少女との契約(やくそく)
星々の大海が三百六十度見渡せる場所で、バスケットボールサイズの、白く、ふわふわした球体が浮遊している。
天が何処で、地が何処なのか、さっぱり分からない。その場で球体がくるりと回転すると、途中で一人の少女が視界に入った。
「――さん、初めまして」
○○とは自分のことだろうか? 疑問を浮かべるように、球体は斜めに振れた。
「はい、私は――と申します。実は貴方に」
「……」
球体は――の部分を聞き取れなかった。その前後はきちんと理解出来ているというのに。
もう一度言って欲しい、と告げるように球体は四角を描くように動いた。
「あ、はいっ。えっと、あれ……!?」
少女はあたふたと挙動不審な動きを球体に披露した。それはコンビニアルバイト初勤務の日、想定外の事態にいきなり直面してしまった新人のような慌て具合だった。
「な、な、なっ、名前がっ!? わ、私の名前は――っ!?」
「?」
それは驚くべきことなのだろうかと、疑問を投げかけるように球体が左右にふるふると震える。
対抗するかのように少女はぷるぷると腕を震わせると、天を仰ぎながら右手を伸ばした。
「かっ神様管制室っ、応答願います!」
《こちら管制室フェアリー01、どうした新任の神よ》
「私の名前が無いんですっ。こ、ここここれは一体どういうことなのでしょうか!!」
《何? ……状況を把握する。十秒ほど時間を貰いたし》
「は、はい……っ」
カタカタピコンピコンと軽やかな音が辺り響き渡り、丁度十秒経過したその時――。
少女にとって致命的で、最悪とも言える返答が為された。
《神よ。その、大変申し上げ難いことなのだが……貴殿の名前は世界から完全に忘れ去られてしまっている》
「えぇっ!?」
《現在、詳細な原因を突き止めている最中ではあるが――恐らく復活させることは出来ないだろう》
「な、何で……ま、まさかっ!?」
《うむ、やはりこれは……》
気の毒と言う他にないと告げるように、フェアリー01と呼ばれた存在は厳かな声で言葉を紡ぐ。
《…神の一柱に連なるための最終試練。貴殿はそれを乗り越えることに失敗した》
「うっ……嘘……やっと……やっと神様になれたのに……っ。誰も私の名前を覚えていないだなんて……っ」
「……」
流れから察するに、どうやら前の前に居る少女は新任の神様らしい――そう球体は理解した。
それと、神に至った者は自分の名前を誰かに告げる時、誰かの記憶に存在しなければならないと言う独自のルールがあったらしく。
それが叶わないという事実を知るや、少女はがっくりと項垂れ、膝を折って、両手を枕に泣き出してしまった。
「マイナーだったのは重々承知してたけど、千年修行に耐えたのに……っ耐えたのにぃ……っ!」
永い修行の果てに神の位に辿り着いたは良いが、信仰する者が存在しない為に名もなき神となってしまった。
例え誰の記憶に無くとも、書の一節にでも残っていたのなら彼女の名は在った筈なのだ。
なら。誰かの記憶に残るどころか、彼女の名が残された文字さえも失われたと考える他無い。少女は事態をそのように理解した。
これまでの忍び難きを忍び、耐え難きを耐えてきたのは一体何の為だったのかと、少女の目の淵に涙が溢れていく。
「うぅう……ぐすっ……ぐすっ……」
「……」
そんな少女を見つめ続ける事に耐えかねたかのか、球体は宙に浮いたまま動かなくなった。
球体は思う。どうすれば彼女を慰められるのだろうかと。手も口も無い自分では、ただただ漂うだけ。
元より対異性用の対人スキルなど球体は有していなかったが、何とかせねばという気持ちだけが先走る。だがハードルは如何せん高い。球体の過去には異性との交際経験など絶無。それでは女心など解かろう筈も無いからだ。
普通科高校でも男子校を選び、社会に出ても野郎ばかりの職場で、異性とは仕事上における事務的なやり取りばかり。やはりこれは問題だったか――。
「?」
と、そこまでの記憶を幽玄の海からほじくり返した所で、球体は初めて自身の存在に疑問を抱いた。
自分は誰だ? 何者なのだ? だが、それは後だ。今、すべきことは眼前の少女を慰めることである。
