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紺青のユリⅢ  作者: Josh Surface
妻女編 西暦37年 22歳
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第一章「郷愁の念」第三話

兄カリグラが自分の未熟さを痛感している頃、私は一人、パラティヌスの丘でボーっと下界を眺めていた。それもそのはずで、耐えがたい将来への不安感と虚脱感が交互に襲ってくるからだ。これでも私は避妊や堕胎法として、薬草のシルフィウムを月一回飲んでいたのに。グナエウスに自分の身体を求められる度に、私は不快感と嫌悪感だけを感じていたので、子供だけは二度と宿したくはなかった。なのに、どうして神々は、こんな私に子供を産めというのだろうか?


「今日も元気がありませんね?アグリッピナ様」

「ああ、アエミリウス」


私は吸い込まれるように彼を抱擁し、流れるようにその薄い唇に口づけをした。彼は少し苦笑いした表情で困惑したまま、それでも優しく私を受け止めてくれる。


「迷惑だったかしら?」

「いいえ、とんでもない。ただ、人目もある事ですし、その、びっくりしました」

「あら?この間は大胆だったのに」

「それを言われると、面目ありません」


私はアエミリウスと共にいる時だけが、安らかな時間を過ごせている気がした。もはや、自分の周りで起きている変化にも対応できず、自分だけが取り残されている疎外感を紛らわすように。アエミリウスは低い石塀に両肘を乗せながら、下界を眺めている。


「どうやらガイウス様は、かなり苦戦を強いられている様子ですよ」

「え?兄が?」

「戦車競走に続いて開催しようとしていたグラディアトル闘技会の提案を、反体勢力の連中に阻まれたようですから」


意外だった。

あれほど兄カリグラ旋風が吹き荒れていると思ったのに、もうすでに元老院ではその神通力が途切れ始めただなんて。


「さすがローマです。先行きが見えない運命を抱えた首都とも言える。ただ、その存在感だけは、まるで周りを喰らい尽くすような魔物にも感じます」

「ローマが魔物。そう、その昔、同じような事を言っていた人がいたわ」

「誰ですか?」

「初代皇帝アウグストゥス様の奥様で在らせられる大母后リウィア様よ」


生前の大母后リウィア様は懸念されていた。

世界を統治する国家ローマが、圧倒的で確固たる存在感を増すと同時に、諸外国からはその覇権を狙う様々な魔物が暗躍すると。その魔物は決して表に姿を現すことなく、事態を静観しながら、自分達の有利に状況を抑制しようとする。そして、異教の息の掛かった連中を使い、ローマの貴族を隠れ蓑にしている。だからこそ、アウグストゥス様がユリウスとクラウディウス家という生涯世襲に拘り続けた理由には、そういった外敵とも思える魔物からこのローマ守る事にあったのだ。


「なるほど、決して表に姿を現すことなく、事態を静観しながら、自分達の有利に状況を抑制しようとする、か。確かに、怪しいと思えし人物達は、貴族連中の中に、いなくもないですね」

「え?」


私はアエミリウスの言葉に耳を疑った。


「それはどういう事なの?アエミリウス」

「ローマの富裕層が得る利益の殆どは、本国での生産に頼ってはいないというのが現状なんです。開墾もされていないユダヤの土地購入などの不動産投機がいい例ですよ」

「でも、生前の神君カエサル様は、元老院議員や貴族だけが潤う社会不正を無くすため、属州だけでなく本国にも融資をさせる法を制定したでしょう?」

「確かに。ですが、その回避策として彼らは融資先が属州の場合、不正に金利を上げているわけです。当然、属州国の富裕層もそれに関与するわけで、連中は属州国の貧困層の現状など気にもせず、属州の富裕層と手を組むことで便宜を図ってもらっい、資産益をしているわけです。そうなればローマに対する属州国の干渉も少なくはないでしょう」

「先帝のティベリウスも、同じことを懸念していたわ。だからこそ大母后様からは、首都から離れ、カプリ島から冷静に現状を見つめていたと」

「まぁ、それが結果的に不正の防止を足り得たか?という意味では、倫理的にいささか疑問が残る所ではありますが。けれども、生前のティベリウス様が鋭く監視をされていたからこそ、その存在感こそが、元老院議員の不正に対しては抑止力になっていた事は間違いないでしょう」

