第1章 アンヌの違和感
1.
フランク共和国内の某所。アンヌは高台にいた。眼下に広がる光景に絶句し、かつ高揚しながら。
眼下の緩斜面を埋め尽くして登ってくるディアーブルは、ざっと見積もっても60体はいようか。そしてその中央を悠然と進んでくる、1体の"アングル・スカーレット"。身の丈3メートルほどの巨体に乗っている頭には、長大でねじれた真っ赤な角を左右に配し、その両腕と4つ足に生えた棘は、他者を寄せ付けぬ防壁の態を成している。
指揮官と目される巨漢のディアーブルがいる。"サタン"の大攻勢が始まったのだ。
対するは、祖国フランクを守らんと意気も高いヴァイユー伯爵家の強者たち。嫡女であるアンヌとその妹ミレーヌ、一族の重鎮であるニコラまで出陣しての陣容は、総勢31名。その内訳は一族の戦士が17名に、小火器を使用して敵勢に最初の一撃を与えるための伯爵警護隊所属兵士14名である。
彼らが布陣している背後にあるのは、この地方、いや国内有数の大修道院である。その礼拝堂に安置されている聖賜杯――かの大宗教における救世主の使用済み杯ではなく、伯爵家の始祖が神より賜ったとの伝承も恭しい代物――がサタンの手に堕ちた時、その湛える神力は極悪のそれへと変貌し、この国が亡ぶ。
「絶対に食い止めてみせる……!」
姉と同じ赤い戦闘服に身を包み、拳を固く握りしめる妹の決意に水を差すでなく、姉は口を開いた。
「違う。ミレーヌ」
小首をかしげる5歳下の妹に、唇を曲げるだけで笑って告げる。
「絶対に殲滅してみせる、だ」
そのための応援まで呼んだのだから。アンヌは傍らの兵士をちらと見た。あるじの視線に気づいた兵士は、やや焦った態で腕時計を確認すると、
「要請した到達時刻を5分ほど過ぎております」
「まったく……」
アンヌは呆れた。軍隊がそんなルーズなことでどうするのだ。アンヌたちが侵略しようとしているあの島国は、小学生が参加する朝の体操ですら毎日同じ時刻にキッチリ行われるというのに。
更なる愚痴をこぼそうとしたその時、アンヌたちのはるか前方から低い爆音が聞こえてきた。
「来た……!」
「総員、衝撃に備えろ!」
ニコラの指示が飛び、戦士は屈み、兵士は伏射の構えを取ったまま顔を伏せる。チャンスは、今までの経験だと、一度のみ。あとは白兵戦だ。
次の瞬間、目の前が閃光で満たされた。慌てて手をかざして光を遮ると、続いて轟音がアンヌたちの心身と修道院を揺らす。
フランク空軍機による近接航空支援である。敵集団の後方から空路侵入してきた2機の翼下から500kg爆弾が一斉にばらまかれ、その爆発により吹き飛んだディアーブルの立っていた辺りにぽっかりと空隙ができた。
爆弾投下と同時に、兵士たちも小火器による一斉射撃を開始。こちらは敵の前衛に次々と命中し、その頭を、腕を、脚を吹き飛ばしていく。5秒。10秒。
(そろそろ、か……?)
