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紺青のユリⅢ  作者: Josh Surface
妻女編 西暦37年 22歳
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第一章「郷愁の念」第七話

ええ、そうね。非難されてもしょうがない事でしょうけど、この頃、私が心から愛した男性は、兄カリグラによって処刑を命じられるあのマルクス・アエミリウス・レピドゥスだったのよ。彼は兄の寵愛を受けながらユリウス家と友好関係を結び、私達兄妹の撲滅を企んでいたの。私は回想録を綴る筆を少し休ませ、侍女のアケロニアにその頃の淡い思い出を語り始めていた。


「そうよ、アケロニア。私は本当にあの人を愛していた。これが愛なんだとね」

「でもアグリッピナ様、アエミリウス様は、カリグラ様を暗殺されようとされていたんですよね?」

「ええ、だからきっと錯覚だったのでしょう。それでも、私は愛していたわ」


あの頃はまだ私も二十三歳。グナエウスと結婚して十年も迎え、自分では大人になっていたと思いこんでいた。けれど、まだまだ子供だったのよ。二度目の妊娠を迎えたばかりで、どこか先行きに不安を感じていたし、燃えるような恋への憧れや、階級を超えた理想や正義を信じていた。だからまさか、あの陽気で優しいアエミリウスが、心の奥深い部分で奸計をめぐらせているだなんて、これっぽっちも疑っていなかったの。いえ、ひょっとしたら今でも、あの美しい眼差しを思い浮かべる度に、私はアエミリウスの理想像を追い続けているのかもしれない。


「アグリッピナ様、ご機嫌いかがでしょうか?」

「ああ、アエミリウス!」


私の唯一の安堵は、彼の逞しい腕に縋る事。彼は人陰に隠れ、わざわざ辺りを見渡しながら私の唇を奪った。そんな子供っぽい彼の行動が、私には取っても新鮮だった。そうよね。いくら夫との夫婦関係が冷え切っているとしても、法律上、まだ私はグナエウスの妻である事は変わらない。アエミリウスにしてみれば、人妻に手を出しているわけで、姦通罪に問われる可能性もあるわけだ。


「その薄い唇で吸われる度に、私はどこかへ行ってしまいそう」

「貴女の魅力的な唇は、本当にどこかへ連れて行きたくなる」


私は思わず、どこへでも連れて行って!と叫びたくなった。けれど駄目。私は今、子供を宿している身じゃない!ああ、運命とは何とも数奇なのかしら。この男性の為なら、私はいくらでもヘラクレスの二つの結び目を解くというのに。


「一時だけでいいの。貴女のその腕で、少しだけの温もりを感じる事が出来れば」

「僕が貴女をこれ以上求めていたとしても?」

「うん。求めている人は、そんな風に聞いては来ないわ。人の本性って言動ではなく、行動で決まってしまうものでしょう?」


私は鼻をツーンと伸ばし照れ笑いをすると、アエミリウスは苦笑いをしている。でも心の奥では、私はそれでも求めて欲しかった。自分で情けない女だと分かっているけれど、彼と会えると時は世界はバラ色に満ち溢れ、彼と会えないときは闇に包まれるから。


「それでは、私の本性がいつか認めてもらえるよう、死力を尽くします」

「ええ、期待しているわ」


結局、アエミリウスはこうして立ち去って行く。私の気持ちを少しずつ、少しずつ奪い去りながら。一方、兄カリグラの過剰な愛情に苦しんでいたドルシッラは、数日間、寝室に閉じこもっていた。


「今日で三日目だよ、アグリッピナ姉ちゃん」

「全く、ドルシッラったら!あんた、いい加減に出てきなさいよ!」


しかし、寝室の扉は無言のままだった。私は両方の手のひらを上に向け、肩を竦めて呆れた顔をリウィッラに見せた。それでもリウィッラは心配そうにしている。


「もう、ほっときなよ、リウィッラ」

「でもさ、アグリッピナお姉ちゃん。ドルシッラお姉ちゃんは、ガイウスお兄ちゃんから無理やり離婚させられたんだよ。可哀想だと思わない?」

「たしかにそうだけどさ」


私のように異性に対して好き嫌いがはっきりしている性格ならいざ知らず、ドルシッラのように保守的な女性だからこそ、政略結婚であったとしても、良き妻としての役割を全うしようとするもの。なのに理不尽な兄の一言で、その役割を奪われ、無理やり離縁させられた夫からも、今後は恨みを買う訳になる。男性に依存しやすいドルシッラには、少なくとも耐えられるようなことではないのかもしれない。


