第一章「郷愁の念」第九話
剣闘士の大養成所であるルドゥスから、人気の剣闘士を保有する興行師達が兄カリグラに招集され、そして兄が提案した大胆な計画に、一同は舌を巻いていた。
「そいつはおもしろそうですな?ガイウス様」
「貧困層の市民には、単純明快な方が受けが良いんだ」
「剣闘士と犯罪者とは考え付きませんでした!」
「ガイウス様、いかがでしょうか?我々興行主としては、闘技会の復活を記念して大々的に宣伝する為に、ここはひとつ賭博行為をすることをお許しいただけないでしょうか?」
「賭けか!そいつは良い案だ!貧困層の連中は賭博に目が無い!」
兄は膝を打った。死者への弔いを意味する闘技会ではなく、ローマ市民の不満解消の為の完全なる娯楽提供には、やはり賭博は欠かせない材料なのである。
「奴らが騒いでくれれば、頭のお固いジジイ共も、目が覚めるであろう!」
「それと問題となるのは、勝利者に対する報酬です。奴隷や犯罪者であろうとも、スパルタカスのように反乱を決起されては困ります」
「酒、女、金、貧困層が羨むあらゆる褒美を与えて、奴らをギリシャの英雄のように讃えてやる。そうすれば仮に奴隷であっても、その名声だけは一人歩きするだろう!」
「おおお!」
「それだけじゃないぞ!自分の所有した剣闘士が勝利した場合、その興行主にも褒美を与えてやる!このガイウスが主催する闘技会を盛り上げてくれた者達全員に、全ての褒美をとらそうぞ!」
「おおおお!ありがとうございます!!」
そもそも徴募された奴隷達は、ラニスタと呼ばれる興行師が所有する剣闘士団ファミリア・グラディアートリアに所属することになる。その剣闘士養成所すなわちルドゥスでは、闘技を指導する元剣闘士の訓練士ドクトレや教練士であるマギステル、高度な技術を持つ医師そしてマッサージ師ウーンクトルなどが働き、長い期間を掛けて訓練をさせ、剣闘士の養成を行っていた。訓練の内容は、行進の仕方から武器の扱い、足技、突き刺した剣、動脈の見極め方などを訓練士から指導され、徹底的にしごかれることになる。通常は木製の剣を手に練習し、藁人形を相手に殴りかかる練習や訓練生同士の練習試合で経験を積む。訓練中の剣闘士は、闘技会以外での怪我と反乱を防止するため木製の武器を用いており、本物の武器は与えられることはまずない。これはスパルタカスの反逆から、教訓としてローマ市民が学んだ事でもある。興行師は勝ち残って解放奴隷となった元剣闘士から財を成すこともできたが、やはり富裕層からは卑業と見なされ、売春宿の主人と同様に社会的地位は低かったのである。だからこそ、兄カリグラ自ら讃える事は、剣闘士のみならず興行主にとってローマにおける名声の獲得は、何事にも代えがたい魅力的な報酬と言えたのである。
「剣闘士の種類は、いかがなさいますか?ガイウス様」
「お前達はムルミッロを用意しろ、俺はトゥラケスを用意する」
「なんと!」
トゥラケスとは、トラキア人風の武装をした剣闘士の呼び名である。湾曲したシーカ刀を武器に、パルムと呼ばれる小型の盾を構え、クレストと呼ばれる鶏冠状の飾りの付いた、いわゆるグリフォンを象った兜を被り、その後方には派手な羽根が大袈裟に飾り付けされている。ローマの奴隷反逆者である剣闘士スパルタカスは、トラキア人らしくトゥラケスの剣闘士であった。上半身はほぼ裸体で、両脚両足にのみだけ防具を備えている。一方、ムルミッロとは、魚を象った大きな兜を装備した剣闘士の呼び名である。ローマ軍団兵用の長刀グラディウスを武器に持ち、軍団兵用の長盾であるスクートゥム盾を構えている。比較的にローマ兵に近い格好ではあるが、全身を覆う鎧などは無い。
「ガイウス様!これは盛り上がりますぞ!」
「その通りだ!トラキア人と言えばスパルタカスを誰もが思い浮かべるであろう?そして一方はローマ軍団の兵士を思い浮かべるであろう。そうなれば会場は真っ二つに割れるはずだ」
"人の欲望を解放した者こそ、神として君臨できる"。
これは尊大で傲慢な兄カリグラが暗殺される間際まで、常に周囲に言っていた言葉であったが、まさに娯楽重視にした闘技会の提案は、ローマ市民の貧困層の渇きを潤す結果となるのである。
「いやはや、ガイウス様の想像を超える発案には、我々一同、平伏するばかりです」
「よいか!お前達!開催日はカエサル様を讃え、三ヶ月後をの七月とする!そして開催場所は軍神マルスの野、カンプス・マルティウスだ!」
