第10章 光と光 闇と観覧車
1.
夕方5時半まであと少し。隼人と理佐は、市内中心部にあるコンサートホールにやって来ていた。ざっと見た感じ、200人ほどが入れるその会場は6割ほどが埋まっている。
「平日のこの時間に、結構集まるもんだな」と隼人が感心していると、理佐が不意に歩みを加速させた。
どうやら知り合いを見つけたらしい。満面の笑みをその美貌に浮かべて近づいていく。
「おー理佐ちゃん、おひさ!」
「今日はまた一段と気合いの入ったメイクだね!」
「つか、その顔でなぜメイクまでするの?」
(俺は――)
不意に隼人の頭の中に、選択肢が浮かぶ。
『理佐に付いていって、知り合いに近づく/どうせ指定席だからと、その辺をぶらつく』
(ギャルゲやエロゲなら後者だな、うん)
思わぬ出会いイベント発動フラグだしな。不埒な言い訳を自分にして、理佐の知り合いからの好奇の目から逃れようとする隼人に、想定どおりのイベントが起こった。
「きゃっ!?」
隼人の前方から小走りで駆けてきた女の子が、彼を避けて駆け抜けようとして椅子の肘掛けに引っかかり、転びかけたのだ。
「おっと!」
とっさに腕を伸ばして彼女の転倒を防ごうとした隼人だったが、彼女のリアクションは彼の意表を突いた。
「ひ?! いやーっ!!」
隼人の腕に触れる寸前、奇声を発した女の子は彼の胸を結構な力で突き飛ばしてきたのだ。
中肉中背のメガネっ娘が繰り出した突っ張りを耐え切れるはずもなく、隼人はたたらを踏んでどうにか転倒せずに堪える。
「大丈夫? 隼人君」
騒ぎを聞きつけた理佐が心配そうにやって来て、なにやら挑発的な顔になった。
「陽子ちゃん、相変わらずだね」
「……ふーん」
陽子ちゃんと呼ばれたメガネっ娘は隼人を頭から爪先までじろじろ眺めると、こちらも挑発的にメガネをクイと上げてのたまう。
「理佐さんも、相変わらずですねぇ」
「何が?」
「いつ見ても、似たような彼氏連れてきてること、ですよ」
隼人は、何とも言えない表情になった。
(俺、あの利次と似てるのか?)
「で、陽子ちゃんは今日も王子様を探してさすらってる、と」
理佐に揶揄されて、陽子が歯噛みする。
「ふ、ふんだ! そんな汚らわしそうな人、眼中になんかありませんから!」
隼人の渋面を置き去りにして、にらみあう雪女とメガネっ娘。やがて陽子は踵を返すと、本来彼女が行きたかったであろう場所、自分の指定席へと歩き去った。
「気にしちゃだめよ、隼人君。あの子ね、ちょっと男の子に対して夢見すぎなところがあるのよ」
男に対する理想が高いということなのだろうか。
「さ、わたしたちも席に着きましょ……どうしたの?」
「ん、いや……」
『俺と利次、どこが似てる?』なんて、理佐に聞けるはずもない。隼人は頭を振ると、理佐の後に続いた。
席に2人並んで座ること3分ほど。周囲からの好奇の目にさらされながら待っていると、場内の照明が徐々に落とされた。静々と緞帳が上がり、舞台上の2人の女性にスポットライトが当たる。
客席から見て右側に、ヴァイオリンを両腕に抱えるようにして艶やかな笑顔を見せるのは、背中の中ほどまであるウェーブのかかった青黒い髪を首の辺りで束ねた女性、海原満瑠。細面にきりっとした大きめの瞳、すっと通った鼻筋に形のいい唇と、かなりの美人だ。足首まで包む黒のロングドレスが、彼女のスレンダーな体型と白い肌を際立たせている。
向かって左手に設置されたグランドピアノの前に立つもう1人は、ヴァイオリニストとは違ってボーイッシュな装いの江利川千夏。白一色のタキシードに紫のポケットチーフが嫌味に見えない、こちらもすっきりとしたいでたちの女性である。ベリーショートがよく似合う顔立ちは隣の女性ほどではないにしろ派手目の美人で、もっとメイクをきつくすれば歌劇団の男役と名乗っても通るくらいの雰囲気をかもし出していた。
さぁーっ、と会場が低く静かにざわめく。そのさざ波のような音を聞いて、隼人は意外そうに理佐を見た。ここに至るまでに、彼女の前フリを耳にタコができるくらい聞かされていたので、アイドル並みの歓声が飛ぶと勝手に思い込んでいたのだ。
「そんなチャラい方々じゃないわよ」
読まれていた。隼人は黙って頭を掻き、舞台のほうに直る。
舞台上では、満瑠がヴァイオリンを構え、千夏が椅子に着席して鍵盤の上に指を置いていた。やがて千夏が目で合図すると、揃って演奏を始める。たちまち場内はヴァイオリンとピアノの合奏で満たされた。
(CD聞いた時も思ったけど、息ピッタリだな)
隼人が眼を閉じると、途端に2つの音が体の中を跳ね回る。いや、跳ねているのは俺の心か。ガラにもない感想にちょっと赤面した隼人は、彼のカラーに立ち戻ることにした。
(いかんいかん! こんな美人が2人も目の前で演奏してるってのに、眼を閉じてるなんてもったいねぇ!)
