第一章「郷愁の念」第八話
女の嫉妬ほど醜いものは無い。
よく男性は私達を諌めるように言うものだけれど、それは男性が女性よりも嫉妬深いから。少なくとも男性は気が付かない振りをしているだけで、幾つになっても、赤ん坊が母乳を求めるように嫉妬するものだ。では、私たち女性の嫉妬が本当に醜いかと言うと、確かに醜いかもしれないわね。
「嫉妬だなんて、今のアグリッピナ様から、絶対に考えられません」
「アケロニア、あたしだって女なのよ。人並み以上に色々な事を、経験してきたものよ」
「それにしても、そのアエミリウスは酷い男性ですね」
「どうして?」
「だって、次々に女性を騙して、酷い男性に違いありません!」
侍女アケロニアがあまりにも真剣に怒るものだから、私はお腹を抱えて笑ってしまった。そんな私の姿にアケロニアはキョトンとしている。
「ごめんなさい、アケロニア。貴女があまりにも真剣に怒るからおかしくて」
「仮にも大母后アウグスタで在らせられるアグリッピナ様に対し、そんな不埒で無礼な行動した男性は許せません!」
「フフフ、ありがとう。貴女がそう言ってくれると、わたしも騙されて良かったと心から思えるわ」
「アグリッピナ様!騙されて良かっただなんて、どうしてですか?」
「いい?アケロニア。心を奪われてしまうと、騙されていると分かってても、まるでクピドの矢が刺さったように想い続けたいものなのよ」
「アグリッピナ様......」
そうね、私がそれなりに悩みを抱えながらもまだ若くて純粋で、そしてローマの表舞台において、何者でも無かった頃の話ですもの。そして兄カリグラが、ローマ市民から熱烈な支持を得て、大きな期待に満ち溢れた未来を、誰もが夢見ていた時代でもあったのよ。
「ガイウス様!!こちらを見てください!」
「ああ!神の子カリグラ様!」
「是非、闘技会の開催を!!」
行く先々で、兄カリグラは祝福を受けていたわ。まるでカエサル様の再来とでも言わんばかりに、市民の兄に対する期待は膨らむばっかりだった。その一方で、そういった人気を妬む長老層の元老院議員による妨害で、兄はなかなか自分の思うように執政を行う事が出来ない蟠りも抱えていた。
「アエミリウス、この右耳には、豪華絢爛なローマを謳歌したい市民の声が聞こえる。だが、この左耳には、共和政を復興せんとする輩達の邪念が囁いている」
「心中お察しいたします」
「俺はローマ市民の為に、娯楽を開きたいのだ!華やかな闘技会において、彼らが熱狂する姿を、興奮する躍動感を、間近で体感したいのだ!なのにクソジジイ共は、俺を子供扱いして一蹴するだけ!」
「彼らの名目上の言い分は、宗教的な側面もある闘技会を、単なる娯楽として価値を下げるような行為だと言っておりますが、ガイウス様が開催することで、更なる人気に歯止めが利かなくなる事を危惧しているだけでしょう」
「結局妬みだろうが」
「本当に残念です。ガイウス様ご自身が個人的に開催すれば、彼らもきっと文句を言えないはずなのに」
アエミリウスの何気ない一言に、兄カリグラはすぐに反応した。まるで心の琴線に触れたように、一つの誇大妄想が兄の背中を大きく押したのである。もちろん、それとなく誘導したのは、言うまでもなくアエミリウス本人であるが。
「アエミリウス、基本的な事を聞きたい。ユリウス家の個人的資産を投じて、闘技会を開催することは可能なのか?」
「もちろんローマの法律的には、何も問題ございません」
すると兄はひじ掛けをポーン!と叩いて、はしゃぐ様に大きく笑い転げた。
「あっはっはっはっは!それならそうと、最初に言ってくれよ!俺がクソジジイのご機嫌を取る必要なんて、端っから無かったじゃないか!」
「ただし剣闘士グラディアトル同士の試合になると、神官の許可などが必要になるかと思いますが」
「それなら戦わさなければ良かろう」
「と、言いますと?」
「対戦相手がと犯罪者であれば問題が無かろう?」
それは兄カリグラがローマにおいて初めて考案した、公開処刑を兼ねた娯楽として闘技会であった。そもそもエトルリアの伝承によれば、闘技会自体が死者の弔いを意味しており、ローマの内乱を経て、神官でもあるアウグストゥス様統治時代以降では、模擬海戦であるナウマキアと絡めることにより、先人達の偉業や戦いを讃える意味合いが生まれていた。
「死者の弔いをやりたければ、ローマの国庫から歳出すればいい話だ。だが、ユリウス家の個人財産から歳出すれば、風習や慣例、古格な礼節に捉われる必要は無いわけだ」