アンヌの目算は当たり、ディアーブルの身に届くかに見えた銃弾が、突如跳ね返された。空軍機の反復爆撃もその身を傷つけることができなくなる。
"不信心者の衣"。ディアーブルたちとアングル・スカーレットが身にまとう燐光は、物理攻撃を寄せ付けない第2の皮膚として機能する。ならば最初から身に纏っておけばよいものを、攻撃を受けるまでわざわざ発動させない訳は、この現世うつしよでの活動時間が短くなるためである。
先制攻撃を生き延びた敵勢およそ40体が雄叫びを上げ、燐光を撒き散らしながら早足での前進を再開した。奇怪な唸り声を上げ、先の爆撃や銃撃で倒れ伏した輩を乗り越えてこちらに迫ってくる。
その爆撃は、当初想定した戦果を出せなかった。空軍機の到達遅延により、爆撃指定座標よりも敵勢が前進していたためである。
爆撃には、友軍を爆風等に巻き込まないため安全な距離を取るという当然かつ暗黙のルールが存在する(例えば、空軍機が使用した500kg爆弾で、爆心地からおおよそ半径500メートル以上が必要である)。『敵が移動したからその分ポイントをずらせばいい』というわけにはいかないのだ。
なればこそ、伯爵家の戦士はここにいる。
「ゆくぞ! 変身!」
立ち上がったアンヌは黒水晶を戦闘服の左胸に縫い付けられた伯爵家の紋章――聖賜杯を抱え込むグリフィンと天使――に当てた。黒水晶からあふれ出た黒い光が、彼女の前に巨大な剣を形作る。その柄を掴み裂帛の気合いとともに剣舞を舞えば、刃から零れ落ちる光の滴がアンヌの身体に降り注いでコスチュームを形作り、彼女はバルディオール・エペへと変身を遂げた。
後方に移動した妹――同じく変身してバルディオール・ブークリエ――に一言、
「援護を頼む」
此方の布陣はエペを先鋒として敵陣への斬り込み役とし、ガントレット以下バルディオールと戦士たちは修道院前を固め、最後方にブークリエが陣取って最後の砦役となるものである。
その妹の返信も待たず、エペは腰の剣を抜き放つと肩に担ぎ、背の翼を大きく羽ばたかせて敵のただ中へ突進した。他の者も、バルディオールに変身した者はそれぞれの系統に応じたスキルを発動してディアーブルを迎え撃ち、余の者は鳥人体へと変異して光球をその口元から発射し始める。運動エネルギーも化学エネルギーも効かぬなら、黒水晶の力、あるいは伯爵家に連なる者がその身に宿す"天使の血滴"の力をもってあの黒い矮躯に叩き込むのみ。
疾翔してもうまもなくディアーブルどもと接敵するというところでふと目を上げると、アングル・スカーレットと眼が合い、そしてエペは見た。あの巨漢が笑っているのを。その意味は嘲弄か、あるいは好敵手と認めた証か。
「待っていろ! すぐにその笑みを消してやる!」
エペは叫びしなに担いだ長剣を振り下ろし、眼前のディアーブルを一刀のもとに斬り捨てた。結果として突進の勢いが止まったのを好機と見たか、たちまち群がり来る黒い妖魔たち。だがエペには、構ってやる暇はない。
「どけ!」
エペはここで、あえて相手の意表を突く。その身に毒爪を突き立てようとしたディアーブルの腕を斬り飛ばすと、その勢いを殺さずに空へと飛び上がったのだ。
「つ!」
いささか見込みが甘かったか、左足に疼痛を感じる。ディアーブルの1体が闇雲に振り回した毒爪がかすめたようだ。肉を腐らせる毒が回るのは意外に早い。だがこちらには、ブークリエがいる。
「La grace du vent!」
バルディオール・ブークリエの声が遠く聞こえた次の瞬間、空中に留まったエペを旋風が包み込んだ。見た目を裏切って暖かで優しい風に総身をなぶられて、エペの傷は瞬く間に治癒される。
地上に再突入するのを少しだけ遅らせて、エペは修道院のほうを見やった。ブークリエが築いた"風の荊野原"が、既に高台の頂上付近にまで進出し始めたディアーブルを阻んでいるのが見える。味方は、苦戦しているようだ。
アンヌは迷った。劣勢の場所に駆けつけるべきか、敵の指揮官を潰すことにより敵勢の潰乱を誘うべきか。
『エペ! 迷うな! 一気に行け!』
バルディオール・ガントレットが"雷の槌"でディアーブルを数体まとめて潰しながら叫ぶ声を通信機越しに聞き、エペは決断。体を巡らし、かの赤き角目がけて真一文字に飛翔した。
威嚇の吠え声に数瞬遅れて飛来する光球を右へのロールでかわしながら、剣を頭上にかざして突き進む。狙うは巨漢の分厚く幅広い胸部。それを貫き通さんばかりの勢いを付けるため、エペは大きく羽ばたいたのだが――
「ぐっ!!」
横合いからフックの要領でぶん回されたアングル・スカーレットの左拳がエペを捉え、衝撃で息が詰まったまま彼女は吹き飛ばされた。
「く……くそっ!」
5メートルは飛ばされたか。そのままディアーブルどもが諸手を上げて待つ地面へ堕ちるのを、翼を必死で羽ばたかせてかろうじてこらえて、エペは再び空中で剣を構えた。アングル・スカーレットの拳が直撃した脇腹が痛む。
(なんとか折れずに済んだか……)
その時右下方から聞こえた悲鳴に、エペは振り向かざるを得なくなった。家臣の声だ。
「クロード……っ!」
エペ、いやアンヌ直下の家臣であるクロードが、ディアーブルの1体に胸を貫かれていた。クロードの眼がこちらを見すえ、嘴は何事かを叫ぼうと開閉したが声は出ず、クロードはがっくりとうなだれた。
エペは激した。その迸りを向ける先、それは――
「この角野郎ぉっ!」
もはやエペなど無視して他の戦士を狩ることに注力していたアングル・スカーレットは、その絶叫に反応した。にいっ、と口角を歪めるその悪相が、彼女の激情をさらに加速させる。
「死を! 死を与えてくれるぞ!」
再度の絶叫に答えるかのように、エペの持つ長剣、その刃先の光が増した! それを再び頭上にかざして突進する!