楽しそうに、実に楽しそうに両の指を鍵盤上で舞わせる千夏。第一印象はクールな人だったのに、今は眼だけでなく顔全体を輝かせて旋律を紡ぎ出している。
一方、満瑠はアルカイックスマイルともいうべき微笑を口元に浮かべて、一心不乱に弓を働かせてヴァイオリンを演奏していた。その視線は観客席を眺めているようで、千夏を見つめているようで、あるいはどこか遠くを見すえているようで。
隼人がちらりと理佐を見やると、胸の前で両手を組んで、こちらもまさに一心不乱のご様子。そのうっとりとした視線はとたどると、満瑠に釘付けのようだ。その恍惚の態にくすりとして、隼人はまた音楽家2人の共演に意識を戻した。
(これだけうまく弾けたら、楽しいだろうな)
楽器の演奏なんて中学校時のアルトリコーダーすら覚束なかった隼人にとって、目の前の2人はレベルどころじゃなく種族が違うような錯覚さえ覚える。そしてそのことが、全くくやしくない。いつまでもいつまでも、この心地良い音に浸っていたい。この美人の煌めきを見続けていたい。そんな2時間だった。
その後、アンコールまでこなして、カーテンコールを終えた満瑠と千夏は舞台裏に下がっていった。
「いいコンサートだったな」と言いながら隼人が席を立とうとするが、相方が動かない。
「見た?」
「何が?」隼人には本当にわからない。
「満瑠様、わたしに目線を下さったの! 感激!――」
眼尻に泪まで浮かべて、舞台を見つめたまま動かない理佐。隼人が周りを見渡すと、彼女と同じ病状のファンが多数見受けられる。
(そーゆーもんなのか? あれ)
楽しそうだから、もう少しここに留まろうかな。隼人がそう考えていると、先に病状が改善らしい女子の一団が近づいてきた。
「理佐ちゃん、これからみんなでご飯食べに行くんだけど、どう?」
「え?! あ、ごめん。今日は――」
こちらをちらり。『いいよ理佐ちゃん行っといで』と言いたいところだけど、初デートだし。
(俺から断るか)
隼人は努めて申し訳なさそうに言った。
「ごめん、このあと店の予約しちゃってるんだ」
女子たちは初対面の男に話しかけられて驚いたようだったが、さすが日本人、察してくれた様子でニヤニヤしながら理佐をからかい始めた。
「そっかぁ、理佐ちゃん。お幸せに」
「ああ、またしても裏切者が出たわ」
「満瑠様を捨てるなんて、許されざる罪だわねぇ?」
捨てるわけないじゃないと言う理佐の顔も悪戯めいた表情で、こういう会話はおそらく定番の流れなのだろう。「んじゃ、今度また」とあっさり解放された。
「ありがとね」とコンサートホールを出たところで理佐に軽く頭を下げられた。
「ん? ああ。ところで、どこ行こう?」
なぜ、キョトンとした顔をするのかね?
「モテモテにーやんのくせに、ほんとに予約してないの?」
「関係ないだろそれ」
その時、理佐の携帯が振動した。歩みを止めてちらりと画面を見た理佐の表情が固まる。
「どしたの?――って、ちょっと!」
理佐に手ではなく手首を掴まれて、隼人は雑居ビルの隙間へと連れ込まれた。何事かといぶかしむ彼の眼前に、理佐が携帯を突きつけてくる。その画面には――
『狐出現、対処中』
「! ここに、あいつが……!」
隼人の声に理佐が重々しく頷く。
「行くでしょ?」
「当然だ」
楓たちの仇、バルディオール・レーヌが横浜に現れたのだ。
2.