「し、しかし、そんなことは前代未聞ですね。犯罪者の公開処刑も兼ねた闘技会だなんて」
「いいか?アエミリウス。ローマの貧困層の奴らなんて勝手な奴らばっかりだ。片一方で穀物をくれと叫び、もう片一方では誰かを殺せと血に飢えている。その両方を牛魔ティベリウスは抑えつけていたわけだから、牛魔が死んだ今、彼らの欲望が一気に噴火しているのに、ジジイ共はまるで気が付かない素振りをしているんだ」
兄カリグラは確かに、鋭い視点を持っていた。これは幼い頃から、父ゲルマニクスと共に戦場に赴いていたからであろう。対ゲルマニア戦における非情さや情け容赦無さが、兄カリグラの洞察力を鋭くさせただけではなく、下層階級であるローマ軍兵士達の本質を、感受性豊かな幼い頃に捉える事が出来たのかもしれない。兄カリグラの衝動的な広大妄想は肥大化し、現実を帯びて行くのである。
「なんですじゃと!?」
「予はユリウス家の当主として、個人資産を使って剣闘士グラディアトルの闘技会を開催することにした」
元老院議員の長老層は呆気に取られてしまったのだ。先ず第一に、ローマの第一人者である兄が個人資産を投じて闘技会を行う事。開催宣言をわざわざ元老院議事堂で発言した事である。あまりにもずさんな手順と幼稚な姿勢に、一同は開口してしまったのである。
「これならば文句はあるまい?」
「お言葉ですが、ガイウス様。私達元老院には、それ以上にまだ討議すべき問題が山積みの筈です」
「なんだと?」
今まで苦渋を舐めさせられていた共和政支持派長老層の元老院達は、ここぞとばかりに兄カリグラに馬鹿にした。
「いささか唐突な宣言で、我らも動揺させられましたが、残念ながら稚気に富んだ妙案と受けざるをえませんな」
「確かに。ガイウス様らしくない、政治的手腕と言わざるをえません」
「ヨルダンの統治問題で、委任統治権を持つフィリポスの不信任案を提案されたお姿とは大違い」
「ヘロデ・アグリッパを擁立され、富裕層の不正に対して、厳しく揺さぶりを掛けられた威厳はどこへやら」
あからさまな蔑みに対して、兄カリグラは怒り心頭であった。
「貴様ら!それがローマの第一人者に対する礼儀か!?」
兄の怒声は天井高い議事堂内に良く響いた。今まであれば、誰もがその声に委縮していたであろうが、反対勢力の長老層は、子供の叫びと言わんばかりに厚顔で鉄面皮な表情を敢えて浮かべた。その中で、最も年長である長老の一人は、傲慢な兄カリグラの態度に業を煮やし、ついに議論の口火を切った。
「ガイウス様、貴方様は我々元老院が元首に対して礼節を欠いていると、そうおっしゃっておりますかな?」
「いかにも!予は貴様らから小馬鹿にされる覚えは無い!」
「それならばガイウス様も、元老院における討議の手順に従っていただなければ話になりません!」
「なんだと!?」
「そもそも、この元老院で討議されるべき案件は、ローマ国家における重大事項であります!我々議員を支持する市民の生活を、いかにより良いものへと改善すべきか?そして商人達が諸外国との貿易をいかに改善すべきか?日夜、我々が討議する事は、すなわちローマというこの国家の抜本的な礎を、いかに確固たる強靭なものにすべきかを論じる場所なのでございます!ガイウス様が個人的な資産を投じて、剣闘士と犯罪者を戦わせる闘技会を開催されるのは結構!しかし、この元老院議事堂において、そのような市民を堕落させる為だけの娯楽の開催宣言をすることは、太陽神アポロに対して、礼節を欠くものである事をよく理解すべし!」
兄はすぐさまその老人に殴りかかろうとしたが、横には親衛隊長官のマクロが控えており、すぐさま兄の右手を掴んで制止した。そして激情に流され、我を忘れて失態をせぬよう諫言したのである。それを見た反対勢力の元老院議員達は、一斉に笑いだしたのである。
「ガイウス様は一体何をされようとしたのですかな?アハハハハハ!」
「ははははは!どうやら、マクロの方が自分を律せられると見受けられる」
「そのようですな!あははははは。さすが親衛隊長官」
「若人にとって知恵を使うことには、少々難儀なのかもしれません」
マクロが手を離せば、今すぐにでも襲いかかるくらい、兄カリグラは顔を真っ赤にさせて、歯を軋ませながらその侮辱に耐え続けた。だが、この時共和政支持派の長老層は、一つの過ちを犯していたのである。むしろ稚気に富んで侮っていたのは兄カリグラを蔑んだ彼らであったのだ。
「見てろよ、クソジジイども!この俺カエサルこそ、ローマである事を証明してやる!」
続く