「それじゃ、兄ガイウスでは不正に対する抑止力には足り得ないと?」

「そうは言っておりませんが、少なくとも手綱を抜けた狂犬達が、何時までも黙っているようには思えませんよ。そういった意味でも、年齢的にも実績的にもまだ若いガイウス様を、ローマ国家の第一人者として容易に承認した理由には、彼らの利潤が絡んでいると言っても間違いないでしょう」


近頃やけに兄カリグラからは贔屓にされているアエミリウスだけあって、鋭い洞察力と現状を把握する能力に長けている彼に、私は終始感心していた。


「フフフ、アエミリウスは弱者の味方なのね」

「そんなことはありませんよ。ただ僕は、貧困層の圧政に耐えられないだけなんです」

「どうして?」

「元気だった頃の妹から、よく、路上生活孤児達の現状を聞かされていたんです」

「アエミリアさん......」


アエミリウスの妹であるアエミリア・レピダは、兄ドルススがまだ長兄ネロと険悪な関係なときに、ローマでの路上生活孤児達の救済活動を通じて知り合った女性。彼女の父親アエミリウス・レピドゥスは、母ウィプサニアの姉ユリヤ様とは義兄妹だった。とても気さくで心優しく、物怖じしない言葉遣いで、明るくゆかいな女性だった。しかしセイヤヌスの毒牙によって強姦され、男性に恐怖を抱いた彼女は殆ど廃人と化してしまったのである。


「今でも、アエミリアさんは寝たきりのまま?」

「だいぶ良くなりましたがね。けれどドルススさんの話になると、やはりまだ抵抗があるみたいです」

「ドルスス兄さんは、本当にアエミリアさんを心から愛されていたの。そしてあのような残酷な事件に、アエミリアさんを巻き込んでしまった事を、死ぬ間際まで悔やんでらしたわ」

「そうだったんですか」


いつもは陽気なアエミリウスでも、妹のアエミリアさんの事になると、彼の横顔は真剣そのものであった。


「これも何かの縁でしょうね、アグリッピナさんのお兄さんを助けに行ってきます」

「え?ガイウス兄さんを?」

「はい。わがアエミリウス家族は、神君カエサル様に補佐官として仕え、共にルビコン川を渡り、ポンペイウス様が首都ローマを放棄した後に法務官となった経緯があります。そして今もまた、ユリウス家にはお世話になっているわけですから」

「アエミリウス......」

「ご安心ください。少しの知恵と勇気があれば、大体の事は解決できるものです」


頼もしい。私は心底からそう思った。

再びアエミリウスが顔を近づけてきて、私の唇を一瞬で奪い去ると、陽気な笑顔を浮かべながら風のように去ってしまった。

ああ、私って本当に情けない女。こんな時は情に流され、アエミリウスの全てを受け入れたいと思っている。ティベリウスの宮殿方面で彼の姿が見えなくなるまで、私はずっとその逞しい後ろ姿を眺めていた。


「どういうつもりだ?アエミリウス」

「貴様はそれでも共和政主義者か?」


だがアエミリウスは何も言わない。


「アグリッピナやカリグラ達に媚を売って、まさか自分の妹の復讐を忘れたわけではあるまいな!」

「!?」


一瞬にして、暴言を吐いたスキピオ家系の長老の首はアエミリウスによって絞められた。


「忘れるわけがなかろう!ユリウス家に嫁いだおかげで、愛すべき妹があのような辱めをうけたのだ!」

「うぐぐぐ!苦しい!は、離してくれ!」


命乞いをする醜い老人、アエミリウスはムキになることも無駄と感じて、老人の首から手を離した。他の連中はアエミリウスの本気を感じ取り、自分達が彼自身を愚弄したことを悟った。


「すまなかったアエミリウス。貴様がユリウス家に対して、今も決して仇打ちを忘れていない事は分かった」

「当然だ!」


まるでギリシャの復讐神アレクトに魂を売った武人の如ごとく、眼光炯々、口をへの字型にぎゅっと引き結んでパラティヌス丘のティベリウス宮殿を睨みつけているアエミリウス。


「ユリウス家の兄妹を根絶やしにするまで、俺の復讐は終わらない!」


続く

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