夜の公園、殊に海に面した一帯は、本来なら観光客やカップルがそぞろ歩きをしたり、対岸の夜景を見て感傷に浸る所である。だが今夜は警察の封鎖線によって、公園全体が立ち入り禁止になった。
エンデュミオール・ブラックとブランシュが現場に到着した時、2人は目を疑った。横浜支部のエンデュミオールたちがひと塊になり、それをオーガたちが取り囲んで攻め立てているのだ。その数、10体。
その一団から10歩ほど離れて、その女はいた。用心深くも2体のオーガを護衛に立てて戦況を見守る黒衣の女王。その傲然たる立ち姿を見た瞬間、ブラックの血は沸騰した。
「ウオォォォォォォォォォッ!!」
雄叫びとともに、ラ・プラス フォールトを放つ!
「はっ! 来たな!」
気付かれて光壁で遮られてしまったが、光線で破砕したそれを飛び越えて、ブランシュが氷槍を繰り出した。オーガ2体がそれを邪魔しようと白いエンデュミオールに向かってくる。
ブラックは迷った。ブランシュに加勢してレーヌを叩くべきか。なぜか動きの鈍い横浜支部のエンデュミオールたちの救援をすべきか。レーヌを倒せばオーガは消え、戦況を一気に逆転できるのだ。
『ブラック! 頼む! みんな動けないんだ!』
横浜支部長――支部長クラスの人には珍しく男性である――の手短かだが必死の懇請に、包囲の内側からの悲鳴が重なる。
「あの光……! くそっ!」
重なり合うオーガの向こうに見えた淡い光は、変身強制解除の印。誰かが敵にやられた。その瞬間、ブラックの腹は決まった。
「ふん! つれないねぇ、あたしと遊びなよ!」
と叫んで、レーヌがスキルを発動しようとするところへ、ブランシュが胴を串刺しにしたオーガを投げつける!
「ブラック! 行って!」
ちらと投げられた目線が怒っているように見えたが、後で謝ることにして、ブラックは篭城の後詰めに動いた。後ろからレーヌに撃たれるのを避けて左回りに遷移しつつ、一番ダメージを受けていそうなオーガに向かってラ・プラス フォールトを叩き込む! 絶叫を残してオーガは爆散した。
『エコー! ブラヴォー! シルバを離脱させてくれ!』
横浜支部長の指示は、ちょっと焦り過ぎて声が完全に裏返っていた。まだオーガが9体もいるうえに、対する横浜支部のエンデュミオールたちは4人しかおらず、しかも全員地に膝を屈してしまっているのだ。
「プロテス! ゼフテロス! 何やってんだ!」
幼馴染たちのコードネームを叫びながら、一番手近なオーガにシールドバッシュを食らわして、包囲の輪から吹き飛ばす。プロテスらしき弱々しい声が、集団の中から聞こえてきた。
「う……ごめん……」
公園の常夜灯では良く見えないが、エンデュミオールたちは特に目立つ外傷を受けているようには見えない。それなのに、これは一体……取りあえず、プリズム・ウォールでみんなを囲んで保護するか?
「戻れ、者ども!」
レーヌの甲高い指示が飛んできた。配下のオーガたちはいそいそとあるじの元に戻ろうとする。おかげで包囲が解けた。が、
『ブラック! 奴の狙いはブランシュだぞ!』
指揮下のエンデュミオールたちを後退させる指示を出していた横浜支部長が、鋭い声で警告をくれた。ブランシュはレーヌに槍すら付けられない状態で、オーガ10体の包囲を受けることになる。
「そんなことさせるか――待てよ?」
この状況で、こんなことを試している場合ではない。でも、やらなければ、ブランシュがやられてしまう。ブラックは賭けに出た。他のエンデュミオールたちの後退を援護せず、オーガの群れに向かって走る。包囲の輪にいてレーヌから遠かったオーガが一生懸命走っているのを、さらに後ろから追い立てる。
『ブラック! 何やってんだ!』
横浜支部長の怒号を聞き流す。言いわけをしている暇はないし、すればレーヌに聞こえてしまう距離まで来た。レーヌからの光線を、目前で作った丸いバリアで受け流して、今だ!
「プリズム・ウォール!」
聞いてにやりとし、破壊するためのスキルを発動しようとしたレーヌがうめく。ブラックが作り出した光壁は、レーヌが想定したブランシュではなく、オーガたちを囲ったのだ!
