だった。
だからユウは、勇気という名の力を奮った彼女を信じた。それで裏切られたり、間違った方向に進むのなら。とことん暴れて抗う。それでも駄目だったら、一緒に地獄に落ちてやる。何の躊躇いもなく、ユウはそれを心に定めていた。
(でも結局は、俺があの子を信じたかったからだ)
《……理解した。そんな生き方は――嫌いじゃないがな。貴殿はきっと、大馬鹿者と呼ばれることになるだろう》
(そうか)
フェアリー01の呆れたような、それでいて楽しげな声音を聞いて、ユウは笑った。大馬鹿者で結構。広い世の中で、そんなヤツが一人ぐらいいても罰は当たらないだろうと告げるように。
(またな)
《ああ、また》
遠く離れた場所で、光の粒となって世界に融けていくユウ。その姿を見届けた後、フェアリー01は頭の上に乗せていたつば付き帽子を掴み、目元を隠すように深く被った。
そして一人ごちる。その胸中は驚きと、納得と、感心が濃く広がっていた。
《……アイツが手放したがらなかったのも道理という訳か》
誰かに愛されるためではなく、誰かを愛するために生まれた意思。
それを特別な力などではないと告げるように、身を以て証明するユウのような者こそが何よりも尊く、得難い宝なのだと神々は知っている。
神の言葉に縛られず、縋ることなく、自らの意思において善き者であり続けようとする。それがどれほど難しい生き方であるかなど、歴史を紐解くまでもない。それこそ世界屈指の難行であろう。
《世界再生の種、か……》
フェアリー01の言葉の先を聞く者は誰も居ない。その口から溢れた謝意さえも、虚空に消えた。