『エペ! 同じ攻撃は奴には効かぬぞ!』
ガントレットことニコラは、アングル・スカーレットをこれまで5体撃破したことのある――その中には黒水晶を手に入れる前の戦果も含む――猛者である。その彼の指摘を耳にしつつも、エペは敢えて同じ戦法を取った。ただし、少しだけアレンジを加えて。
アングル・スカーレットの右腕がまた振り回される瞬間、くるりと背面飛行の態を取りながら翼をひと羽ばたきさせて、かの巨漢の懐に潜り込んだのだ!
エペの目論見に気づいて瞬時に横移動で避けようとするアングル・スカーレット。だがその突撃がわずかに早く、左脇腹をその剣がえぐる。さらに力を込めて羽ばたけば、剣はずぶずぶとアングル・スカーレットの腹部に食い込み、やがて背中へと抜けた。
不遜にもヒトと同じ痛覚を持ち合わせているらしく、赤き角の指揮官は暗天を見上げて絶叫する。怒りに血走った眼が夜空の次に見すえるは、小賢しい有翼族の女。その腕を、体を、頭を捕まえて握り潰さんと伸ばしてくる手を切り払おうとして、エペはその長剣がアングル・スカーレットの腹から抜けないことを悟った。
「ちいぃ!」
無様なことは百も承知。エペはこの居心地の悪い場所、すなわちアングル・スカーレットの奇妙に弾力のある腿の上から逃れるため転がり落ちた。あやうく悪鬼の指が自分の顔に届くところであったことに安堵する間もなく、彼女の周りを取り囲んできたディアーブルたちに対処するため、短剣を抜く。
『姉様! ……たん後退を! "風の茨野原"が……ちません!』
囲まれたためか入りの悪い無線は断片的ながら、ブークリエの悲鳴に近い要請はエペの脳裏にしかと届いた。
旋風系であるブークリエの全体スキル"風の茨野原(Domaine epineuse de vent)"は、ある程度の範囲において風により不可視の茨を作り出し、その範囲に侵入したものに絡みつかせて動きを止めるスキルである。
今回のように、敵がどの方向から攻め寄せてくるかが判明している会戦にはまことにおあつらえ向きなスキルであるが、欠点というか短所は存在する。全体スキルの宿命である『広範囲に適用すると効果が薄くなる』という点をこのスキルも逃れることはできず、拘束したものの周りが疎かになる。つまり、相手が圧倒的多勢である場合、数で押し切られてしまうのだ。
エペは即断し、修道院の尖塔を目印に飛び立とうとしたのだが。
「わっっ!?!」
突如下方から襲ってきた黒い何かによって、エペは空中へと吹き飛ばされた。いや違う。
「くっ……私を足蹴に……っ!」
アングル・スカーレットの脚が、エペを蹴り上げたのだ。その屈辱に憤慨する暇もなく、翼を羽ばたかせて修道院のほうへ向かうエペは、戦慄した。
ざっと数えただけでも、伯爵家の戦士が半減している。兵士たちは白兵戦に移行したため後退し、修道院の高い塀など紙同然と理解しているがゆえに、必死に補強のための土嚢を積んでいる。彼らの顔は一様に青い。ディアーブルが兵士たちの5メートルほど前まで迫ってきているのだから。
やはりディアーブルの数に任せての殺到に、"風の茨野原"は突破されつつあった。風の茨に絡め取られた仲間――奴らに"仲間"という概念があるかどうかわからないが――を踏み台にして跳躍し、また絡め取られたら、その仲間を踏み台にして。ディアーブルたちは飛び石の要領で修道院へ、そして何の抵抗もできない兵士たちに迫りつつあるのだ。