光壁の中で戸惑い、叫び、ガリガリと爪を立てるオーガの群れの傍を駆け抜けた。これで当面の敵はレーヌと近侍のオーガ1体のみ。そのオーガも、白いエンデュミオールの新スキル、フロストスラッシュで追い詰められつつあった。
「はあっ!」
間合いが遠く空振りしたかに見えるブランシュの槍先から、キラキラ光る短めの帯が放出されてオーガへと飛ぶ。光るのは常夜灯の光を受けているためで、よく見れば氷の細い針の集合体であることが分かるだろう。ブランシュから離れていくにしたがって少しずつ広がる氷針の帯は、オーガごときの体術で避けきれるものではない。右肘の下あたりに食らったオーガが絶叫する理由は、その命中した箇所が氷針の突き立つ限り氷結したからである。
腕の一部が氷結するということは、凍った部分から先は血流が行かぬということ。もちろん、筋肉も腱も凍り付けば、手首は動かせぬ。ブランシュの凍結スキル『ゼロ・スクリーム』が敵を丸ごと凍結させる大技であるのに対して、これは部位凍結に限定して速射性を高めたものであり、ブランシュなりの妥協の新スキルであった。
そのオーガに走り寄りながら、ブラックはレーヌの手に光がまた溜まるのを視認する。
「させねぇ!」
先手必勝! レーヌが手を挙げるより早く、ブラックは腕を十字に構えてラディウス光線を放った! やはりブランシュに向かってスキルを放とうとしていたのだろう、レーヌがブラックのほうに手を向けて、スキルを放ってくる。光線と光線の衝突による爆風を今度は食らうまいと急いで左へ走ったブラックは、目を見張った。レーヌは動かず爆風に耐えながら、また手に光を溜めている。
「ブランシュ! 気を付けろ!」
ブラックの警告に、右手の動かぬオーガを攻めてとどめを刺そうとしていたブランシュがいったん後ろに飛びすさりがてら、フロストスラッシュを2発放った。
「ちっ!」
レーヌは大きく舌打ちすると彼女もまた後退し、ブランシュから射線を外した。ここは一気に攻める時だ。ブラックが大またで疾走を始めたその時、レーヌのスキルが発動した。
「スピア レ・ラ・レーヌ!」
レーヌのスキル名詠唱と同時にその前に真っ直ぐ伸ばした右腕が光り輝き、その光はそのまま極太の槍となって発射された!
「ブラック!」
警告されるまでもなく、その光槍の穂先はブラックの胸を狙っていることは直感できていた。光線スキルは間に合わない。到達までの短い時間で生成できるバリアでは、防ぎきれない。ブラックは歯を食いしばって思いっきり左へ跳んだ。
「ぐ……っああ!!」
右肩が熱くなり、激痛の電気信号が波涛のように脳を打つ。直後に地面に打ち付けた左肩と側頭部の痛みなどおまけのようだ。激痛で気絶せずにいられるのは白水晶のおかげか、あるいは因果か。激痛に呻きながらすぐに立ち上がろうとしたブラックの背後で、光壁の崩壊する音がした。
レーヌは、光槍がブラックに命中せずとも、配下のオーガたちを解放できる手立てを取ったのだ。感謝らしき雄叫びを上げたオーガたちに、あるじから指令が飛ぶ。
「追撃せよ」
今度は突撃の勢いを付けるための咆哮を上げて、オーガ勢は横浜支部のエンデュミオールたちに向かった。何をもたついているのか、撤退の作業がなかなか進んでいないのだ。
それを振り返りもせず、ブラックは腹を決めた。
レーヌを倒す。
1体残ったオーガは、たった今ブランシュが屠った。2対1なら、自分が支援攻撃とバリアでブランシュを援護すれば、奴を倒せる! 右肩の傷がまだ焼けるような痛みを発しているが、直接あい対しなければ――
『ブラック! ブランシュ! 撤退を援護してくれ! こちらが持たない!』
押しかけ助っ人とはいえ、エンデュミオールである以上、指揮権は横浜支部長にある。それは分かった上で、ブランシュが抗弁する。
「レーヌを倒せば、オーガも消えます! やらせてください!」
「ふふふ、じゃあね~」
嘲弄する声とともに、レーヌの前に光の壁が張られた。ブランシュのスキルでは、壁を破壊できない。ブラックは右手が上がらず、ラ・プラス フォールトが放てない。奴がそれを見越したのかどうかは分からないが、光の壁を回りこむあいだにさっさと退却してしまうだろう。そして横浜支部のエンデュミオールが追撃の危機にさらされることになる。
ブラックは憤怒の余り、地面に左拳を打ちつけた。その横を通り過ぎるとき、ブランシュが肩に手を添えてきた。
「治癒をすぐして。ここでレーヌの不意打ちに備えてて。……無茶しないでね」
言い置いて、ブランシュの疾走が遠ざかるのを聞きながら、ブラックは唇を噛み破らんばかりの強さで噛み締め、まだ残っている光の壁を見つめていた。
3.