苦悩の理由を知りながら、ただ一人悲嘆に暮れる少女を前にして、何もしないという選択は人としてどうだろうか。
無論、眼を伏せて聞かなかったことにするのも選択の一つだろう。
初対面の者が我が物顔で、誰かの苦悩に踏み込むという行為は慎重であってしかるべきだ。
しかし、それが年端もいかない幼子であればどうだろうか。まして誰にも触れられず、絶望しながら涙を流していたのなら。
例え庇護欲から生まれた衝動であれ、手を差し伸べることを願うのは道義に反するだろうか? 否。“彼”はそれだけは在り得ないと心を定めた。
「――、――」
白の球体が姿を変える。それは彼の幼少期と呼べるような少年の姿ではあったが、童子である彼女との釣り合いは不思議と取れていた。
彼は真っ先に少女の前に立ち、ゆっくりしゃがむと、彼女の小さな肩にぽんと手を置いて口を開いた。
「どうすれば貴女の名前を取り返せる?」
「……ぐすんっ……」
少女は徐ろに身体を起こすと、正座の姿勢で涙を袖で拭いながら彼を見据えた。
「……もう、出来ないと思います。前例はありますが、原初の海に還るのが通例でして……」
信仰を捧ぐ者も無く、神の権能を授ける者も居ない。その証明である神の銘が世界から失われているのだ。
そんな現状に絶望して、もういいやと、海に身を投げるような心境になるのも無理は無いと言えた。だが幸いなことに、彼女の顔から垣間見えた絶望はそこまでに至っていないように視えた。
「なら、貴女を祀る者を募ればいい。まだ、神としての資格は失っていないんだろう?」
彼がちらりと天を仰ぐと、フェアリー01が声のみで応じる。
《確かに、資格を完全に喪失した訳ではない。だが、貴殿が彼女を祀るのか? こう言ってしまうと何だが、何故だ?》
「何故? 理由、かぁ……。……うーん」
同情が無いとは言えない。むしろその感情が大半だろう。だが、それだけで彼女が望むそれを叶える理由に値するのかと言われれば、確かに疑問だ。
彼が建設的な意見を連ねて彼女を助けることと、神としての彼女を信じ、自ら奉ろうとすることは決して等価ではない。
「あっ。そういや俺、神様からの頼みごとを聞く最中だったんだよな」
内容はともかく、自分が選ばれた理由が知りたいと。彼はわざとらしく呟いて、彼女に合わせるように正座で対峙する。
これは拒否権を持ちえる者が出せる、最大限の譲歩だった。最初からそれが無いのなら、彼女はただ彼に命じ、従わせれば良いのだ。
それをしないということは、多少なりとも話が出来る間柄であり、条件諸々を引き出せるということに他ならない。
出された答えが気に入らなければ止める。気負いも後悔も無く、彼は神の言葉を待った。
「なぁ、神様。どうして俺を選んだんだ?」
「それは……その……」
彼女は恥じらうように頬を朱に染めて、目を逸らしながらも正直に答えた。
「貴方の魂を一目見て……安心するような温かさを、優しさを感じたから……です」
「……そっか」
――なら、期待に応えなきゃな。
《宜しいのか?》
確認する声に、彼は頷きで返す。
「この人は俺を見て、俺を選んでくれた。優しそうだって思ってくれたからだ。俺はそれが嬉しかったし、そう在り続けたいと思ってる。でも――」
「……でも?」
「俺が信じたい神様と、世界にも、俺はそれを求めたい」
貴女がそう在ってくれるなら――
「なぁ神様。俺以外の、他の誰かにも優しくしてくれるか? みんなと一緒に、優しい世界を創ってくれるか?」
――奉じる理由も、崇める意義も、後世に残す価値も信じられるだろうから。
「いっ一生懸命、頑張りますっ!!」
出来るかどうかは分からない。だからこそ、それが叶う為の努力を惜しまない。ありったけの想いを籠めて、彼女は叫ぶように答える。彼はそれに笑顔と手を差し伸べることで応えた。
「なら契約は成立だ。俺は、貴女に信仰を捧げるよ」
彼女は感極まって、彼の手を両の手で包み込む。ここに少年と神の契約は結ばれた。それは他愛無く、それでも大切で、はじめて交わされる約束だった。