『エペ! こちらに構うな! 奴を殺せ!!』
ガントレットも前衛が半減している。彼、いや彼女のスキルはどれも強力だが、ゆえに溜めが必要である。その時間を稼ぐための前衛減により、ディアーブルの攻撃をかわすのが精一杯になってきていた。それはせいぜいが濁流中の小島といった状況であり、茨野原への侵入を許す一因ともなっている状況である。3人ほどの戦士が飛び回って、飛び石戦法を行っているディアーブルを叩き落としてはいるものの、とても間に合っていない。
(くっ、私がこんな賭けをせねばならぬとは……)
エペは決断した。
「エデュアルド! ソフィ! ギヨーム! 共に来い! 一気に仕掛けるぞ!!」
なんとエペは、空中からディアーブルの対処をしている鳥人体の3人を全て率い、アングル・スカーレットに速攻を敢行しようというのだ。一瞬あっけにとられた様子の3人であったが、ガントレットと、窮地に立たされているはずのブークリエからも許可が飛んできて、決意を固めたようだ。
アングル・スカーレットのほうへ旋回する時に、修道院の鐘突き堂に何かがチカと光ったような気がしたが、確かめる暇は無い。また伯爵家の誰かの悲鳴が聞こえる。エペはついて来いと身振りで示して、翼の羽ばたきを強くした。
2.
その鐘突き堂にいたのは、一組の男女だった。ともに双眼鏡で目下の戦況を観察しており、そのレンズがわずかながら月明かりに反射したのをエペに視認されたのだ。
「ほう、剣使いは最後の賭けに出るか」
「勇ましいことで」
男と女は双眼鏡をどちらからともなく下ろすと、そう言い合い、音もなく嗤った。
「で、どうなさいます? このままあの汚物どもが神宝を穢すのを座視なさいますか?」 そう問う声からすると、女より男のほうが目上のようだ。
男はまた仕草のみで嗤うと、口を開いた。
「フランクごとき消し飛んでも惜しくはないが――」
女の顔にほんの少し驚きが見て取れたのだろう、男は人差し指を1本、つっと立てると続けた。
「世界のバランスが今崩れるのは、いささか困るな。ま、せいぜい防いでやるか」
「ええ。では、下へ参りましょうか」
明らかに安堵の声を出して、しかし忍びやかに女に促され、男は鐘突き堂内の下り階段を内陣へ降りていった。
そんな会話が自分の後方で交わされているとも知らず、エペは他の3人に先んじて飛ぶ。
『では、どのように?』
エデュアルドの短い問いに、エペも短く答えた。
「わたしが奴の腕を取る。お前たちは"光の息吹"で奴を消せ」
『しかし、それでは――』
「行くぞ!!」
ためらうソフィの反論を封じて、光を宿らせた短剣を頭上にかざすと、三たび突撃の矢となった。
『姉様! その剣では届きません!』
ブークリエの悲鳴に近い指摘も置き捨てにして、エペはスピードをさらに上げるべく翼を酷使する。重要なのは、アングル・スカーレットの両腕がいつ振られるか。エペがえぐった左脇腹を押さえて苦悶の表情を浮かべるあの巨漢、その動き出しが遅ければそのまま突入だ。奴の動きが早ければ――
『姉様!』『エペ様!』
怒りは痛みを凌ぐらしい。アングル・スカーレットの両腕がくの字に曲がり、大きくバックスウィングされた。フックの連打でエペを吹き飛ばし、あわよくば骨を砕く気だろう。風切り音も派手に両の拳がエペ目がけて飛んできた!
