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紺青のユリⅢ  作者: Josh Surface
妻女編 西暦37年 22歳
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第一章「郷愁の念」第六話


翌週、妹ドルシッラと夫ルキウス・カッシウス・ロンギヌスは、兄が叩きつけた様に離縁を余儀なくされた。


「何と言う事だ。一体、ドルシッラ様に何があったというのだ?」

「どうやら噂では、カッシウスが一線を越えたらしい」

「あの寛大で器局の大きいカリグラ様の逆鱗に触れたという事だな?」

「そうだ。天空神ユピテル様も、時には豪雨と雷を呼ぶこともある。カリグラ様もまた、妹君ドルシッラ様を考えて決断したに違いない」


世論と言うのは、はっきりとした枠組みが無いものである。それは彼らの噂話に根拠や責任が無いのと同じ事。少なくともこの頃の兄カリグラの乱心は、まだまだローマ市民には許容できる範囲内であった。妹ドルシッラの夫カッシウスは、ローマ市民と同じように兄を『カリグラ』と呼んで称賛しただけであったが、兄カリグラは気に食わなかったのだ。カリグラという愛称が、無力な幼き頃を思い起こさせるかのように。


「どうして?!ガイウス兄さん、どうしてカッシウスと離縁しなければならないのですか!?」

「奴はこの俺を軽視したからだ!そんな奴に、可愛いお前を任せるわけにはいかない!」

「そ、そんな!」

「それだけではない!あのカッシウスは、お前との夜の営みを、至る所で言いふらしているのだ!」

「!?」

ドルシッラは両手を口に添えて驚愕したが、それでも兄の語る夫の実態が信じられなかった。

「それは本当なのですか?ガイウスお兄様!」

「そうだ」

「そんなこと、カッシウスが本当に言っているのですか?」

「言ってるとも!兄の言う事が聞けないのか!?」


兄カリグラは思わず弾みで、妹ドルシッラの頬を叩こうとした。兄の振り上げた掌に、震えあがった妹の顔から血の気が引くと、兄は我に返えったらしく、まるで幼き子が母親に泣きつくかの様に、両膝で跪いてドルシッラの両足にしがみついた。


「ああドルシッラ!こんな兄を許しておくれ!」

「ガイウスお兄様......」

「俺は、俺は頭に血が上ってしまうと、何もかも許せなくなってしまうんだ」

「だったら、私の夫を許してあげてください」

「それは駄目だ!第一人者が一度決断したことを、そうコロコロと覆すわけにはいかない!」


困り果てたドルシッラだったが、それでもカッシウスの妻である以上、体裁は心得ている。


「それではあの人が、カッシウスが可哀想です。どうか離縁だけは!」


すると兄は眉を挙げて疑問を投げかけた。


「ドルシッラ、何故だ!?お前が結婚するとき、お前はこの俺から離れたくないと言ってたじゃないか!」

「そ、そうですけど。でも、お兄様、今は私はカッシウスの妻です」

「それが何だというんだ!お前は奴の妻である前に、この俺の妹ではないか!」

「あの人も大切なんです。きっと私の助けが必要なんです」


ドルシッラの両足にしがみ付いていた兄カリグラは、突然険しい表情を見せ、ドルシッラの頬に手を添えた。


「お前は幼い頃と寸分変わらない、この世で最も純粋に輝いた妹だろう?」

「ガイウスお兄様?」

「それなのにお前は、兄の言う事を聞かず、あの軽薄で無礼な男の肩を持つのか?」

「そ、そんなことありません」


すると兄カリグラは、ドルシッラの唇を親指でゆっくりなぞり始めた。


「な、何をなさるんですか?」

「お前のこの唇が、偽りのない真実を物語っていると?」

「も、もちろんです!お兄様には、何一つ、偽ることなどありません!」


だが、兄カリグラの指は、ドルシッラの唇から離れようとはしなかった。ゆっくりと何度もなぞりながら、獲物を捕らえようと待つ豹のように、震える妹の瞳を凝視している。ドルシッラの全身を不気味な罪悪感が襲い、必死に抵抗し続けようとする彼女の目尻に、一粒の涙が浮かび始めていた。


「ガイウス様!」

「!?」


偶然を装って通りかかったアエミリウスは、兄に悶え始めるドルシッラを絶妙なタイミングで救出した。


「ア、アエミリウス!?」

「ドルシッラ様はどうかされましたか?」

「あ、い、いや」


アエミリウスの救助に気が付いたドルシッラは、助けを求めるように必死にしがみついた。うろたえている兄カリグラの弱みを握ったアエミリウスだったが、それでも慎重さを欠くことはせず、機転をきかせて、むしろカリグラの立場を死守するよう努めたのである。


