第一章「郷愁の念」第五話
兄カリグラの政治的方向転換は、意外な支持を得て功を奏した。諸外国の王国や統治者たちも、新しいローマの第一人者が、若くて単なるお飾りだけではない事を認識したようだ。しかしそれでも祭好きなローマ人の気質が変わる事が無い。兄が市内を歩けば、市民達は兄に娯楽を求めるばかりなのである。
「ガイウス様!グラディアトル闘技会を開催してください!」
「お願いです!どうか!我々に娯楽を!」
元老院においては、反対勢力より牽制はされることがあっても、市民は如何なる時でも兄の味方なのだ。それぐらい、名門とはいえクラウディウス家の退屈で陰鬱な統治時代は嫌悪されていたのだ。兄カリグラとアエミリウスは、パラティヌスの丘からアウェンティヌスの丘を眺めながら話している。
「聞いたか?アエミリウス。これがローマ市民の声だ。そしてローマの第一人者であるこのガイウスこそが!ローマの耳で在り声なのだ!」
「仰るとおりですね、ガイウス様。きっと共和政支持派の長老層には、彼ら市民の声が聞こえないのかもしれませんね」
「俺は必ずやり遂げるぞ!今年中に、今まで誰も見た事が無いような、血湧き肉躍るグラディアトル闘技会を開催してやる!娯楽こそ、ローマが最も神々の恩恵から享受すべきものなのだからな」
アエミリウスは涼しい顔で陽気な態度であったが、内面では、いかに兄を堕落させるか奸計を巡らせていた。しかし、共和政支持派のスキピオ家の連中苛立ちながら、直にアエミリウスに抗議をしてきたのである。
「アエミリウス!何をグズグズしているのだ?」
「今ここで奴に手を出すのは時期早々。結果として功を奏しているカリグラは、まさについているとしかいえない」
「だからこそ!あの小僧の地位が強固なものになる前に、何としても蹴落とさなければならない!」
「お前達は幸運の女神フォルトゥナに愛された者の恐ろしさを知らないんだ!」
アエミリウスは険しい表情で、スキピオ家の連中を睨み返した。
「昨晩、奴が何をやったか知っているか?いきなり親衛隊連中から短刀のプギオを数本抜いて、一気にそれらを天井に放り投げた。そしてカリグラは、事もあろうに短刀が降り注ぐであろう真下に立ち、不敵な笑みを浮かべて両腕を広げ、そして目を閉じたんだ」
「!?」
「その場にいた誰もが凍りついた。親衛隊長官のマクロも、側近達も、カリグラの三姉妹達も。誰もがカリグラが大けがするであろうと。だが、全てのプギオはまるでカリグラの肉体を避けるように、次々と地面に刺さっていったんだ。まるで全ての結果をすでにカリグラが知っていたかのように」
「......」
「私は神々に対して信心深い人間ではない。だが、今のカリグラは乗っている。全ての事象を超えるような言動や行動を得意とし、見事にそれらを自分の功績としている。それはまさしく、女神フォルトゥナに愛された者としてふさわしいだろう」
恐ろしいまでに運に恵まれているカリグラの実態に、誰もが絶句していた。
「じゃが、このまま手をこまねいて静観し続けるわけにはいかん。いずれクラウディウス家は攻勢に入るであろうから、その前に、我々スキピオ家とアエミリウス家で、なんとか共和政復権運動の旗手と成らねばならぬ!その為にも、カリグラから寵愛されているアエミリウス、お前が何としてでも、クラウディウス家よりも先に一手を詰めなければならぬ!」
「分かっております。その為の手筈は、既に整っております」
「それはどういったものなのだ?」
「アグリッピナ、ドルシッラ、リウィッラの三姉妹ですよ。特に次女のドルシッラに対する溺愛と言うべき可愛がり方は、もはや兄妹の域を超えている。なんとかその間に入れるよう、ドルシッラと彼女の夫ルキウス・カッシウス・ロンギヌスが離縁する手筈を整えております」
「わかった。おぬしを信頼しよう」