「ここだっ!」
エペは翼を大地の方向に向けて大きく羽ばたかせた! 急激な縦方向への加重に体の骨が軋む。ことに翼の付け根に鋭い痛みが走り、次いで彼女の鼻っ面をアングル・スカーレットの巨大な拳が走った。
激痛に苦悶の声を漏らしながら、アングル・スカーレットの巨躯を飛び越える。前方宙返りをしながら身体をひねって、アングル・スカーレットの後肢に着地。また足下に感じるあの奇妙な弾力に悪寒を憶える暇もなく、その悪臭漂う上半身を羽交い絞めにした。
「殺れっっ! 私に構うな!」
エペの指示一下、3人の鳥人体はアングル・スカーレットの苦し紛れの突進をかわしながら光球を次々とディアーブルの指揮官の巨体に打ち込んでいく。5発、6発、7発。羽交い絞めをしているエペの腕がちぎれそうなほどの力でもがいていたアングル・スカーレットが、急にくたりとなった。そのまま、大地へとくずおれてゆく。
とどめとして、エペは離さずに持っていた短剣で、アングル・スカーレットの首を掻き切った。自分たちと同じ高さになったことをこれ幸いとにじり寄ってくるディアーブルたちに見せつけ、叫ぶ。
「アングル・スカーレット、討ち取ったり!!」
その声が高台全体に染み渡ると同時に、潮の流れが逆流し始めた。指揮官を失ったディアーブルたちが、自分たちが地上へと這い出た穴へと敗走を始めたのだ。
追撃が始まる。地獄のどこで飼育しているのかわからないが、無尽蔵ではないことはこれまでの経験でわかっているので、1体でも減らしておく必要があるのだ。
ガントレットの雷が轟き、ブークリエの巻き起こす旋風が唸りを上げ、光の息吹が四方に飛ぶ。エペも短剣を振るって追いすがったが、一目散に逃げているわりにはディアーブルどもの回避は素早く、また短剣の扱いはエペにとっても不得手であることもあり、わずかに3体に手傷を負わせることしかできなかった。
最後のディアーブルが穴に飛び込み、その穴から漏れ出ていた禍々しい光が地から消え失せた時、エペは大きく息を吐いて片膝をついた。傍らを見ると、自らが獲ったアングル・スカーレットの首が彼女をにらみつけている。その生気のない眼を見つめ返しながら、また大きく息をついた。
3.
アンヌは昼前に目を覚ました。ひと合戦終えて快眠後の爽やかな眼覚め――とはいかなかった。寝返りをうった拍子に背中に激痛が走り、眼が覚めてしまったのだ。昨晩無理な機動をするため翼を酷使したのだから自業自得とはいえ、それで痛みが和らぐわけではない。
加えて"貴血限界"、つまり人外としてその力を行使した反動が、彼女の身体に言い表しようのない倦怠感を生んでいた。理不尽なことに、バルディオールとして変身した身でも、背の翼だけは黒水晶の力が駆動力ではない。
盛大に溜息を吐いて、そろりそろりと上半身をベッド上に起こしたあるじに、心配そうにアンヌ付きのメイドが歩み寄ってきた。うやうやしく差し出された盆上のカットグラスを手に取り、ミネラルウォーターを喉に流し込む。
「あの……」
メイドが、おずおずと話しかけてきた。誰かから何か言伝があるのだろうと察し、アンヌは発言を促した。
「アンヌ様が起床されて、もし、その、御気色麗しければ知らせてほしいとミレーヌ様から命じられているのですが……」
アンヌは目をつぶってしばらく考えた後、答えた。
「すまない。もう一度寝かしてくれ」
ミレーヌはおそらく黒水晶の力のみで、"天使の血滴"の力を使っていないのだろう。此度の結果報告をしたいはずだ。だが、アンヌはまだ話が聞ける状態ではない。難しい話なら、なおさら。
メイドが黙したまま一礼したの見届けて、アンヌはどっとベッドに身を任せ――天井に向かって突き出した両腕をわななかせた。
「い、痛い……」
背中の激痛を誰のせいにもできず、おそらくミレーヌに姉の言葉を伝えていたのであろうメイドが受話器片手に慌てふためくのを横目に見ながら、痛みの終息とともにアンヌの意識も深奥に引き込まれていった。