先帝ティベリウス統治時代において、衰退の一途を辿るしかないと思われていたファミリア・グラディアートリアの市場は、兄の熱意によって一気に活性化へと繋り、それに伴って関連産業も潤いを見せ始めた。また幼稚な行為として兄を一笑した反対勢力である共和政支持派の元老院議員達も、日々高まる貧困層の熱狂的な期待を耳にするたびに、兄の存在を無視できなくなっていた。すなわち兄の誇大妄想は、否応無しに多くのローマ市民を巻き込んで行ったのである。
「アグリッピナお姉ちゃん、本当に剣闘士の闘技会が開催されるんだね!」
「本当にびっくりよ、リウィッラ。この間の戦車大会だってびっくりだったのに」
「お姉ちゃんは今までグラディアトルを見た事あるの?」
「あるわけないじゃない。ローマでは娯楽一切が禁止されていたんだから」
因みに、私は生涯を通じて、剣闘士の闘技会を一度も好きになる事はなかった。どちらかと言えば水泳など健康的な方が好きで、もともと殺し合いなどに興味が無いからだ。私の盟友となるセネカも同じ意見らしく、人殺しのみが繰り返される闘技会とそれに熱狂する観客の様子を、"流血と残虐とを好ませるだけで、人をいっそう非人間的にさせる"と断言していたほど。一方で、意外な人物を熱狂的にさせるのも闘技会の不思議な所で、あの人道的な政策を行っていたクラディウス伯父様でさえも、自身が第四代目ローマ皇帝として統治していた時代には、血沸き肉躍る剣闘士の闘技会を何度も開催して熱狂していた。きっと剣闘士の闘技会には、男性の闘争本能に訴えかける、何か吸引力みたいなものがあったのは間違いないだろう。
「なんということだ、アエミリウス。このまま闘技会が開催されてしまえば、あのカリグラの支持率はさらに高まってしまう!」
「そうだ!そうだ!なんとしても、お前は闘技会の開催を阻止するんだ!」
「しかも軍神マルスの野、カンプス・マルティウス行うとは!軍神マルスと言えば、進軍する者グラディウスの異称でも呼ばれている!ますます、ユリウス家とグラディウス家の強固な関係がローマの中心となってしまうではないか!」
「このままでは、スキピオ家とアエミリウス家は劣勢に立たされてしまうぞ!」
カリグラ旋風に慌てふためく長老層の議員達に対して、アエミリウスはもはや呆れかえっていた。
「何をいまさら仰っているのですか?開催宣言したカリグラを笑い物にして一笑したのは、そもそも貴方達ではありませんか」
「な、なんだと!?」
「熱烈な市民の指示を得た若輩者のカリグラを、自分達の意のままにしようとして、彼を侮った結果がこれではありませんか。そして四方八方を塞がれた途端に、右往左往して妨害を企てようなど!この熱狂に水を注ぐような事をすれば、ますます市民から反感を喰らうに決まっていますよ」
アエミリウスは的を得ており、彼の正論に誰もが閉口するしかない。
「確かにカリグラは、市民から欲望を引きだすのに長けていることは確かですが、とにかく今は、カリグラの言動と行動を静観すべきではないでしょうか?!」
同意できないアエミリウスの意見に対して、長老層はすぐさま反論を始めた。
「静観だと!?何を悠長な事を言っている!アエミリウス、貴様は自分がカリグラの寵愛を受けいているから、そんな余裕な事を言っているのだ!」
「何もしなければ、あのカリグラを認めたことになるではないか!」
「その通り!そうなってから策を弄しても遅いのだ!」
「あの小僧の暴虐な行動を、許すわけにはいかない!」
しかしアエミリウスは、彼らを諌めるように務めた。
「今更、何が出来るというのですか!?」
「なんだと!?」
「もはやあなた方は、カリグラ一人だけを相手にしているわけではありませんよ!あのローマの第一人者の後ろには、あの若者を熱狂的に支持をする多くのローマ市民がいる事を忘れてはいけません!」
「!!」
「それだけではありません!諸外国や属州国にも、ユリウス家の血を引くカリグラを支持する者達は多いのです!」
兄カリグラを支持する者達が多い理由には、私と同様に幼い頃、諸外国や属州国の国王の王子を引き取っていた祖母アントニア様のドムスで育っていた影響があるからだ。ヘロデ・アグリッパなどは正にその一人と言えた。説得力のあるアエミリウスの言葉に、一同は歯を軋ませながらも、何もできない苛立ちを隠しきれなかった。
「どうせユリウス家の私財を投じるわけですから、もはやカリグラも愚の骨頂です」
しかしただ一人だけ、余裕の表情を浮かべている人物がいる。
「いずれ市民から望まれ続ければ、莫大な開催費や維持費で破たんするのがオチです。その時でも、妨害を企てるのは遅くは無い筈でしょう」
そう、アエミリウスだったのだ。
続く