「どうしました?」

「あ、アエミリウス」

「いえね、うちの妹のドルシッラが、ウェルキンゲトリクスみたいに寝室に籠城して出てこないの」

「そんな、アグリッピナ様。ガリア戦記ではないのですから。フフフ」


彼の頬笑みにうっとりしていると、横で末妹のリウィッラはジッとこちらを見ている。私は咳払いをして、気を取り直し、なんとかならないものかとアエミリウスに相談した。


「いいでしょう。私が中に入りましょう」

「ええ!?無理よ。あの子は一度決めたら、カタパルトでも壊れないんだから」

「お任せください、アグリッピナ様」


そういうと、アエミリウスはゆっくりと扉をノックして話しかけた。


「ドルシッラ様、アエミリウスです。少しお話をしませんか?」

「帰って!!」

「いいえ、帰りません。実はとっても美味しい果物を持ってきたんです」


そういうと、アエミリウスは葡萄の束をトーガの懐から取り出した。それを一粒ずつ千切ると、先ずは私に、そしてリウィッラに配り、最後に美味しそうに自分で食べ始める。


「アグリッピナ様、リウィッラ様。うまいでしょう?この葡萄」

「ええ!とっても美味しいわ!」

「うん。本当においしいよ」


もちろん、アエミリウスから貰った物はなんでも美味しいけど。やばい。気を抜いてウキウキしていると、隣でリウィッラがジッとこちらを覗いてくるんだった。


「どう?ドルシッラちゃんも食べない?葡萄が好きだって聞いたぜ」


うわ。いきなり馴れ馴れしくアエミリウスは話しかけた。それも、貧民街の伊達男が喋るラテン語で。こんなのは一番ドルシッラが嫌がるのに。アエミリウスだって、そのことは一番分かっているはずなのに。彼は扉を背もたれにしながら、ペタンと床に腰掛けて粘り強く話しかけていた。時には唄ったり、時にはホメロスの詩を引用して、コミカルな話をしたり。酷い時には、自分が水洗の公衆トイレで失敗した話をしたり。気が付くと私やリウィッラもお腹を抱えて笑ってた。


「ハハハハ、それで、その後、僕はそのまま突っ走ろうと思ったんだけど、何故かその床には葡萄の皮がいっぱい転がってて、"一体誰がこんなに食べたんだ?"って思ったら、なんとそれは、大食いのセウェラが食べ残した後だったんだよ~!」

「アハハハハハ!アエミリウス、どんだけセウェラは葡萄食べたのよ!」

「アグリッピナ様、きっとセウェラは、ユピテルの神殿を凌ぐぐらい食べたんじゃないかな?!」

「ダハハハハハハ!!」


気が付くと、寝室からもドルシッラの笑い声が聞こえてきた。彼女もお腹を抱えて笑っているみたい。隣にいたリウィッラなんか笑いすぎて、ほっぺたが痛いってしきりに訴えていた。本当にアエミリウスは、なんと魅力的な男性なんだろう。すると、寝室からドルシッラが声を掛けてきた。


「もうわかったから、アハハハハ!アエミリウス。お願いだから笑わせないで!」

「それでは、少しだけ、お話してもよろしいですかな?」

「ええどうぞ。でも、アグリッピナ姉さんと、リウィッラは絶対に駄目」


なによ。私達姉妹じゃない。私はカチンときて、ドルシッラに一言文句でも言ってやろうとしたが、すぐさまアエミリウスに制止された。彼は右手の人差し指をピンと伸ばし、私の唇に触れて静かにするようにと笑顔で懇願する。わたしも嬉しくなって、つい自分の唇を舌舐めずりをしてしまった。いけない、ドルシッラが横で見ているんだった。


「分かりました、ドルシッラ様。それでは、私だけが入りますので」

「本当よ」

「いいですね?アグリッピナ様、リウィッラ様」

「ええ、いいわよ」

「アグリッピナお姉ちゃんが言うなら」


こうして、アエミリウスはドルシッラ説得の為に、寝室へ入る事ができた。私達は彼に任せて、その場を後にする。もちろん妹のリウィッラから、私がアエミリウスと話している時だけ上機嫌なのかと執拗に疑われたのは言うまでもない。


「ドルシッラ様。ご気分は如何ですか?」

「お気遣いありがとう、アエミリウス。だいぶ良くなったわ」

「先日の事、もちろんアグリッピナ様やリウィッラ様には他言ですので、ご安心ください」

「ええ、ありがとう」


アエミリウスは優しくリウィッラの側に寄り添って、そして彼女の肩に手を添える。


「きっとガイウス様は、重圧に耐えなければいけない時期なのでしょう」

「そうね。第一人者である兄でなければ、その重責は分からない事なのかもしれませんね」

「姉妹の中で最も信頼を寄せるドルシッラ様にこそ、分かっていただきたかったのではないでしょうか?」

「ガイウス兄さん......」


ドルシッラは口を閉じて、俯いてしまった。それこそ、単なる姉妹を超えた過剰な愛情に、妹としてどうやって受け止めればいいのか?彼女も分からなかったのかもしれない。するとアエミリウスは胸を張り、陽気な笑顔を浮かべてポンポンと妹の肩を叩いた。


「ドルシッラ様、では私は、あなたのクロアカ・マキシモになりましょう」

「え?」

「ガイウス様の統治者たる故に肥大化する孤独感を受け止められなかった時には、いつでも、このアエミリウスをお呼びください。貴女のような麗しい女性には、それ相応の役割が必要なのです」

「そ、そんな事を言わないで。わ、私が麗しいだなんて、そんな事ないもの」


けれどアエミリウスは躊躇なく、大胆にドルシッラの両手を握って彼女の瞳を覗いた。


「いいえ貴女は本当に麗しい。それゆえに孤独の中で苛まれている。その苦しみは貴女一人が独占する者じゃない。せめて、世界に伝える事が出来ないのなら、貴女が麗しくいられる為に、この僕にも分けて欲しい」

「アエミリウス......」


自分を律することが生甲斐で、神々への祈りも毎日欠かさない妹ドルシッラですもの。まるでギリシャ神話の英雄のような、アエミリウスの歯の浮く台詞に疑いを持つなんて皆無。いいえ、私もそうであるように、女性ならばアエミリウスの巧みな弁舌を拒否できるわけが無い。気が付くと妹ドルシッラは、アエミリウスの逞しい腕にしがみ付き、あの薄い唇の虜になっていたのであった。


続く

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