「これはひどい熱ですね?ガイウス様。ドルシッラ様をすぐに介抱しなければ!」

「あ、ああ、そうだ。妹が、ドルシッラが熱を出したからな」


妹も兄からそのような辱めを受けたなどと言えず、アエミリウスの演技に身を任せている。すぐさまドルシッラを抱えあげたアエミリウスは、寝室へと向かって、後は召使に看護するように指示。それでもアエミリウスの腕を離そうとしないドルシッラ。もちろん彼女の視線には、狼狽した兄の姿も見える。アエミリウスは優しく涼しげに笑顔を浮かべ、何も言わずに三度頷き、そしてゆっくり休むよう彼女を諭したのであった。


「アエミリウス、予は貴様の救助に感謝する」

「ガイウス様......」

「な、なんだ?」


だがそれ以上は口を閉ざすアエミリウス。さすがに立場が揺るいだと感じた兄カリグラは、口止めを始めたのである。


「か、勘違いをするなよ?アエミリウス。お前も成人したローマ市民なら、時に妹アエミリアと口論になり、激情することもあったであろう?」

「はい。しかし、今回の事とそれとでは......」

「今回の事は!お前の言いたい事は分かる」

「そうですか......」

「だから妹を躾けられなかった、この兄の至らなさが原因だということだ。それ以上も、それ以下も無い。分かったな?」

「......」


だが、この時のアエミリウスは兄カリグラより立場は上。自分の地位向上を仄めかす事など、造作も無い事なのである。


「分かりましたガイウス様。この事は、他言無用にしましょう」

「わ、分かってくれるか!?アエミリウス」

「はい。ガイウス様の神威に関わる事。これを侵す者あらば、その者はローマ人ならず」

「そ、その通りだ!」

「例えそれが、第一人者であってもです!」

「!?」


まるで兄カリグラの心臓を鷲掴みするかのように、アエミリウスはゆっくりと瞬きをして話し出した。


「ガイウス様もご存じのように、世界の統治者であるローマの神威は、何人たりとも侵すにあらずです。その事は、ガイウス様もよくご存じの筈です」

「わ、分かっている」

「その重大な責務を全うすることは、決して容易な道のりでないことも、カエサル様の血を引くガイウス様だからこそ、既に存じ上げていらっしゃる筈です」

「そ、そうだな。うん」

「常にガイウス様のおそばにいられれば、私はこの神威を守り抜くべく重責に耐えられるのではないかと思うのです」

「お前の言い分は理解した。すぐに考慮しよう」


数日後、兄カリグラの命により、アエミリウスは兄の参謀となる。今までの助言者であったヘロデの代行のように紹介されたが、実際には複雑な裏事情が存在していた。そして彼が参謀になった経緯も、決して偶然が重なったわけではない。


「これであのカリグラの小僧を一網打尽にできる!」

「良いか?アエミリウス!すぐさまユリウス家を陥れろ!」


しかし、アエミリウスは首を横に振った。


「結果をそうやって早急に求めるから、タプススの戦いでカエサル派に再敗北を喫して以来、貴方がたスキピオ家は、裏舞台に甘んじることになっているんだ」

「な、なんだと!貴様、言うに事欠いて、我らを侮辱するつもりか!?」

「そうではない。タプススの戦いでもあったように、ユリウスの連中へ戦象で突進すれば、あっという間に斧で足を狙われ、足をなぎ払われた戦象は無力化するに決まっているといっているのです」

「......」


スキピオ家の連中は、状況を現実的に把握しているアエミリウスの説得力には無力であった。


「そうではなく、友愛と寵愛を得ることによって、こちらから奴らの足を斧で狙う事が可能です」

「し、しかし、そんなことは可能なのだろうか!?」

「簡単ですとも。ユダヤの民の統治問題は、ローマ国家においても頭の痛い問題。そして一昨年よりローマを騒がせたイシス信仰の問題と、エジプトのユダヤ人問題は直結しているわけで、それならば、その問題を敢えて引き起こして、奴らの目の前に叩きだしさえすれば、彼らはガタガタと崩れて行くでしょう」


しかしスキピオ家の連中は、アエミリウスを小童扱いするように笑いだした。


「何を言うかと思えば、子供騙しもいい所だ。現在エジプト長官を務めているフラックスは、ティベリウスの友人でもあった。その彼が敢えて問題を引き起こす事などあり得るものか!?」

「それでは、その様にし向ければいい事でしょう。対立を作り出すのに思想の違いなどは必要ありません。必要なのは人間の暗部にある猜疑心。それだけで事足りるのですから」


こうして策士アエミリウスは、私達と親交を深めながら、堂々と暗躍していくのであった。


続く

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