再びアンヌが目を覚ましたのは、深夜まであと15分と言う時間。覚醒と同時に空腹を覚え、部屋の隅に控えていたメイドに食事の指示を出す。
「ミレーヌは……さすがに寝ているか」
あらかじめある程度の用意がしてあったのだろう、所望から10分と経たずに次々と運ばれてきた簡素ながらも美味かつ大量の夜食を頬張りながら、アンヌは独りごちた。
「いいえ、アンヌ様が起きられたら、たとえ夜中でも呼ぶように、とゴドウィンさん経由で言伝がありましたので」
ミレーヌが使役する執事の名をメイドが出した時、アンヌの耳朶を訪いの音が打った。
「姉様、おはようございます」
「……皮肉か?」
ミレーヌが、アンヌの部屋の戸を少しだけ開けて、その縁からひょっこり顔を出してご挨拶。メイドが慌ててしたお辞儀に鷹揚に答えて、アンヌの5歳年下の妹はにこりとした。
「どうしてわたしが起きたとわかった?」
「だって――」
と部屋の中にすすすと滑り込みながら、ミレーヌはさらに悪戯っぽく笑う。
「お手洗いに行こうと思って廊下を歩いていたら、廊下をベルゾーイや召使たちが働き蜂みたいに行ったり来たりしてるんですもの。『ああ、姉様がお眼覚めなのね』ってすぐにわかりましたわ」
そして、ミレーヌはまだ半開きのままの戸の影に向かって、やや声を潜めて呼びかけた。
「ソフィ、お入りなさい」
「ソフィ?」
子羊のフィレ肉を目一杯口に含んでいたアンヌは、慌ててそれを赤ワインで流し込むとナプキンで口を拭い、その直後に目の前で起こった出来事に呆然とした。
頭を下げたまま入室してきた彼女の直臣の1人であるソフィの高い背が、あるじの座るテーブルの5歩ほど前で急に半分になったのだ。
「申し訳ございません!!」
ソフィは片膝を突き、平伏していた。それどころか、震えているではないか。
「どうしたというのだ!? 何か粗相でもしたのか?」
「その……」
「申してみよ」
あるじの催告にもしばらく応じず、ソフィはじっと床を凝視していた。が、ついに決心したのだろう、顔を上げた。
「アンヌ様の御髪を吹き飛ばしてしまったこと、お詫び申し上げます!」
「髪?」
アンヌ直属のメイドは有能である。主が彼女のほうを振り返るのとタイミングを合わせて、姿見を向けてくれたのだ。
「あ、左の……これか?」
なるほど、アンヌの美貌を彩るロングストレートヘアの左3分の1ほどが、首のあたりからさっぱりなくなっていた。ブロンドの先が縮れているのを手で梳くが、そんな程度で治るわけもなく。
「まことに、まことに申し訳なく……」
「よい」
また顔を伏せて謝るソフィに、アンヌは立ちあがると近寄って肩に手を添えた。
「アンヌ様……!」
「狙ったわけでもあるまい? この身に当たらなかったのだから、よいではないか。そうであろう? ミレーヌよ」
「はい、そのとおりです。姉様?」
「ん?」
ソフィを立ち上がらせると、アンヌは妹のほうを向いた。
「この機会に、髪を短くされてはいかが?」
「ああ、それもいいかもな」
アンヌはもう一度、姿見をのぞき込む。
「ふむ」
それから、ソフィのほうを見た。
「いっそ、ソフィのように思いっきり短くしてみるか」
「! お、お戯れを!」
「ふふ、ショートヘアか。初等教育以来だな」
まるであるじの台詞に呼応したかのようにタイミングよく入室してきた執事のベルゾーイに美容師を明日呼ぶよう告げると、アンヌは再び妹のほうを見た。彼女が首をかしげているのを眼の端に留めたためである。
「どうした? ミレーヌ」
ミレーヌは頬に指を突いて、小首をかしげたまま、
「姉様、初等教育を卒業されてからもショートにしていらっしゃったような……」
空咳をしたのはベルゾーイ。そのままミレーヌに向かってアイコンタクトをした後、執事は唐突に切り出した。
「さ、アンヌ様。次はタラのポワレ――」
「ベルゾーイ」
アンヌの凝視に、執事は沈黙し、妹と直臣は怪訝そう。よかろう、忘れているなら思い出させてやる。