夜11時を過ぎて、横浜支部の面々はようやく一息つくことができた。
「隼人、怒ってたね」
「うん……」
千早と圭の会話を、フロントスタッフのまとめ役をしている瑞生――フロントスタッフには珍しく、OLと二足の草鞋をしている――が聞いて眉をひそめた。
「やっぱりあれ? 支部長が止めたこと?」
千早はうなずくと、隼人の気持ちを代弁した。
「レーヌを倒したかったんですよ、あいつ。北東京支部の人が殺されてるから」
隼人は自分や仲間を裏切った奴を許さない。まして、その仲間が殺されたのだ。殺伐とした話だが、千早とて圭や横浜支部の仲間たちが敵に殺されれば――それが今のところ警察権力の及ばないバルディオールならば――復讐を考えるだろう。その気持ちが人一倍強い隼人は、恐らくためらうまい。その想像が、千早の憂鬱を濃くしていく。
「北東京支部の人が殺されてるから、余計に支部長が慎重になったんではあるけどね」
瑞生によって代弁された支部長の判断も、分からないではない。
表向きは介護ボランティアである『あおぞら』のスタッフが同日同夜に5人も急死した。まさに格好のマスコミネタでありネットネタであるこの事実は、今のところどこにも流れてはいない。事情を知る楓の夫には、会長と西東京支部長が面談してなんとか理解を得ることに成功していた。それ以外の戦死者の関係者には、つながりは分からないだろう。
しかし、新たなる死者が出れば、関連性に気付く人間が出てくる確率は増える。事情を知る遺族がそうそう物分かりのいい人とは限らない。ゆえに支部長が慎重になるのは致し方ないのだ。
控室のドアが空いて、後輩が2人トイレから帰ってきた。かなり顔は青く、ゲッソリとしている。だが、どうやらやっと腹痛と下痢は治まったらしい。
「やっぱ、あのシュークリームかな」
「たぶん、ね……」
それは、会長からの陣中見舞い。髪をツインテールにまとめた女の子が配達しに来た、横浜では有名なお店の逸品である。それを『賞味期限が今日だから、お早めにどうぞ』と言われて、みんなで夜のデザートとしておいしくいただいたのだ。
そこへオーガ出現の一報が警察から入り、5体と大勢だったためフロントスタッフ全員で出撃した。ところが現場で戦闘を始めてしばらく、フロントスタッフだけでなく各所で立ち番をしていたサポートスタッフまでが腹痛を訴え始めた。
無事なのは、ダイエット中で甘い物を遠慮していた支部長一人だけという事態に発展し、まるで見計らったかのように姿を現したバルディオール・レーヌと残りのオーガに包囲されて苦戦していたところにブラックとブランシュが援軍に駆けつけてきた。これが今夜の顛末である。
支部長が食べなかった1つと、余った4つ――『冷蔵庫に入れときゃ明日食べれるって』と瑞生が主張し、今日休んでいたスタッフのために冷蔵していた――は先ほど警察に箱及び包装紙とともに証拠品として提出していた。
「会長……なわけないよね」
「当たり前だろ」と圭は力なく笑う。
「うちの総人数より多かったじゃん、あれ。いくら会長がお金持ちでも、そんな半端な数買わないだろ」
支部長からお店に問い合わせたところ、配達された数のセットは存在しないし、そもそも配達のサービスもしていないとのことだった。
食中りではない。食中りはあんな短時間で起こらないし、症状を脱するのも速すぎる。何か、薬を盛られたのだ。
控室のドアがノックされ、支部長が入ってきた。タクシーを呼んでくれたので、分乗して帰宅することにする。
「最後に降りる人は領収証もらってくれよ。後日清算するから」
体の割りに細かい支部長の指示に苦笑する気力もなく、千早たちはタクシーに乗り込んだ。窓の外を流れる景色を眺めながら、千早の憂慮は深まっていく。
隼人は、本当に復讐をする気なのだろうか。彼にとって、光線系のエンデュミオールである彼女にとって、敵を倒すということは黒水晶を破壊して敵を殺すことになるのだ。そこまで考えて、千早は身を震わせた。隼人は既に、2人――バルディオール・ラクシャとフレイムを――殺している。
『殺人は、癖になる』
昔の女流推理小説家が創造した名探偵の台詞を思い出して、千早はまた震えた。
(理佐ちゃんは、隼人の復讐をどう思ってるんだろう)
横浜支部に来てシャワーを借りて、すぐにまた出て行く。そのあいだずっと仏頂面だった隼人を気遣っていた彼女の姿を思い出す。デートの途中ということで、みんな空気を読んで大して冷やかしも引きとめもせず送り出したが(というかそんな気力も体力もなかったのだが)、無理して引き留めて大いに飲んで騒いで、邪気を払うべきだったのかもしれない。モトカノという立場を使って、カノジョの機嫌を損ねてでも。
(理佐ちゃん、頼んだよ)
隼人を引き留めて。千早はそう念じながら、窓の外を見続けた。
4.