アエミリウスは何も応えず、スキピオ家の連中に背を向けた。だが、その背中は多くを語っている。ユリウス家撲滅を心から願う者としての覚悟を。さて、その頃ルキウス・カッシウス・ロンギヌスは、兄カリグラや妹ドルシッラと共に、トリクリニウムで会食を楽しんでいた。
「あははは!しかしカリグラ様。この間の元老院達の狼狽ぶりは、本当に愉快でしたな?」
「ああ確かにだ、カッシウス。あいつらの慌てぶりは、まさに子供も同然」
「これでカリグラ様は胸を張って、グラディアトル闘技会を開催出来る事でしょう。何せ、市民もそれを望んでいるのですから」
「グラディアトルの闘技会開催は、彼らローマ市民の望み。第一人者であるこの俺が、奴らの望みを叶えられなくては末代までの恥!」
「そうです!"カリグラ様!万歳!"」
カッシウスは長椅子に横たわりながら、大声で万歳三唱を始めた。しかし暫くすると兄カリグラは突然葡萄酒のグラスを投げつけた。
「痛っ!!」
「カッシウス!大丈夫!?」
グラスを顔面に喰らったカッシウスは、額から血を流して苦しんでいる。妹のドルシッラは、すぐに夫の側へ駆け寄るが、兄カリグラは蛇のような眼つきでカッシウスを睨んでいた。
「ガイウスお兄様!?一体どうしたのですか!?」
「ドルシッラ、お前は黙っていろ」
「でも、お兄様!」
「黙っていろ!!」
兄の怒声を浴びたドルシッラは、恐怖のあまり硬直するしかなかった。兄はゆっくり長椅子から身を起こし、そして苦しむカッシウスの側に近寄ると、髪の毛をおもむろに掴んで自分の側まで引き寄せた。
「カ、カリグラ様、な、何故私にこのような酷い事を!?」
「その愛称が気に食わんと言っているのが分からないのか!?」
「!?」
「この間の会食の時にもそうだ!自分の言動に責任を持てず、自分の置かれている状況を把握することができないのは、そいつ個人の問題だと言ったのを忘れたか!?」
「し、しかし!そ、それはカリグラ様が、貴族達に畏敬の念を抱かせる為の演技でしたはずです!」
「だからと言って、貴様の無礼を許したわけではないぞ!」
「そ、そんなこと!もちろん無礼な事はしたつもりはありません!ただ、ローマ市民の声はローマの声!それに私は従ったまでです!」
「では貴様は、貧民層の声のみに従い、その愛称を嫌うこの俺自身には従わなかったわけだな!?」
「な、何故そんな理屈になるのですか!?ド、ドルシッラ、なんとか言ってくれ!今夜のお義兄さんはどうかしているぞ!」
再び、カッシウスの額の上で葡萄酒グラスが粉砕。ドルシッラは、自分の夫を傷つける兄を制止した。
「お兄様やめてください!」
「うるさい!ドルシッラ!」
辺りには葡萄酒とカッシウスの血が飛び散り、大量の流血をしているカッシウスは、さらに苦しんで身体を曲げている。
「カッシウス!貴様はローマの第一人者であり、カエサルであるこの俺を愚弄したのだ!貴様は国家の恥だ!我がローマに、そのような輩は必要ない!」
「ううう......ガ、ガイウス様、お許しください」
「成らぬ!いいか?我々ローマ人は常に誇り高く、目上の神威や権威を敬い、そして自らの言動や行動に責任を持っていなければならない!それが我々ローマ人がが常に意識しなければならない、誇るべき真実ヴェリタスなのだ!それなのに貴様は!自分の非礼を棚に上げ!自分の妻に助けを乞う等とは!軟弱者で蛮族が行う卑怯なやり方だ!」
その場にいた誰もが、兄の唐突な怒りに震えあがっていた。
「そんな無礼な輩に、我が愛する妹ドルシッラを任せるわけにはいかん!」
「お、お兄様!?」
「ドルシッラ、お前はこの時を持って、カッシウスと離縁するのだ!」
「!?」
なんと激昂した兄カリグラは、その場でカッシウスに対して、妹ドルシッラとの離縁を叩きつけたのであった。
続く