「15歳の時、午睡をしていたわたしの頭に色紙を貼り付けて、ジャック・オ・ランタンに変装させようとした痴れ者がいてなぁ――」
「お、おほほほ、姉様! 私、急に眠気が参りましたわ! ではお休みなさいませ!」
「待てミレーヌ! ついでにお前も短くしろ!」
「いえ、あの、私は今の髪型が気に入っておりますので」
「大丈夫。わたしが手ずから刈ってやる。ベルゾーイ! ハサミを持て!」
「アンヌ様、私が愚考いたしますに、刈るならバリカンのほうが手っ取り早いかと」
「ソフィ! あなたまで何を言ってるの?!」
アンヌの手から逃れようと逃げ回るミレーヌ。自分の周りを回る姉妹のドタバタぶりを見て、ようやく顔に笑みが戻ったソフィ。ドタバタの巻き起こす物音が気になるのか、いささか顔をしかめるベルゾーイとメイド。断髪騒動が落ち着くのに、ここからさらに15分を要した。
その後、アンヌはミレーヌから先般の戦闘結果について報告を受けた。
伯爵家の戦士は戦死者4名、重傷を負い戦線離脱をした者7名(いずれもバルディオールによる治癒で全快し休息中)。兵士たちは戦死者3名、戦線離脱者6名。
手にしたワイングラスが、重い。その中で赤ワインがさざ波を起こすのを、アンヌはじっと見つめていた。
「葬儀は……いつだ?」
「明日正午に、大聖堂にて」
「違う」
アンヌは眼を上げて、ミレーヌに問う。
「兵士たちの葬儀だ」
そこまでは把握していないのだろう、眼が泳ぐミレーヌに、ベルゾーイが助け舟を出した。
「僭越ながら申し上げます。亡くなられた兵士の亡骸は、既にそれぞれのご家族に引き渡されております。葬儀の日取りは、それぞれのご家庭で決められるかと思われます」
「調べろ、ベルゾーイ。それから――」
アンヌは椅子から立ち上がり、彼女の執事への指示を変更した。
「美容師の出番は後日にする」
4.
3日後。葬儀への列席を終えて、喪服のアンヌはリムジンへと戻ってきた。後部座席に体を預けて、ふぅと息を吐く。
対面に座るミレーヌが話しかけてきた。
「これで全て回られましたね」
「うん。……辛いな、葬儀というものは」
泣き叫ぶ子ども。その手前涙を見せられず堪える妻。親族たちの、遠慮がちながら突き刺さる視線。
「さ、姉様。次のことを考えましょう。取り合えず屋敷に戻って、美容師を呼ばれて、身支度を整えられたら――」
「ああ」とアンヌは少し苛立ちながら妹から眼を逸らして、窓の外を流れる景色に逃げた。
「猿どもに余計な時間を与えてしまいました。それだけが残念ですけど、でも大丈夫ですわね? 今度はソフィたちを連れて行くのでしょう?」
「ん、ああ」
(猿ども、か)
アンヌは窓の外を見たまま、失われた髪の端を弄ぶ。その思考は、先の日本滞在での記憶を手繰っていた。
確かに"猿"と形容するにふさわしい底辺層の奴ばらはいた。だが、偵察と称して日々出かけた街角には、親切で、はにかみ屋あるいは積極的で、知的な人たちがたくさんいた。フランク語が『 Bonjour 』しか通じないのには当初苛立ちを思えたが、それもアキバハラで出会ったあの娘の言うとおりだと腑に落ちてからは気にならなくなった。
(ユウナ……)
まず間違いなく敵の、炎系のエンデュミオールとして彼女に立ち向かってきた彼女。戦闘で彼女の腹を切り裂いた時、自分には全く躊躇が無かった。その事に愕然としている自分がいる。黒水晶は――今までも言われてきたことだが――変身者を冷徹かつ残忍にさせるようだ。
戦場で躊躇は死に繋がる。だが、あのOTAKUが群れる街でユウナと過ごした時間は、アンヌには自分でも驚くほど心に残っているのだ。まるで、まるで――
「――様! 姉様!」
ミレーヌの叱責に近い声に、アンヌは現実に引き戻された。髪をいじるのも止め、慌ててミレーヌのほうに向き直ると、声とは裏腹に心配げな表情がそこにあった。
「お疲れなのですか? 後日にしましょうか?」
「ん? すまん、全く聞いていなかった」と素直に謝る。顔を上げた時、運転席と後部座席の間の間仕切りが閉めてあることに気づいた。運転手は無論、助手席に乗るベルゾーイにも聞かれたくない話らしい。ミレーヌは、アンヌほどは他所人に信を置いていない。