すっかり遅くなった夕食を平らげて、隼人はようやく大きく息を吐き出した。対面ではとっくに食べ終わって、ゆっくりとエスプレッソを飲んでいる理佐が微笑んでいる。
一応下調べはしてあったのだが、隼人が行こうと思っていたレストランはあのコンサートホールの近くだった。途方に暮れた隼人に代わって理佐のスマホが唸りを上げ、このサルディーノ料理屋がチョイスされたのだ。
てっきりピザとパスタの店だろうと思っていた隼人の期待はいい意味で裏切られ、肉も魚も十分な量が出てきて隼人の腹は満腹になったところである。
さて。
「場所、変えようか」
うなずいた理佐が伝票を持って立ち上がる。食後のコーヒーをぐいっと飲み干して、隼人は素直におごってもらうことにした。次の店では自分が払おうと心に決める。
店員の笑顔に見送られて出た21時少し前の路上は、人いきれとアスファルトの残熱でむっとする暑さだった。次はどこか居酒屋かバーにでもとキョロキョロした隼人の腕に、理佐の腕が絡められてくる。
「あのね、隼人君」
黙って首を傾けると、同じように首を傾けて、頭を肩にもたせ掛けてくる彼女の仕草が可愛い。
「行ってみたい所があるんだけど、いいかな?」
「いいよ、どこ?」
「あれ」と言って彼女が指差したのは、夜空の闇にに煌々と輝く観覧車だった。
地下鉄で現地へ向かい、閉園30分前にゲートをくぐる。真っ先かけて走る理佐を追走しながら彼女の元気のよさにちょっと呆れ、しかし先ほどの戦闘と違って駆けることに楽しさを感じる。
もう園内にさほどいなくなったほかの客が驚く中を走り抜けて、隼人たちはまさに受け付け終了5分前にお目当ての観覧車にたどり着くことができた。息を切らし気味にチケットを買って、また乗り場へダッシュする。『ちっ最後の最後でカップルが来やがったぜ』とちらりと顔に出たように見えたが、係員のあんちゃんはいたって快活な声でゴンドラへ2人を乗せてくれた。
ゆっくりと上昇していくゴンドラの、外側のシートに並んで座る。段々と上昇してゆくゴンドラの大きな窓に貼り付かんばかりにして夜景を眺めていた理佐が、隼人との近さに気付いた。
瞬く光。流れる光。そして、消える光。隼人は瞬きもせず、それらを見つめていた。
(夜に観覧車に乗るの、初めてだな)
そこまで考えた隼人の肩に、理佐の肩が触れる。そういえばノースリーブだったことを今更ながらに実感して、隼人の鼓動が速くなる。それを押し隠してゆっくり振り向いて、そっと顔を近づけて。隼人は目を閉じた理沙に軽く唇を重ね、そのままゴンドラのかすかな揺れに身を任せ続ける。
ゴンドラが頂点を過ぎて、隼人は唇を理佐から離した。彼女の表情を伺うと、恥じらいと嬉しさに不安が混じり合ったように見て取れる。その表情の意味を問いたくて首をかしげると、理佐の形のいい唇がかすれ気味な声をつむぎ出した。
「……もっと、ずっと、しててほしいのに」
ん、と答えて、今度はむしろさっきより短めにして。隼人は涙目になってきた理佐にささやいた。
「続きは別の場所で。もっと長くできるところで」
意味を即解してしなだれかかってきた理佐の肩を抱いて、隼人はゴンドラを降りると遊園地の出口へと向かった。