「では改めて申し上げます。兵士3名が戦死に至ったのは、ディアーブルに修道院の壁を突破されてしまったからなのですけれど――」
自身のスキルが及ばなかったことが苦々しいのだろう、ミレーヌは渋面を一瞬見せたが、すぐに取り澄ました表情に戻って話を続けた。
「そのディアーブルは、結局修道院内へは立ち入れませんでした」
「ああ」アンヌは応じた。「アングル・スカーレットが討ち取られたからだろう?」
ミレーヌは首を横に振った。
「ディアーブルは切り刻まれていたのです」
不審と驚愕がない交ぜになった表情を催促と受け取って、ミレーヌは詳細を説明してくれた。修道院の敷地内に侵入を果たしたのは4体のディアーブル。その全てが、頭部や頸部、胸部に複数の斬撃を受けて、殺されていたというのだ。
「その死体を――もう無理か」
ディアーブルは殺されて3時間もすると、腐臭と言う表現がふさわしい悪臭を放つ黒い砂と化して崩壊してしまう。眉根を寄せるアンヌの眼前に、ミレーヌから写真が数枚差し出された。
手に取って観察する。確かに、深いところでは15センチ近い切創を受け、ディアーブルは絶命していた。"不信心者の衣"をまとったディアーブルにこれほどの傷を与えられるのは……一体誰だ?
「誰も。誰も、修道院の敷地内で戦闘をしておりません」
ゆえに勇敢な兵士たちが、ディアーブルにタックルでもって侵攻を阻止しようとして戦死したのだから。
「生き延びた兵士の証言によると、『回転する光がディアーブルに突き立ち、その身を切り裂いた。それは修道院の窓から飛んできた』そうです。もちろん捜索をさせましたが、人がいたと思しきわずかな痕跡以外はもぬけの殻でした」
「気に入らんな」
少し考えた末の、これがアンヌの出した結論だった。彼ら有翼族が自由に飛翔するため、無人機による戦域の監視や録画は行われていない。今回はそれが裏目に出たと言える。
「エンゲランドの loup-garou は、……そんな細いものは飛ばせないか。とすると、ジャーマニアの homme lezard か? ロスクヴァの tigre blanc か?」
姉妹ともに結論は出ず、話は此度の戦闘のことに戻った。
「損害が大きかったな」
「はい。迎撃ゆえ我々の打てる手は限られていましたが、ただ立ちはだかって防ぐというのは無策に過ぎました」
「どうしたらいいと思う? ミレーヌ」
姉妹で考え込むが、良い考えは浮かばない。
「私以外に戦況を見渡す者を置くか、ニコラ殿が少し下がって指揮を取ってくだされば……」
「ふむ……」
アンヌは考える。私では無理だな。何のための武器強化系かわからなくなるし、そもそも自分に指揮官適性がないことくらい自覚している。
ならばニコラかといえば、それも難しい。一族の重鎮となった今でこそ後方で控えるようになったが、元来アンヌ以上に前線で戦いたがる男なのだ。さらに後方で指揮に徹することなどできようはずもない。
ミレーヌは論外だ。彼女のスキルがあればこそ、多数の敵を食い止めることができるし、負傷をすれば即座に治癒もしてもらえるのだ。
「多数の敵といえば」
アンヌは堂々巡りになりかけた思索をやめ、ミレーヌを見た。
「やけに数が多くなかったか? 今回」
「ええ。まるで地獄の門扉が開け放たれたかのようでした」
さらりと言われたその一言に、アンヌは鳥肌が立った。それが事実なら、もはやヴァイユー家単独での防戦を諦め、他の貴血族に援軍を求めねばならない。それほどの一大事なのだ。
「まあそこまではいかずとも、封印に何かあったのかもしれません」
「それもまた一大事だな……」
アンヌは頭痛がしてきた。また髪の縮れに指を絡ませているのにも気づかないほど。
日本を侵略している場合ではないのではないか。その思いが浮かんで消えない。
晩夏の街は晴天の明るさに満ちていたが、アンヌの心は晴れなかった。